マガジン9

憲法と社会問題を考えるオピニオンウェブマガジン。

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これまでの「今週のマガジン9」

'13.08.07+14

VOL.415

日本を孤立に導きかねない政治家の妄言に眩暈を覚える夏

 麻生太郎副総理大臣の「(憲法改正のためには)ナチスの手口を学んでみたら」発言に対する怒りの声が国際社会に広がっています。麻生氏は「私の真意が正しく伝わらなかった」とし、発言を撤回しましたが、日本での自身によるこれまでの失言と同じレベルでとらえていないでしょうか。
 「真意が正しく伝わらなかった」という釈明を聞いて、「なるほどこちらの誤解だったのか」と話をちゃらにするほど国際社会は甘くありません。ロサンゼルスに本拠をもつ国際的なユダヤ系人権団体、サイモン・ヴィーゼンタール・センターは抗議の声を強めています。
 さらに驚くべきは、橋下大阪市長が麻生発言を「行き過ぎたブラックジョーク」と称したことです。ナチスとユダヤ人の問題について「ブラックジョーク」と言う場合、多くの人は強制収容所での大量虐殺に関する、聞くに堪えないユダヤ人蔑視の小話を連想します。橋下氏はそこまで想像力が働かなかったのでしょうか。
 麻生氏の発言に関しては、アメリカだってユダヤ人を差別し、ナチスのやり口を踏襲したことがあったではないか、という声を聞きます。戦時中、アメリカの自動車大手フォードはドイツに工場をもち、当時、強制収容所から労働力としてユダヤ人らを働かせたことがありました。連合国はポーランド亡命政府の密使がアウシュヴィッツで何が起こっているのかを伝えても、真剣に受け止めようとはしませんでした。
 しかし、「こっちも悪いが、あんただってやったじゃないか」という論法は、日本国内はともかく、国際社会で受け入れられるものではありません。橋下氏が、自身の従軍慰安婦容認を巡る発言に対する国内外からの批判を受けて、「欧米だって同じようなことをやったじゃないか」という趣旨の反論を展開した際、とりわけ女性の人権に敏感なアメリカに深い失望や怒りを植え付けました。
 それにしても、どうしてこんなに「国益」を傷つけるような発言が続くのか。麻生氏は東京五輪招致委員会の特別顧問です。4月には猪瀬直樹東京都知事のイスラムを侮辱する発言があったばかり。ユダヤ系のIOC委員は今回の麻生発言をどう受け止めているのでしょう。
 いみじくも日本政府は集団的自衛権行使を容認する憲法解釈の変更を目指しています。日本の場合、集団的自衛権を巡る議論はもっぱら対米関係に限られたものに終始し、日本が独自で平和構築のために貢献できることは何かといった視点を欠いたままですが、そんな日本の副総理がアメリカ訪問さえ憚られる立場にある。
 先の戦争が終わって68年目を迎えようとしています。世界がグローバル化に向かって進んでいるなかで繰り返される、日本の政治家の妄言に眩暈を覚える夏です。

(芳地隆之)

'13.07.31

VOL.414

今そこにある危機

 というトム・クランシ―のスパイ小説があります。このタイトル、いまの日本にこそふさわしいのではないでしょうか。
 日本の総人口1億2753万人のうち、65歳以上の高齢者人口は3074万人と初めて3000万人を突破し、4人に1人が高齢者になったと総務省が発表したのは昨年(2012年)9月でした。2007年からは死亡者数が出生者数を上回っており、こうした傾向が続けば、2040年には人口がいまより2000万人減少するといわれています。
 高齢者が増え、若年層は減れば、社会保障(医療、年金・福祉等)の支出は膨らみます。2010年の社会保障支出は103兆4879万円で、初めて100兆円台を超えました。
 2012年末の国と地方自治体の長期債務残高は約940兆円(見込み)です。ヨーロッパではギリシャをはじめ、ポルトガル、イタリア、スペインが深刻な危機に陥りましたが、国際通貨基金(IMF)によると、ギリシャの国家債務は対GDP(国民総生産)比で171%、イタリアは126%、ポルトガルは119%、スペインは91%。一方、日本のそれは237%と、先進国のなかで突出しています。
 日本企業の海外流出の流れは止まりません。2012年12月時点の製造業の就業者数は998万人。ピークだった1992年10月の1603万人と比べ、約4割減少し、製造業が日本のGDPに占める割合は、1980年の27.1%から、2011年には18.6%まで低下しました。
 製造業の比重の低下による影響が最も表れるのは非正規雇用です。景気が悪化すれば、真っ先に雇用の調整弁とされます。15~24才の年齢層における非正規労働者の割合は、2010年時点で43%。翌年の同世代の失業率は8.2%と、全世代の4.6%を大きく上回っています。
 以上、悲観的な数字を並べました。これに、いまだ収束からは程遠い東京電力福島第一原発の事故処理を加えた諸問題にどう対処していくか。自民党政権から具体的なビジョンを聞いたことがありません。人口が減り、モノづくりをしなくなる日本で、アベノミクスはどうやって経済成長を実現するのか。誇りとか、毅然とか、断固たる、といった抽象的なことを語っているのは楽でしょうが、本気で仕事に向き合う人間は、解決の難しい問題から着手するものです。
 先日、毎日新聞が行った世論調査では、集団的自衛権について、行使できるようにした方がいいと「思わない」とした人が51%に達しました。安倍晋三首相に一番に取り組んでほしい国内の課題は「景気回復」が35%と最多で、首相がこだわる「憲法改正」は3%にとどまったそうです。
 私は、この国の為政者よりも、国民の方が日本の直面している危機を正しく認識していると思います。

(芳地隆之)

'13.07.24

VOL.413

二大政党制の時代は終わった

 先の参議院選挙の投票率は52.61%。戦後3番目の低さだったそうです。
 選挙権の行使は民主主義の根幹であり、この数字は残念ですが、反面、頷けるところもあります。選挙が面白くないからです。
 民主党が政権を獲得した4年前の夏以降に行われた国政選挙は、どれも懲罰的な様相を呈していました。戦う前から「与党は惨敗」とか「野党の圧勝」という予測がマスメディアから早々に報じられる、まるでデキレースのような選挙に、有権者の半分近くが投票に出かける意欲を失ったとしても不思議ではありません。政権交代の緊張感を生み、与野党が切磋琢磨するような政治を目指した二大政党制が、与党から緊張感を失わせかねない、皮肉な結果を生んでしまったといえます。
 選挙の面白みのなさのもう一つの理由には、自らの旗印を明確にして戦う政党が少ないことがあると思います。
 たとえば経済政策、税制、憲法、TPP、原発などについて民意は様々です。ところが数で勝負せざるをえない政党は、これら日本の未来を決める事柄に対して違う意見をもった候補者を抱えざるをえません。そのため選挙後の政権運営で、国民が「そんな話、聞いてないよ」と思うようなことが起こる。そして、その反動が次の選挙で極端なかたちとして出る。その繰り返し。与党に白紙委任をするような選挙はあえて棄権するという人の気持ちもわかるのです。
 そういう意味で、今回東京選挙区・無所属で立候補した山本太郎さんと全国比例区・緑の党グリーンズから立候補した三宅洋平さんの存在は新鮮でした。ネットと路上で有権者とつながり、脱原発、脱被ばくを中心に、TPP反対と過酷な労働環境の改善に争点を絞った選挙戦は、力強い経済成長とか、子供たちが誇りのもてる教育とか、やさしい社会といった他党の抽象的なスローガンとは一線を画していました。
 山本さんは666,684票を得て当選。テレビの選挙特番のインタビューで、選挙後の自分を有権者はしっかりウォッチしてほしい、(自分ではない候補者に入れた)有権者は支持した政治家の尻を叩いてほしいと語っています。いわば民主主義の基本。こうしたことを語る政治家がいままでいたでしょうか。
 三宅さんは176,970票を得たものの落選。しかし「選挙フェス」という新しい手法で、今まで政治に無関心だった若者たちを確実に惹き付けました。 単なる「アンチ」に留まらない彼らの姿勢やストレートに訴えかける言葉は、ネットでまたたくまに広がっていきました。言うまでもなくそこには、大手代理店の専門チームなど存在しません。
 こうした一個人の決意と行動が世の中を変えていくかもしれない。そんな思いも抱いた選挙でした。

(芳地隆之)

'13.07.17

VOL.412

太郎と洋平

 渋谷のハチ公前広場で、雷雨があがった蒸し暑さのなか、私は涙をこぼしていた。
 通行人に押され、将棋倒しになりそうになり、怖かったからじゃない。「選挙フェス」という幕を掲げた急ごしらえのスタンドの上に、二人の候補者がいたからだ。
 山本太郎と三宅洋平。「無所属で東京選挙区」と「小さな政党・緑の党からの比例区」。この俳優とミュージシャンがいま、私に涙を流させる。昨年の衆議院選挙最終日、高円寺の駅前広場でも立候補した太郎を応援している洋平を見た。そのときから、そういえばこの選挙に出ると宣言していたっけ。
 この二人、いいです。すごく、訴えかけるものがあります。太郎の演説は、やはり俳優ならではです。選挙戦終盤は、疲労がたまっているのか時々言葉につまるけど。頭の大きな円形脱毛症が心配になるけど。誠実に、わかりやすく、どうしてこのままでいいのか? この空気の読めないバカを応援してくれ、と切々と。歩みを止めない若者たちにまで声をかける。
 そして、洋平は音楽です。歌です。その合間に語りかける決意です。みんな動き出そうぜ、太郎を一人にはしない。革命はテレビに映らない!! 思いが音楽に乗り、とても考え抜かれた強いメッセージが熱く……がんがん五感に響いてくる。
 たしかに、太郎も洋平も(自分たちも言うように)国会に行ったら、もみくちゃでしょう。何もやらせてもらえないかもしれない。でも心に迫るんですよ、彼らの言葉は。アラブの春で詩人が重要視されたように、オバマの演説がアメリカを変えたように、私には届くんですよ、思いが。
 私は年甲斐もなく、ハチ公前の聴衆のなかで手をたたき、「そうだ」と叫んで、最後にはなんだか感動しました。カンパたくさん、しちゃいました。
 今週の土曜日、選挙戦最終日。もちろん、私はハチ公前に行くつもりだ。かなりの人数があつまることになるだろう(集まってほしい!)。二人が簡単に当選できるとは思ってはいない。だけど、あのメッセージと歌は、彼らの言葉は、聞いておくべき!
 みなさん、何かが始まったのかもしれません。

*彼らの政策、主張は、情緒的なこの文章では書ききれません。ネットで調べてみてください。
*投票には必ず行きましょうね。

(気仙沼椿)

'13.07.10

VOL.411

参院選挙の争点は?

 いよいよ来週末は、参院選の投開票日です。テレビや新聞でも連日この話題ですが、それらによると今回の選挙の争点は憲法、原発、TPP、景気回復…。そして「ねじれの解消」という言葉を、安倍首相はさかんに言っていますね。しかし、「ねじれ」を争点に有権者に訴える、ということには、違和感があります。それは選挙結果がもたらすことであって、「党の主張」やマニフェストとは違うはず。またここに、言葉のトリックがあるように思います。

 さて、もう一つの大事な争点を忘れてはないでしょうか? 「平等」や「ジェンダーバランス」についての視点です。安倍首相は「女性の活用や女性役員の登用」ということも、しばしば口に出してらっしゃいますから、その辺りはきっちり考えているのかと思いきや…。自民党の候補者における女性の割合を調べてみてびっくりです(選挙区/7.69% 比例区/16.13%)。このあたりのことについては、「全日本おばちゃん党」のfacebookに「女性議員、出せよ増やせよプロジェクト」に、詳しく紹介してあります。

 それによると、このバランスの悪さは、自民党だけでなく、民主、公明、共産、維新も、選挙区も比例区も30%に達していません。日本政府は、「2020年までに指導的地位に女性が占める割合を30 %以上にする(通称:2030にいまるさんまる)」という政策を進めているのに…です。政治という国や社会のあり方を決めるところは、男性の牙城だから、渡したくないとでも思っているのでしょうか、とでも勘ぐりたくなるような数字です。

 ともあれ、現在の日本の国会議員の女性の割合は、8%(衆議院)、13%(参議院)という現実があります。これは、女性が人口の半分ということを(実は日本においては女性の方がやや多い)考えたときに、きわめて不自然な数字です。そしてこのことは、今の日本社会の閉塞感や、原発事故に関するデタラメがまかり通っている感じなどと、無関係とは思えないのです。もちろん、女性がいつも正しい選択をする、という意味ではないですが。

 ということを考えていたところ、先日来日して話題になっていたfacebookの最高執行責任者、シェリル・サンドバーグさんのインタビューがテレビから流れてきました(「クローズアップ現代」7/9放送)。「女性の内なる障壁――自己評価の低さや罪悪感が、女性リーダーを作ってこなかった」。彼女のこの発言は、アメリカで大激論になったそうです。

 「ジェンダーバランス」の問題は、日本だけの問題ではなかったわけですね。3年後に予定しているという、全世界「おばちゃん党」サミットに向けて(!?)、私たちは、まだまだ、挑戦しなくてはならないことがたくさんあるようです。まずは、今度の選挙で誰に一票を投じるか、いつもと視点を変えて、じっくり考えて出かけていきたいと思います。

(水島さつき)

'13.07.03

VOL.410

国民の自由の権利に義務は伴わない

 一般の法律と憲法の違いは、国が国民に守ることを命ずる前者に対して、後者は国民が国に守ることを命じるもの――ということを、先日開かれたマガ9学校「参院選前に考える!立憲主義と民主主義~主権者って何をする人?~」での、伊藤塾の塾長、伊藤真先生の講演で再確認しました。

 伊藤先生は、自民党の改憲案が憲法を一般の法律と同じレベルにしようとしていると指摘し、たとえばこんな話をされました。

 「自民党議員の改憲論者は、『国民は権利を主張するのであれば、義務も負うべきだ』などと言いますが、たとえば私が友人にお金を貸したのに、彼が私にお金を返さなかったら、私には彼に返済を要求する権利があります。そして彼にはお金を返す義務がある。私には何の義務も生じません。自由についてもそう。国民の自由の権利に義務は伴いません。義務を負うのは、国民に自由を保障する国の側なのです」

 自民党改憲案の問題点を鋭くかつ丁寧に指摘する伊藤先生の話を聞いていると、同党は立憲主義や民主主義をやめたいのではないかと思えてきました。

 当日はタレントの春香クリスティーンさんも登場されました。国会議員の追っかけが好きで、著書『永田町大好き! 春香クリスティーンのおもしろい政治ジャパン』がいまごろ書店に並んでいるであろう彼女からは、スイスの憲法についての話も聞きました。

 同国の憲法には、たとえば、アルプスの山越えに自動車を使ってはならない(貨物列車で運搬)というような、日常的な事柄に関する規定もたくさん記されており、その改定の是非について、頻繁に国民投票が行われるそうです。

 人口800万人のスイスだからこそ可能なのでしょう。とはいえ、憲法が「国民が国に命じるものである」ことに変わりはありません。スイスの中学生が自国のEU加盟の是非について当たり前のように議論をするのは、自国のことは自国で決めるという意識の表れだと思います。

 後半に登壇していただいた鈴木邦男さんからは、個人の尊厳と両性の本質的平等を定めた憲法24条を称えた守屋浩の幻の歌『24条知ってるかい』を聴かせてもらいました。ジャズ風の軽快で明るい曲でした。

 「かりに憲法を変えるにしても、議論には5年はかけるべきであり、その際には自衛隊の存在をきちんと認めたほうがいいのではないか」という鈴木さんは、自衛隊が発足後、1人も殺していないことを世界の軍隊の見本にすべきであるとして、こう続けました。

 「将来、軍隊をなくしていこうという世界の潮流に合わせて、自衛隊→保安隊→警察予備隊→警察と戻していけばいい」と。

 伊藤真先生、春香クリスティーンさん、そして鈴木邦男さんの素敵なコラボでした。

(芳地隆之)

'13.06.26

VOL.409

憲法はボーダレス

 先週の「時々お散歩日記」で鈴木耕さんが憲法9条の起源はパリ不戦条約にあると指摘されているところを読み、私は思わず膝を打ちました。20年ほど前に、日本国憲法の理念は一国平和主義みたいなこととは違うのではないかといった趣旨を拙著(『壁は必要だった』新潮社)に書いたことがあるのです。

 19世紀までは地上戦が中心だった戦争の形態は、第一次世界大戦における戦闘機の登場で、その空間を三次元にまで拡大し、第二次世界大戦時に開発された核兵器が瞬時に数十万人の命を奪うことを可能にしたことで、戦争の構図は国家対国家という枠を大きく逸脱した。そうした時代に応えるべく生まれたのが戦争放棄をうたう日本国憲法なのではないか。そんなふうに論じたのですが、いま読み返すと稚拙で青臭く(だから売れませんでした)、鈴木さんのコラムを読んでようやく自分のなかで整理できた次第です。

 9条が現実的ではないとか、国際情勢に合わないと批判されるのは、国民国家を超えるべく起草された憲法が、国民国家の側から厳しい視線にさらされるからでしょう。致し方ないのかもしれません。

 しかし、東西冷戦の終焉から20年を経て、グローバル化は急速なスピードで進んでいます。国境を越えた資本の移動は、ときに国民経済を翻弄し、貧富の格差を広げ、国民国家が成り立つ基盤を揺るがすまでになりました。とすればボーダーレスの日本国憲法が、その有効性を発揮するのはこれからだと言えないでしょうか。

 拙著で私は、ドイツの社会学者、ユルゲン・ハーバーマスの、ベルリンの壁崩壊により押し寄せる大勢の難民をドイツが受け入れることと、ドイツの憲法(基本法)との関係についての発言、「(受け入れ国内部には)新しいさまざまな生活様式が定着し、それによって、市民が自分たちの憲法上の諸原則を解釈する地平も拡大する」を引用しました。

 ハーバーマスが言いたかったのは、多様な文化を背負った人々に読まれることによって、憲法がより豊かでグローバルな意味を帯びるようになる、ということであり、そうした考え方を、彼は「民族主義に拠らないパトリオティズム=憲法愛国主義」と名づけました。

 将来的に少子高齢化が進行する日本にあって、それでも経済成長を目指すのであれば、移民を受け入れることは避けられないでしょう。日本はグローバルな視点をもった国の規範が求められます。そのとき日本の憲法が内向きなものであってはいけないと思うのです。

(芳地隆之)

'13.06.19

VOL.408

安倍首相ならできること

 昨年8月29日付の更新で、私は「いまこそ日朝国交正常化交渉を」というタイトルの巻頭言を書きました。それから1年ほど経ったいま、その思いはより強くなっています。

 数日前、アメリカのオバマ大統領は韓国の朴槿惠大統領との電話会談で北朝鮮の非核化について話し合いました。北朝鮮政府がアメリカに対して、核問題などを話し合う高官級の会談の開催を提案したことを受けてのものです。6月7〜8日にカリフォルニア州で行われたオバマ大統領と中国の習近平国家主席との会談でも、北朝鮮が主要テーマだったことは想像に難くありません。

 北朝鮮の「後見人」的な立場にある中国がアメリカにどんな提案をし、アメリカがどのような反応を示したのか。それについては知る由もありませんが、日本がこの問題に関して蚊帳の外に置かれているという印象は拭えません。朝鮮半島の非核化という大きな課題が立ち上がっているなか、日本発のニュースとして世界に流されたのは、安倍首相の歴史認識(侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない)と、橋下大阪市長の従軍慰安婦容認と在日米軍への風俗奨励の発言でした。

 安倍首相は事あるごとに「日米同盟」の重要性を強調します。しかし、朴槿惠大統領の米国議会での演説(5月8日)や、オバマ・習近平のノーネクタイでの8時間におよぶ会談というニュースを聞くに、はたして安倍首相はオバマ大統領にとって信頼に足るパートナーなのか、はなはだ疑問であり、北朝鮮が発するシグナルを受けて、アメリカが日本の頭越しに北朝鮮との対話のテーブルに着くことも十分ありうると思うのです。

 かつてニクソン大統領は電撃的に中国を訪問し、毛沢東との会談を実現して世界を驚かせました。ニクソン訪中を事前に知らされていなかった日本はその後、なんとか日中共同声明の発表にまでこぎつけましたが、それが可能だったのは、以前から民間レベルでの人的交流が行われていたからです。今後、米朝間で同様のことが起こったら、(かつて野中広務氏のもっていたような)北朝鮮とのパイプのない日本政府は慌ててアメリカに追随し、拉致問題もそのままに日朝国交を回復して、「これまでの強硬姿勢はいったい何だったのか?」という苦々しい自問をせざるをえなくなるのではないか。

 だからこそ安倍政権には今から北朝鮮との関係改善に動いてもらいたいのです。対北朝鮮強硬派といわれる安倍氏の主導であれば、国内の右派勢力も露骨に反対はできないでしょう。

 日朝国交正常化は、株価の乱高下を招く経済政策や96条を変えての憲法改正云々などとは比べものにならない、後世に残る功績として称えられると思うのですが、安倍総理、どうでしょう?

(芳地隆之)

'13.06.12

VOL.407

グローバル化の本質は何か?

 アパレルブランド「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が先日、同社に「世界同一賃金」を導入する考えを明らかにしました。店長候補として採用した正社員全員と役員の賃金体系を統一し、海外で採用した社員も国内と同じ基準で評価、成果が同じなら賃金も同水準にするとのことです。

 ファーストリテイリングはグローバル企業の代表格といわれています。社内公用語を英語にすると宣言したことも、そう評価されるゆえんです。

 グローバルという言葉をメディアで見聞きしない日はない昨今です。いわく「グローバルな人材を育てよ」、いわく「グローバルな展開なくして企業の未来はない」。けれども私にはそれらの意味がよくわかりません。「グローバルな人材」って、流暢な英語でどんどん商談をまとめる人のことでしょうか? そうした優秀なビジネスマンはむかしもいまも日本の企業にはいます。「グローバルな展開」とは海外でM&A(企業の合併や買収)を積極的に展開するということ? それも日本の企業はとうのむかしからやっています。

 大企業だけではありません。全国各地に目を凝らせば、世界トップシェアをもつ地方の中小企業も少なくないのです。

 「世界にはすごい技術をもっている企業はたくさんある。でもその多くは大企業。日本のように、世界に誇れる技術をもつ中小企業がこれだけたくさんある国はない」という言葉を、私は水田や畑のなかにぽつんと立つ、ある地方の航空機部品メーカーの社長から聞いたことがあります。彼は「うちの技術は、外国企業からの注文にはすべて対応できる」と胸を張っていました。

 一中小企業が、その会社でしかできない「オンリーワン」の製品をもって、直接、世界の市場とつながる。それがグローバル化の本質であって、社内公用語を英語にするとか、給与を世界中で統一するといったことは、グローバル化の末端の話に過ぎません。

 巷でグローバル企業ともてはやされている会社は、大量生産・大量消費型という、日本ではすでに過ぎ去った市場で、最後はへとへとになるような消耗戦に挑もうとしている。そんな印象があります。

 私にはその先に日本企業の明るい未来は見えないのです。

(芳地隆之)

'13.06.05

VOL.406

脇の甘さと懐の深さが長持ちの秘訣

 世の中には「脇の甘い人」と「脇が堅い人」がいます。前者は無防備というか、ユルくて、スキだらけ。後者は自分をしっかりガードして、相手に弱みを見せない。当然、失敗したり、騙されたり、バカにされたりするのは前者のタイプです。

 ただし脇の甘い人には懐が深い人が多い。ためしに脇をがら空きにしてみてください。ちょっとお腹が引っ込んで、そこに自由な空間ができるような気がしませんか? ついでにボクサーのように両脇を肘で締めてみてください。自分が狭量でアグレッシブになったような気にならないでしょうか。

 先日、一般社団法人となったマガジン9の設立総会がありました。「憲法9条を守ろう」という趣旨で立ち上げられたマガジン9条としてスタートして以来、ゴールデンウイークとお盆とお正月を除き毎週更新し、いま9年目。ここまで続いている理由のひとつは、このウェブマガジンが「脇が甘くて、懐が深い」ことになるのではないかと思っています。

 思えば憲法9条も様々な批判にさらされてきました。隣国が軍備を拡張しているのに日本は丸腰でいいのか、とか、自衛隊が存在しているのに陸海空軍などの戦力の保持は認めないなど欺瞞ではないか、とか。いわば「突っ込みどころ満載」なのです。

 そうした批判や疑問に対しては、多彩な執筆者の方々に、様々な分野、異なる視点から意見や考えを書いたり、語ったりしていただいています。アーカイブにもたくさんのコラムやインタビューがあるので、折に触れて読んでいただければと思うのですが、「平和を築こう」「他民族と仲良くしよう」という声は、「相手に舐められるな」「毅然とした態度をとれ」といったそれに圧されがちです。後者の方は威勢がいいですから。

 ただし相手に対して無防備な姿勢は、いろいろ突っ込まれますが、懐の深さで人を安心させる面もあるのではないか。

 私たちに厳しい意見を寄せてくださる方は少なくありません。といっても相手を罵倒したり、蔑んだりするような言葉を使う方はいない。マガ9を自由な言論の場として読者の皆さんが認めてくれているからだと思います。

 堅い竹でも、一カ所に強い力を加えれば、ぱきっと割れてしまう。一方、へなへなとしなった竹はぐいぐい曲げても意外と折れません。

 そんなしぶとさがマガ9、ひいては憲法9条にあるような気がするのです。

 というわけで、これからも「突っ込まれどころ満載」のマガジン9をよろしくお願いします。脇の甘い人たちに加わって、お手伝いしてもいいかなと思う方、ぜひご連絡ください。

(芳地隆之)

'13.05.29

VOL.405

共生社会の強さ、競争社会の弱さ

 最近手にした松岡正剛著『フラジャイル 弱さからの出発』(ちくま学術文庫)は何ともとらえどころのない、しかし読み手をひきつけて離さない不思議な魅力をもつ本でした。
 弱さとは何なのか? について博覧強記の著者が歴史、芸術、科学、社会学、哲学などあらゆる視点、様々な角度から迫る試みです。
 ドラキュラ伯爵がニンニクを嫌がらなかったら、インディ・ジョーンズがヘビを苦手にしなかったら、オバQが犬を見ても逃げ出さなかったら、果たして彼らは魅力的なキャラクターたりえただろうか? もっと時代を遡れば、アキレスの「アキレス腱」がなければ、武蔵坊弁慶の「弁慶の泣き所」がなければ…。
 ヒーローは弱点を抱えているということに注目した松岡氏はこう指摘します。弱さ、あるいはフラジャイルなものは人を引き付ける「力」をもっている、と。
 たとえば地域をみると、その中心に子供や高齢者、身障者がいることが多い。選挙の投票所として小学校の体育館が使われるのは、大人が子供を見守る場として普段から住民に親しまれているからではないか。コミュニティとは社会的に弱い立場の人が求心力を発揮して生まれるところだと思うのです。
 だからバリバリ働く優秀なビジネスマンの集団のなかにコミュニティが生まれることはあまりない。そこでは「競争」の論理が働き、社会的強者が集うのはどちらかというと「サロン」に近い。そして社会的強者によるサロン的なもののもろさを露呈させたのが一昨年の東日本大震災でした。
 「絆」とか「がんばろう 日本!」といった言葉をマスメディアが連呼したのは、被災地との連帯もさることながら、自然災害を前に自分たちの無力さを思い知らされたことの反動だったのではないかと私は思います。
 お互いに助け合うことを忘れない被災地の人々の姿とは対照的でした。彼らはもともと「競争」よりも「共生」の論理で生きてきた。東日本大震災は、コミュニティをもつ者ともたない者の違いも見せてくれたのです。
 とすれば、私たちの社会の足腰を強くするには、社会的弱者の存在が不可欠だと考えられるのではないでしょうか。
 地震と津波と原発事故から2年2カ月以上の年月が経ったいま、中央にいる人々、大都市に住む人々は、復興が進まぬ被災地の現状への関心を徐々に失いつつあります。しかし、あの時身に染みた自分たちの「弱さ」を忘れてしまい、強さや競争ばかりを求めたら、私たちは再び脆弱な基盤の上で生活を送らざるをえなくなります。
 強いは弱い、弱いは強い。禅問答のような、あるいはシェイクスピアの『マクベス』に登場する魔女たちのセリフ(きれいはきたない きたないはきれい)のような言葉が、『フラジャイル』のページを繰る私の頭のなかに浮かびました。

(芳地隆之)

'13.05.22

VOL.404

平和のフェロモン

 橋下徹大阪市長の「戦時中の慰安婦は必要だった」「沖縄在留米軍へ売春をすすめた」とする発言が波紋を呼んでいます。国内だけでなく海外のメディアにも取り上げられ、またネット上では様々な言語に翻訳され世界へと発信もされているようです

 のようなものが戦後の日本人にはあったと思うときがあります。それは「相手に与える安心感」あるいは「相手に『日本人は信頼できる』と思わせるもの」といってもいいかもしれません。
 私は外国で「自分が日本人」であることでいい思いをしたことの方が、そうでなかったことよりも多かった。ベルリンに留学していた若かりし頃は、ロシアや東欧、ドイツの女子学生に何かと親切にしてもらい、「俺ってモテるの?」と思ったことがあります。
 それが「大いなる誤解」であることはすぐに判明しました。彼女たちは「私」にではなく、上記のような「日本」に対するよきイメージをもっていたのです。何ともおめでたい誤解でした。
 そんな話を以前、海外赴任の長い方にしたら、彼は「日本人男性は『国際競争力』がないんだよなあ」とぽろり。彼の言う「競争力」とは「モテる」と同義語。そして「日本人女性はモテるのに……」という言葉とセットでした。 どうしてか? 2人で議論しました。出た結論はこうです。
 日本人女性の多くは、男性優位社会に適応しながら生きていかざるをえない。それは彼女たちにとってハンデだけれども、海外生活においては異文化への耐性となり、そこが男女同権意識の進んだ国ならば、水を得た魚のように生き生きとしている。一方、日本人男性は国内でアドバンテージがある分、時にはプライドが邪魔して、現地の社会に溶け込むのが難しい。
 ずいぶん荒っぽい分析ですが、日本維新の会の綱領の一節、「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法云々」を読んだ時、当時の会話を思い出しました。
 この文章に、私はそれを書いた人の個人的な恨み辛みのようなものを感じます。というのも上記のような対日イメージのよさと、この文言があまりにもかけ離れているから。書き手は自分が「孤立と軽蔑の対象に貶められた」と思った経験があるのではないか――そんな風に想像してしまうのです。
 自民党の改憲案にも、政治家の心情と日本国民のそれがごっちゃに語られている印象を受けます。安倍首相の「憲法を国民の手に取り戻す」は「憲法を私の手に入れたい」とさえ聞こえる、といったら言い過ぎでしょうか。改憲案に国民を縛るかのような文言が多いのは、そうした姿勢と関係があるのではないかと勘繰ってしまうのです。
 戦後の日本人が身につけていた「平和のフェロモン」がだんだん失われていく――先週そんなことを考えていたら、日本維新の会の橋下徹共同代表による旧従軍慰安婦制度の容認や在日米軍への風俗利用の奨励発言のニュースが。
 「ああ、これで日本人男性の国際競争力は地に落ちた」と思いました。

(芳地隆之)

'13.05.15

VOL.403

橋下徹発言から考える

 橋下徹大阪市長の「戦時中の慰安婦は必要だった」「沖縄在留米軍へ売春をすすめた」とする発言が波紋を呼んでいます。国内だけでなく海外のメディアにも取り上げられ、またネット上では様々な言語に翻訳され世界へと発信もされているようです

 このニュースを聞いた時、女性の人権侵害発言だと、激しい嫌悪感を持ちました。と、同時にいったい彼が何を思って今このような発言をしたのだろう、とも考えてみました。「心の中では、みんなが思っていること。だけど、タブーだから口にしない。そこを正直にはっきりと言ってやった。その方が支持されるだろうから」との計算が働いたのでは? と。事実維新の会は、今、支持率を落としているので、選挙前に何か「話題づくり」が必要だとふんだのではないでしょうか。

 だとしたら、うっかり口が滑ったよりも、この問題は重い、ということになるでしょうか。抗議の声が上がったとしても、維新の会にとって、それは致命的なものにはならない、と彼らが考えているということですから。事実、松井一郎大阪府知事や日本維新の会共同代表の石原慎太郎氏は、彼を擁護する発言を平然としています。

 日本におけるジェンダーバランスは、世界の中でもきわめて悪い状態にある、ということは、「この人が聞きたい 谷口真由美さんに聞いた」でも指摘されていた通りです。このバランスが是正されない限り、このような発言はまた出てくるでしょうし、女性を中心に少なくない人が不快感をもちながらも、発言者が罰せられることもなく、流されていくことでしょう。しかし、数の上では半数はいる女性の人権を軽んじるような国や社会である限り、さらに弱者である子どもや、マイノリティーな存在である障害者、トランスジェンダーの方たちの人権を大事にする社会などとても作れるはずはない、そう思うのです。そこにはもちろん「社会・経済的に勝ち組になれなかった」男性も含まれています。

 ではどうすればいいのか? そのようなことを考える連載コラムを次号より用意しています。この問題もまた、参院選を前に考えていきたいと思っています。

(水島さつき)

'13.05.8

VOL.402

東北を旅して

 連休中に、宮城県の気仙沼など東北の港町を2泊3日でまわってきました。友人が企画した「東北ひとめぐりツアー」に参加したのですが、このツアーは、彼が3・11以降、度々被災地に入り、ボランティア活動をする中で知り合った人たちと、自分の友人やその知人をつなぐという手作りのもの。案内にも「津波被害からの教訓を学び、復興を目指す現地のいまを知るツアー。自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じる〈体験型〉ツアー」とあるように、現地に行かないとわからなかったこと、そこで暮らす人々に聞かないと知らなかったことなど、本当にたくさんありました。
 気仙沼プラザホテルの支配人や石巻日日新聞の方から聞いた、3・11当日から1週間の間に何が起こったか、というお話は、何度もメディアを通しては見聞きしていることではありましたが、2年を経て今、改めて伺う中で、やはり胸がつぶれそうになりました。しかしそれでも、目の前の方たちは、しっかりと前を向いて仕事を再開してらっしゃる。東北の人々だからこんなにも逞しいのか、それとも人間というのは、本来そういう力を持っているのか、などいろいろ感じ入りました。
 そんな中で気になった言葉もいくつかありました。海苔生産者の方が「円安になると船のガソリンの値段がどんどん上がるから、私ら船で漁をしている人間にとっては、あまりうれしくないな」とぽつりと漏らされたこと。津波で会社もお店も失った、水産食品を扱う会社の社長さんは「自立再建をしようとがんばっているんだけど、このところ建築資材や建設費がどんどん高騰して、工事費が3倍ぐらいになってしまった。補助金の金額は最初に申請した時点での工事費で計算されるから、結局大きな借金を負うことになる。まあ、それでも奮い立たせてやりますけれどね」。

 いったい誰のためのアベノミクスなんでしょうか? 株価が上がって、デフレを脱却して、トリクルダウンが起きて、やがてみんなが潤う。もしそうだとしても、一番困っている人のところに一番先にお金がまわらないのは、おかしいし、そんな経済政策は失敗ではないでしょうか。
 あと最も心配なのは、すでに報道されていることですが、気仙沼を含む沿岸部に、巨大な防潮堤の建設計画があること。聞けば、6~10メートルもの高さの防潮堤というのだから、町は3階建てのビルに相当する高さのコンクリートに囲まれることになります。これでは、港町の風情ある景観がまったく変わってしまうだけでなく、潮や風の流れも変わってしまい、観光業だけでなく漁業にも大きな影響がでるのではないでしょうか。

 気仙沼のあちこちで目にした「海と共に生きる」というキャッチコピー。「私らは海と共に生きているから」という言葉も実際、何度か耳にしました。
 あそこまで巨大な被害をもたらした「海」だけれど、恵みを与えてくれるのもまた「海」。そして、海と共に生きるのは、何も東北の港町の人たちだけではない。日本全国を海岸線に囲まれた日本に暮らす人々がみんなそうなのだ、ということを思い返させてくれた東北の旅でした。

・巨大防潮堤に関する参考記事はこちら

(水島さつき)

'13.04.24+05.01

VOL.401

なぜ改憲案は上から目線なのか

 かつて中国共産党は自由民主党を本格的に研究していた時期があったそうです。「なぜ日本では自民党政権の継続が可能なのか」。関心事はそこにあったといいます。

 夏に控えた参議院選挙は憲法を争点として闘うという自民党の改憲案のなかで、想田和弘さんが指摘しているような、「公益及び公の秩序」の維持のためには人権を制限することも辞さずといった意の部分を読むと、自民党の体質は、欧米が拠って立つ民主主義よりも現在の中華人民共和国の体制と親和性が高いように思えてきます。

 自国の国旗を燃やす自由まで保障するアメリカと共通の価値観をもつことはむずかしい。世界の先進国から孤立していく道を歩んでしまうのではないか。そんな懸念が拭えません。

 憲法は権力者を縛るためのものであって、権力者が国民に守らせるものではない――これは、護憲・改憲の立場にかかわらず、共通した認識です。ところが政治家からは「憲法にも(国民の)権利だけではなく、義務も入れるべきではないか」などという発言が聞こえてくる。それはなぜか? 憲法に関する不見識だけでなく、彼らが「自分たちは常に権力を行使する側にいる」という前提に立ってものを考えているからではないでしょうか。

 国会議員は、衆議院では4年に1回、参議院では6年に1回、国民の審判を受けます。そこで有権者の信託を得られなかった人は「ただの人」になるわけですが、政治家が家業のようになってしまっている人にとっては、自分が権力を行使する側にいることが普通だから、一国民として権力なるものを見るという視点がない。そんな風に想像してしまうのです。

 自民党は正社員の解雇規制緩和を進めたいとの考えのようです。労働市場の流動性を高めることを、日本企業が厳しい国際競争に打ち勝つためのひとつの方策として位置付けているのでしょう。ならば、政界にも様々な出自の人間が登場する機会を広げるべきではないでしょうか。

 現行の政治家だって選挙を通して有権者が選んでいるのではないかという反論はあるでしょう。しかし、一票の格差の問題が放置されていることを考えると、国会の議員構成が民意をきちんと反映しているのかは疑問です。

 まずはこのような「違憲」状態を正すこと。「現在の憲法すら守れない国会議員が憲法改正を主張するなどあってはならない」という伊藤真さんの主張に賛同するゆえんです。

(芳地隆之)

'13.04.17

VOL.400

田舎へ引越そう

 という歌があります。財津和夫さん率いるバンド、チューリップの作品。青い空と澄み切った川のある自然のなかで生活しようと軽やかなリズムで歌われました。今でいうスローライフにも通じるかもしれませんが、実際の田舎の生活、とりわけ農林漁業を営む人々の生活は忙しい。夫婦共働きが当たり前で、近所づきあいや冠婚葬祭などにもちょくちょく顔を出さないといけません。「定年退職後は田舎にでも移住してのんびり暮らしたい」と言う夫婦も、実際に移住すれば、当初の思惑とは違った毎日に面食らうことも多いのではないでしょうか。

 だから田舎への移住を考えるのであれば、なるべく若くて元気なうちに、と私は思うのですが、好むと好まざるとにかかわらず、都会に住む人々が地方へと生活の場を変えざるをえない時代が来るのではないか。毎日新聞4月8日付のコラム『風知草』の「都会と田舎は逆転する」を読んで、その思いを強くしました。

 日本では2007年に死亡者数が出生者数を上回り、少子高齢化に拍車がかかっています。ただし、それ以前から人口減に悩んでいた地方は高齢者の割合の拡大が鈍化しており、これからは「高度成長時代に田舎から押し寄せた、おびただしい若者たちが老いる」大都市で急速な平均年齢の上昇が始まるというのです。

 そうした社会で、たとえば東京は現在の就業者数740万人分の雇用をこれからも創出できるのか。上記コラムでは松谷明彦政策研究大学院大名誉教授の「島根の場合、高齢者がそこそこ食べていける働き口があり、支え合いのシステムも、十分ではないにせよ、できている。東京にはそれがありません」とのコメントを紹介しています。

 先日行われたマガ9学校は「これからどうなる? 日本の食と農 TPPと地域の事例から」とのテーマで、講師の金子勝・慶応大学教授と、ゲストの料理研究家、枝元なほみさんから、「平成の不平等条約」たるTPPが日本人の食に与える影響についてお話がありました。農業に関して、ぶっちゃけていえば、日本産の安全で高価な農産物は香港や中国の金持ちが食べ、長い海上輸送でも腐らぬ農薬をたっぷり浴びた外国産は日本の貧乏人が口にするということ。

 ならば人口減少に悩む地方に引っ越して、自分たちが食べるものは自分たちでつくろう、足りない分は互いに融通しよう、都会にいたって仕事はないんだし――。

 これからは都市から地方へ人口が逆流する可能性がある、と上記の松谷教授は予測しています。それはエネルギーの分散化、食の地産地消という時代の流れに沿った動きなのかもしれません。

 先日のマガ9学校は、私たちの国の新しいかたちを予感させるものでもありました。

(芳地隆之)

'13.04.10

VOL.399

北朝鮮について考えるとき

 25年前、当時の東ベルリンで学生生活を送っていた私は、東ドイツ国立図書館の東アジア資料室で、北朝鮮からの留学生とときどき会っていました。学生といっても30才後半くらい。ヨーロッパ留学組ですから、朝鮮労働党の幹部に近い人だったのでしょう。彼は日本語も上手で、資料室に置かれていた朝日新聞を熱心に読んでいました。朝鮮半島の最新情勢を知るためです。

 「北朝鮮の新聞を読んでも、韓国の悪口ばかりで、事実はわからないでしょ」というのが理由でした。

 彼のわからない日本語があると、私が教えてあげる。そんなやり取りでしたが、その際に私がドイツ語を使おうとすると、彼は「日本語で」と言いました。「ドイツ語だと周りの人間に、自分たちが朝鮮半島について議論しているのがわかる」から。「敵国」である日本の学生と自分が政治の話をしているところを北朝鮮大使館などから問題にされることを彼は恐れていました。

 その後、ベルリンの壁が崩壊したとき、彼は興奮していました。この流れが朝鮮半島にも影響を及ぼし、朝鮮半島も統一するかもしれない、と。私は「北朝鮮の体制を韓国のそれに合わせない限り、統一はありえない」と自分の考えを伝えました。冷や水を浴びせてしまったかもしれません。彼は黙って頷きました。

 その後、彼をはじめとする北朝鮮の留学生全員に対して、本国政府から強制帰国命令が下され、彼らは学業の途中で、ドイツ統一を見ることなく、ベルリンを去りました。

 朝鮮半島が不穏な情勢になっています。北朝鮮の国境付近で行われた米韓合同軍事演習に対して、北朝鮮側は「敵が攻めてきたら、有事の法律にのっとって団結する」との公式声明を発表。日本政府はこうした動きに対応して、航空自衛隊の地上配備型迎撃ミサイルを防衛省などに展開させる決定をしました。

 国際社会から孤立を深めていった北朝鮮当局が、自暴自棄になって突っ走るといった事態を避けるためには、北朝鮮と国境を接する中国やロシアによる粘り強い対話と圧力が必要になるでしょう。朝鮮半島で戦闘が生じれば、北朝鮮からの難民がまず向かう先は中国とロシアであるからです。それは両国とも避けたいはず。日本には米韓と中ロの間をつなげる外交的な役割を果たしてもらいたいと思います。

 と書きつつ、私には自分が朝鮮半島について語ることへの違和感が拭えません。「したり顔した、上から目線の嘘っぽさ」とでも言えばいいでしょうか。

 だから私は、北朝鮮について考えるとき、個人的な経験を忘れないように心がけています。

(芳地隆之)

'13.04.03

VOL.398

日本における「憲法観」「平和観」は、変わっているのか?

 こういう「憲法観」があるのか? とちょっとびっくりしました。
 すでに新聞でも大きく取り上げられていますが、日本維新の会が、3月30日に発表した「綱領」の8つの基本政策の考え方の、最初にあげた憲法についての記述です。

1.日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる。

 新聞によると、当初は基本政策の8番目に「国民の意思と時代の要請に適したものに改正する」とあった「憲法」についての記述を、石原慎太郎氏の強い要請で党大会前日にこの文言に変えたそうです。

 さて、この文言を読んで、みなさんがどう感じたか? がとても気になるところです。いわゆる護憲派の方たちの感想、というよりは、前回の選挙で維新の会に投票した人、または橋下徹さんのことをいいな、と思っているような方たちがこの憲法観をどう見ているのか。
「石原さんがまた過激なことを言っているだけだから・・・」なのか、
「思っていることを言ってもらってすっきりした。日本社会がうまくいっていない全ての元凶は9条だったのだ」と思うのか。

 その国の国民が持つ「平和」の考え方には、それぞれが経験した悲惨な歴史や背景によって、様々な考え方がある。行われてきた教育によっても、大きく左右される。日本の平和観、すなわち憲法9条が掲げている「非戦の思想」は、世界共通ではない、ということは、先日のマガ9学校で行われた、伊勢崎賢治さんと東京外国語大学ゼミ生による、世界13カ国の平和観についての報告から、よくわかったことでした。
 しかし、日本国内においても「平和観」の違いは、当たり前ですがあるのです。個人の多様な意見を認め合う社会ではありたいとは思いますが、このような「憲法観」を持つリーダーや政党を支持する人たちが、国民の多数派になるのか、どうか、が気になるところです。
 民主党は、「憲法観が異なる」として、共闘を断念しました。それはある意味、わかりやすい判断だと思います。「みんなの党」は、この憲法観に同意した、ということでもあるのでしょう。維新の会が、「協力して憲法改正の発議に必要な2/3の勢力を目指す」としている自民党、公明党は? この憲法観に同調するのか、どうなのか? というのも気になるところです。
 そして、やはりこれほどまでにはっきりと「憲法観」を打ち出しているのですから、「憲法に関する考え方は、ちょっと違うけれど、経済が良くなりそうだから、維新の会に投票しておく」というのは、なし、だと思います。
 次の参議院選挙まで、すでに4ヶ月を切りました。日本の「平和」「憲法」をどう考えるのか? 主権者一人一人がこの問題に向き合い、またまわりの方たちと真剣に話し合う時間は、もう限られてきています。

(水島さつき)

'13.03.27

VOL.397

日本の誇りはどこに宿るのか

 3月20日付『朝日新聞』に掲載された福田康夫元首相へのインタビューを興味深く読みました。米国の対イラク戦争から10年目を迎え、当時官房長官だった福田氏が政権内部の動きについて語ったものです。

 同氏によれば、小泉純一郎首相も福田官房長官も米国の開戦には反対であり、何とか戦争を回避させたい、少なくとも軍事行動を容認する国連安保理の決議が必要だと考えていたといいます。しかし、ブッシュ大統領の開戦の意志は固く、米国と歩調を合わせざるをえないと判断した英国からは「ブレア首相が議会で米国を支持するスピーチをするから、その前に日本が英米を支持する旨を表明してほしい」と頼まれたそうです。

 ずいぶん虫のいい話ですが、小泉首相がいち早く米国を支持すると述べたのは周知のとおり。しかし開戦の理由である、イラクが保持しているとされた大量破壊兵器は見つかりませんでした。福田氏は、米国内部で情報操作があったのだろうと述べていますが、その真偽を見分けられる情報収集能力が日本にはなかったことを嘆きつつ、それでも日米関係を最優先にした小泉首相の決断は正しかったと振り返っています。結果的に日本のプレゼンスを高めたとする同氏は、その例として、イランのアザデガン油田開発プロジェクトへの日本の参画を米国政府が認めたこと、また北朝鮮の核兵器開発を巡る6カ国協議で日本が議事を主導できたことなどを挙げました。 とはいえ、アザデガン・プロジェクトの契約額は米国の意向を慮って縮小しています。6カ国協議で議事が主導できたといっても日本の主張に沿った方向性が打ち出されたわけではありません。かりに「アメリカの覚えがめでたくなる=国際社会における日本のプレゼンスが高まる」だとしても、それがイラク国民十数万人、米兵約4400人の死を相殺できるほどの価値があるとは思えないのです。

 その一方、当時イラク戦争に反対したフランスやドイツの判断がヒューマンな考えに基づいたものだったかといえば、首をかしげざるをえないところもあります。フランスはいまも北アフリカに軍事力をもって睨みを利かせていますし、ドイツは米ロに次ぐ世界第3位の武器輸出国です(主な輸出先は欧米諸国ですが、サウジアラビアやパキスタンなども相手国として名を連ねています)。これらの国に比べれば、武器輸出3原則をもつ(野田前首相は同原則を緩和する決定をしましたが、これからも堅持し続けてもらいたいと思います)わが国は国際社会において自らの立ち位置を堂々と主張できるのではないでしょうか。

 戦争には反対だけれども同盟国の戦闘行為は支持せざるをえない日本と、世界の戦争に加担しない日本。わが国の誇りがあるとすれば、それは後者に宿るはず。インタビューでの福田氏の率直な回答を読んだ後、私はそんな思いを抱きました。

(芳地隆之)

'13.03.20

VOL.396

オッサン社会を変えたい

〈「オッサン劇場政治に疲れてませんか? そんなアナタ! おばちゃんを忘れてもらったら困ります!どうしてあの場に「おばちゃん」がいないのか? 地域を日本を世界を救うのは、もうおばちゃんしかいませんっ!」〉

 先週末、このコピーにひかれて、「オッサン政治に物言い!! 全日本おばちゃん党 東京場所」というイベントに出かけてきました。 
 登壇者もスタッフも、豹柄(アニマル柄)を身にまとって、ステージは「土俵」という、シャレの効いた空間でしたが、そこで発表された全日本おばちゃん党の「はっさく」や「腹太の方針」には、「そうや、そうや」と頷かされてばかり。
 例えば、「うちの子もよその子も戦争には出さん!」「税金はあるとこから取ってや。けど、ちゃんと使うなら、ケチらへんわ」とか、「おばちゃんと若い子に職と食の保障を!」「ステルスよりも豚まん買うて!」などなど。

 日本はなんでこんな国になってしまったんだろう…と暗澹たる気分でいたところ、「そうか、オッサンが全部決めているからや!」というしごくシンプルな結論に至ったのです。

 そういえばと見渡してみると、国会中継は言うまでもなく、企業トップが集まる会合でも、どぶねずみ色(黒、グレー、紺)のスーツを着たオッサン(あくまでもおっちゃんではない)が幅をきかせているし、ほとんどの分野で「意思決定するポジション」における男性と女性の比率は非常にアンバランス。以前このコーナーでも、女子柔道のパワハラ問題に触れ、「日本女性はリーダーをつくってこなかった」と言及したことがありますが、女子スポーツの世界においても、男性が協会トップや指導者の地位にあることがほとんどなのです。普通に考えておかしいですよね。

 人権の立場からというだけでなく、科学的にもジェンダーバランスの悪い国は、経済も社会も破綻して滅びる・・・と、世界銀行IMF(国際通貨基金)もレポートを出していることなのです。

 一人一票の問題(住んでいる場所によって、一票の価値に不平等があってはいけない)とする、民主主義の根幹ルールと同じぐらい、人口構成の半数は女性なのだから(ざっくり言っての女性です)、決定権を持つポジションに女性が半数いるべきである、というのは、本当に当たり前のことではないか、と思うのです。たぶん、このバランスが整えば、かなりいろんなことが是正されるのではないでしょうか。女性だけでなく男性だって、さまざまな抑圧から解放されて、生きやすくなるのでは。「男だから仕事がんばれ」とか「稼いでこい」とか、しんどいはず。
 ということで、これから個人的には、「おばちゃん党」の活動に注目しつつ、私もおばちゃんとして、動いていこうと思った次第です。興味を持った方は、是非こちらを(facebook 登録が必要です)。

(水島さつき)

'13.03.13

VOL.395

被災地の人々に学ぶ

 「あんな修羅場を経験した人は貴重な存在。だからぼくは社員に『被災地の仮設住宅に行って、人材を引き抜いてきなさい』って言ってるんです」

 本サイトの「ニッポンの社長インタビュー」に登場していただいた(株)コミュニティネットの社長、高橋英與さんはこう語ります。

 先月、高橋さんに同行し、彼の実家があった岩手県大船渡市へ行ってきました。「あった」というのは、2年前の3月11日、地震発生からわずか30分で大船渡市に到達した津波が、高橋さんの自宅を含む集落の200棟を根こそぎ飲み込んでしまったからです。大船渡では2012年10月時点で死者340名、行方不明者は81名上っています。

 今回の帰省の目的は、高橋さんのお母さん、コウさんの米寿のお祝いでした。地震発生当時、家で一人だった彼女は裏山のお墓に避難したものの、津波によって水嵩がどんどん増していくなか、近所の青年に背負われて山を登って命を取り留めたそうです。

 コウさんはいま、震災後に大船渡につくられた仮設の屋台村で家庭料理を出すお店を切り盛りしています。

 1926年生まれのコウさんは、生涯で3度、津波を経験しています。最初は1933年3月の7000人の犠牲者を出した昭和三陸地震(当時は7歳でした)。2度目は1960年5月の三陸沖で140人の死者を出したチリ地震(その2カ月前に、海辺の飯場暮らしから山の方へ移ったので助かりました)。そして生涯3度目の惨事。でも、これを機に生まれて初めて経験した飲食店の経営が、コウさんには幸いしました。

 「お店始めるまでは『私のつくる料理で、お金とっていいんだべか』と不安だったけれども、いまではお客さんに笑顔で「おいしい」と言ってもらえることがうれしいね」

 彼女はカウンターの向こうから言いました。そして、「(人生を振り返って)いまが一番楽しい」と。

 ただし、この屋台村も2年後には閉鎖されます。復興予算が打ち切られたとき、住民はどうやって仕事をつくり、食べていくのか。ただ、大船渡のために尽力したいと思っている高橋さんは楽観的でした。

 「人間はどうにもならなくなった状況に追い込まれた時、これまで自覚しなかった力を発揮できるときがあるんです」

 そうした能力を高く評価しているからこそ、冒頭の彼の言葉があるのでしょう。

 雇用の創出が難しく、少子高齢化が進む被災地の今は、日本全体の明日でもあります。被災地の人々は、前例のない挑戦を全国に先立ってしようとしているのです。

 とても88歳とは思えない、かくしゃくとした高橋コウさんを見て、私は被災地への支援とは、被災地から学ぶことでもあると思いました。

(芳地隆之)

'13.03.06

VOL.394

国境を笑ってみよう

 中国吉林省の延辺朝鮮族自治州を訪れる機会がありました。同州の図們市という、北朝鮮との国境にある町では、昨年暮れから氷雪祭が開かれており、龍や大型船など、いろいろなオブジェのなか、会場のど真ん中には雪を積み上げてつくられた尖閣諸島の展示。「魚釣島は中国の領土」という弾幕が掛けられ、てっぺんには中国の国旗、五星紅旗が立っていました。

 反日的な空気が少ないといわれている中国辺境の地でもこうなのか――。私は暗澹たる気持ちになりました。現地の日本人に聞くと、2006年の小泉首相の靖国神社参拝に対する反発とは質が違うとのこと。地元にある数少ない日本人経営のレストランは客足が遠のき閉店に追い込まれ、日本車を所有している中国人は、マイカーに中国旗を立てて走っているという話も。隣の遼寧省の省都、瀋陽の三越伊勢丹は3月に閉まるそうです。

 ただ、尖閣を模した雪の山を見ていると、何だかおかしくもありました。周りの雪を積み上げて、これが我々の領土って、砂場遊びのようにも思えるのです。私は日本人の同行者に、

 「あの上登ってさ、日の丸立ててみ。で、中国の警察が拘束しにきたらさ、豆満江を渡って北朝鮮に逃げちゃうとか。日朝の国交が結ばれたら、迎えにいくよ」

 不謹慎な軽口、お許しください。でもやはり変だったのです、あのオブジェ。雪でできた尖閣諸島は日差しで溶けるのを待っているようにも見えました。

 中朝国境を隔てる川である豆満江は氷結しており、その上につくったリンクで中国人観光客がスケートに興じていました。つい最近、川向うの国で核実験が行われ、中国政府が不快感をあらわにしたばかりなのに、この緊張感の欠如は何のか?

 2000年前のむかしから「国」をもっていた中国の人々にとって、近代以降に生まれた国境は、私たちにとってのそれとは違って見えるのかもしれません。

 「通信や移動の手段がこれだけ発達した現在、領土という概念は国民の精神的、心理的な部分では大切かもしれませんが、経済的には重要性を失いつつあると思います」

 私はかつて、ドイツ商工会議所に勤めるドイツ人男性が語っていたことを思い出しました。彼は戦争でソ連に割譲されたカリーニングラード(ドイツ名ケーニヒスベルク)を想定して述べたのですが、私が雪の尖閣諸島を笑ってしまったのは、そこに時代とのずれがあるように見えたからかもしれません。

 領土問題では一歩も譲歩しない、というのが今のところの日中政府双方の姿勢です。ただ、為政者ではない私たちは、とりあえず国境のもつ「変」を笑ってみる。そこから始めてもいいのではないでしょうか。

(芳地隆之)

'13.02.27

VOL.393

「人からコンクリートへ」の行き着く先

 ガソリンの価格が上昇を続けています。先週20日の全国平均小売価格は155円22銭。約10か月ぶりの高値となりました。国際原油価格の高止まりに加えて、円安を誘導したアベノミクスの「成果」が国民の生活にボディブローのように効いています。

 はたして円安で輸出が増えるのか? 私には疑問です。

 東日本大震災を挟んだ2年半、円高だったにもかかわらず、日本の輸出はほぼ横ばいでした。震災後に貿易赤字へ転落したのは原油や天然ガスの輸入価格が高騰したからであって、円高による輸出減ではないのです。

 輸出が増えなくても、円安によって輸出企業の収益は回復するでしょう。そうすれば株価は上がる。でも、そのことが国内の製造業を守ることにつながるのでしょうか。円安になれば海外からの原料の仕入れ値は上がり、それは価格に転嫁されるか、人件費の削減につながります。ソニー、パナソニック、シャープなど電機大手は大規模な人員削減案を明らかにしています。

 ちなみに世界の家電市場において、韓国メーカーは日本メーカーを圧倒していますが、韓国の国を挙げての自国製品の輸出支援は「追いつき追い越せ」のキャッチアップ型なので、同国メーカーがトップに立ったら、いずれ次なる新興国の台頭により、その座を追われるのでしょう。

 アベノミクスのもうひとつの目玉は「国土強靭化計画」です。今後10年間で200兆円の巨費を注ぎ込んでハコモノや高速道路、トンネル、港を造り続けるとのこと。

 人からコンクリートへ。

 建設業は雇用を一気に増やすので、失業率の低下につながります。景況感も高まるでしょう。でも、補助金による建設が終わった後の莫大なメンテナンス費用はどうするのか? おそらく地元負担でしょう。お金をどう捻出するのか。余剰となった雇用はどう調整するのか。

 デフレからの脱却を実現した結果、物価上昇に合わせた収入増はままならず、社会保障費は削られ、ますます財布のひもを厳しく締める勤労者の姿が目に浮かびます。

 しかも対外経済を見れば、TPPという囲い込みのブロック経済圏がつくられつつあります。これは域内の関税は撤廃し、域外には高関税を課すという自由貿易の精神に反するものであって、「平成の開国」と呼ぶ性質のものではない。ブロック経済の形成は戦争勃発の要因になることは歴史が教えてくれているところです。

 報道によれば、安倍首相は夏の参議院選挙までは景気回復に専心し、同選挙に勝利した後に悲願の憲法改正や国防軍の創設に着手する意向とのこと。安倍首相が参院選にめでたく勝利し、その数年後には日本経済の荒涼たる姿が広がり、国内に戦争の機運が高まる――。まさかそこまで見越してのアベノミクスではありますまい。

(芳地隆之)

'13.02.20

VOL.392

ドMな国、ニッポン?

 と書くと、読者の皆さんのなかには「自虐史観」という言葉を思い浮かべる方がいるかもしれません。ある歴史観を「第2次世界大戦中に日本が中国や朝鮮半島をはじめとするアジア各地で行った所業はすべて悪かったとするもの」と批判する際に使われる表現です。

 私はこの言い方に違和感があります。ある歴史の見方に対して「正しい」「間違っている」という評価はあるけれども、「マゾヒスティック」というのはどういうことなのか?

 憲法を巡っても「自虐的な」ものがずいぶん見受けられます。こんな憲法をもっているから日本はだめになったとか、憲法のせいで気概のある日本人がいなくなったとか。

 私は日本がだめだとは思いませんし(戦後についていえば、短い年月でよくぞここまで国を建て直したと思っています)、立派で気概があると思う日本人も――有名・無名を問わず――たくさんいます。

 憲法の内容に不満だからといって、自分の国や国民をそんなにけなすのは考えものです。

 この傾向は1990年代以降、顕著になったのではないでしょうか。経済成長が鈍化するのと時を同じくして、「日本はだめだ」論が幅を利かせるようになった。

 先日、安倍首相が北朝鮮による拉致被害についての捜査が阻まれた遠因に憲法前文を挙げ、憲法は拉致被害者の人生を守れなかったと発言したという記事を読んで唖然としました。憲法が悪かったから拉致を阻止できなかった?

 リーダーたる人間は、自らが率いる集団の周辺で悪いことが起こったとき、それを自分ではない誰か・何かのせいにはしないでしょう。むしろ問題解決のために足りなかったものは何かを懸命に考えると思うのです(安倍首相は「足りなかったものが憲法改正」だったとの結論にいたったのでしょうが)。

 自分たちがなぜ過去に失敗したのかを分析するのは大切な行為です。敗因を自分ではない誰か・何かのせいにする指導者は、問題解決能力を欠いているのではないかと疑わざるをえません。

 憲法が気に入らないのであれば、日本にそれを押し付けた当事国であるアメリカに対して堂々と自らの主張を展開すればいい。アメリカを真の同盟国と見なすのであれば当然です。それができないのであれば、自分の国や国民について「自虐的」に語ることはやめるべきだ、と私は思います。

(芳地隆之)

'13.02.13

VOL.391

「嫌中」や「媚中」といった言葉はなくなるだろう

 先般、中国海軍の護衛艦が海上自衛隊の護衛艦に砲撃用レーダーを照射するという事態が生じました。中国外務省は当初、その事実を報道で知ったとしましたが、その後、中国国防省からは「日本が対外公表した事案の内容は事実に合致しない」「ねつ造だ」などという声明が出されました。

 大国はときに傲慢です。周辺諸国への配慮を欠き、自国の都合を通そうとします。

 冷戦時代のソ連邦がそうでした。日本への領空侵犯や北方四島周辺水域における日本船拿捕が頻繁に起き、日本政府が抗議をしても、過ちを認めようとしない。当然、日本のソ連に対する国民感情もネガティブでした(未だに「いい」とは言えません)。

 ただ、当時「反ソ」感情はあっても、「嫌ソ」や「媚ソ」といった意味の言葉はなかったと記憶しています。核保有国というだけでなく、有人ロケットを世界に先駆けて打ち上げた宇宙技術を有するソ連との戦争を想定する一般国民はほとんどいなかった。ソ連が怖かったからでしょう。

 中国も大国になりました。核保有国であるだけでなく、GDPは世界第2位に達し、世界最大の人口を有しています。私たちが中国の態度に対して「舐められるな」といった感情を抱くのは、「中国は発展途上国」という見方があるからではないでしょうか。

 『シュミット外交回想録』(岩波書店)は大国との外交のお手本になるような内容です。冷戦時代、西ドイツの首相だったヘルムート・シュミットが、敵対するソ連や同盟国の米国といかなる外交を展開したかについて綴られています。東ドイツという分断国家と向き合い、その背後ではソ連のミサイルがこちらに照準を定めているという情勢の中、シュミット首相はブレジネフ・ソ連共産党書記長との交渉で緊張緩和を目指し、カーターやフォードといった歴代米国大統領に忌憚のない意見を語り、「将来の大国」中国に飛んで毛沢東主席と会談します。

 大国が強硬な態度をとる理由は、国内の様々な問題の暴発を抑え込むためという面があります。シュミットは、相手の立場に立ってのシミュレーションも忘れません。これも中堅国である自国の安全を守るためです。

 そうした外交努力は結果としてドイツの国益に資することになりました。同国はロシアにとって最大級の経済パートナーであり、アジアでは中国を最大の貿易相手国(日独貿易をすでに超えました)としています。イラク戦争に反対したことで同盟国アメリカとの関係がぎくしゃくしましたが、2009年にメルケル首相は米議会上下両院合同会議で演説を行い、万雷の拍手を受けました。

 日本も大国との外交を自ら展開しなければならなくなったということではないでしょうか。とりわけ対中関係においては、「媚中」とか「嫌中」などとは言ってはいられないというのが私の認識です。

(芳地隆之)

'13.02.06

VOL.390

女性のリーダーを作ってこなかった日本社会

 今、アマチュアスポーツ界を揺るがしている、日本を代表するトップクラスの女子柔道選手らによる、指導陣の暴力やパワーハラスメントの告発。各メディアも連日大きく取り上げ、選手たちによる声明文も記者会見で発表されました。「暴力やハラスメントで心身ともに深く傷ついた。人としての誇りを汚され、監督の存在におびえながら試合や練習をしていた。決死の思いで立ち上がったが、私たちの声は全柔連内部で聞き入れられず封殺され、JOCに告発したが、体罰が問題となる中、十分に拾い上げられなかった」など暴力を容認する「組織によるもみ消し」が行われていたことが明らかになりました。
 このような「事件」が起こった背景として、様々な問題が指摘されていますが、私は、今回の記者会見で、辻口信良弁護士が述べた「全柔連の理事26人に女性が1人もいない。国際オリンピック委員会が各国オリンピック委員会などの女性理事を最低20%にするという目標を掲げているのに、おかしい」という言葉に、その根本原因を見る気がしました。

 そして、すぐに思い出したのは、日本の国会議員に女性がしめる割合が、2012年の選挙後に前回よりさらに下がり、7.9%で世界の平均の20.7%を大きく下回っている、という現状です。
 ノルウェーをはじめとする北欧では、クオータ制(割当制)によって、女性の政界進出が格段に進んだことはよく知られていますし、韓国においても2000年の金大中政権下に「国会は一院制で政党は比例代表候補の30%以上を女性にしなければならない」とする制度を導入することによって、女性の国会議員の割合が増え、現在は15.7%になっています。
 日本においてもこの議論がまったくされてこなかったわけではありませんが、先般、女性の社会進出を促す政策について問われた自民党の高市早苗議員は「(クオータ制など)数値目標には慎重な立場だ。女性にげたを履かせて結果平等を作り、法的拘束力を持たせ数値目標を実行するのは、あくまで過渡期的な施策であるべきだ」と語り、この政策には否定的な考えを持っていることを明らかにしました。「やっぱりそうなんだ」と思うと同時に、そういう考えの女性議員だからこそ、男性によって重要ポストに登用されたのだろうか、と思いたくもなります。

 「物事を決める場に女性が少ないのは民主主義に反する」という考えは、この国においてはあまりにも「少数派」のようで、重要な物事を決める委員会、例えば福島原発の事故を受けた「事故調査委員会」は4つできましたが、その中の女性委員の数は、各事故調とも一人か二人にとどまっています。
 こういう「社会構造」が長く続いたために、私たちはなかなかこの「異常事態」に気づくことができません。しかし、日本において女性たちは、ずっと「生きづらい」。「生きづらい」ということに気がついていない人も大勢いると思うけれど、そのことがまた、今回のような事件を生み出す要因になっているとも思うのです。

 さてどうやって乗り越えていけば良いのか…。当事者である女性や虐げられている人たちが、まず意識的に声をあげていくことしかないのではないでしょうか? そのようなことを深く考えた今回の「女子柔道選手たちによる告発」事件でした。

 この問題については、今週の「マガ9スポーツ」にも取り上げているので、そちらもぜひお詠みください。

(水島さつき)

'13.01.30

VOL.389

「テロとの戦い」の限界と国家間戦争の終焉

 「アラブの春」を欧米メディアが「民主化の進展」として歓迎していた2年前、私はこの場で悲観的な意見を述べました。というのも、アラブ諸国の独裁政権が崩れ去った後の自由選挙で政権を握るのは、おそらくイスラム色の強い政権であり、彼らが掲げる社会のあり方を欧米諸国は許容できるのか、疑問に思ったからです。

 アルジェリアでのイスラム武装勢力による天然ガスプラント襲撃事件は、各国の技術者や労働者が犠牲になるという痛ましい結果になりました。とりわけ世界各地の過酷な自然のなかで、地道に忍耐強くエネルギー開発事業に携わってこられた日揮関係者の方々の悲しみや悔しさは想像するに余りあります。

 今回のアルジェリア政府軍の、人質の命よりも武装勢力根絶を優先する姿勢には憤りを覚えました。事件の真相は明らかにされていませんが、この強硬作戦によって同国のカントリーリスク(投資対象・貿易相手国としてのリスク)は間違いなく高まり、アルジェリアの国民経済は大きな打撃を受け、同国に留まる外国資本は今後、膨大なセキュリティコストを支払うことになるでしょう。

 こうした現状を考えると、日本を含む先進国の政府が「テロとの戦い」を声高に叫ぶことに空しさを感じずにはいられません。

 今回の対立の構図はアルジェリアの政府軍と、近隣諸国の民兵までが集う非正規軍でした。ここには戦勝国や敗戦国が存在しない。アルジェリア政府軍が武装勢力を掃討できたとしても、彼らの行動を支持する(少なくとも反対しない)民衆がいる限り、テロの危険性は低下することはありません。

 2003年に米国によって始められたイラク戦争で、当時のブッシュ大統領はバクダッド陥落後、米戦艦の上で勝利宣言を行いました。しかし、イラクでの爆弾テロはより激しくなり、2011年12月には米軍が同国から撤退。ブッシュ大統領はアメリカが国家間の戦争を遂行したつもりだったのでしょう。でも、本当の敵はフセイン大統領率いる「イラク国家」だけではなかった。

 テロには屈しないという言葉、聞こえはいいかもしれません。ところが、国家が強硬な姿勢を続けるほど、国民経済は疲弊していき、国内の貧富の格差は拡大する。それが国民意識を分断し、最悪の場合、テロの温床を生むのではないか。

 今回の事件は、「テロとの戦い」が国家たりうる基盤を脆弱にするというジレンマ、そして国家間戦争の発想が20世紀の遺物であることを知らしめるものでもありました。

(芳地隆之)

'13.01.23

VOL.388

国民投票を行わず憲法改正もどきが許されるのか?

 安倍政権下で集団的自衛権行使容認に向けての準備が着々と進んでいるような報道が続いています。
 集団的自衛権については、1981年の政府答弁「わが国が主権国家である以上、集団的自衛権を有しているが、憲法9条で許容される必要最小限の範囲を超え、行使は許されない」があり、「憲法改正を経なければ集団的自衛権の行使は行えないはずだ」とする政府見解があります。政権交代があっても首相がコロコロ変わっても、この考えが定着してきました。(現在の政府解釈については、今週の「立憲政治の道しるべ」にも紹介してあります。

 安倍首相は、どのようなアクロバティックな手法を使って、憲法9条のもとで「集団的自衛権を行使できる」ようにしていくのだろうか。「解釈改憲」はそんなに何でもありなのか? そんな謎がとけたのが、自民党が準備している「国家安全保障基本法」の法案概要について、連載コラム「憲法はこう使え!」でお馴染みの川口創弁護士から説明を受けた時でした(川口さんは、衆院選選挙前のコラム「9条の解釈改憲と明文改憲、日本はついに〈平和国家〉の看板を下ろすのか」でも、この問題について指摘してくれています)。
 これは、石破茂氏が7年前からあたためてきた「悲願」なのだそうですが…自民党は2012年7月に総務会でこの制定を決めていますから、党として国会提出に向け本気で取り組んでいくということを表しています。
 全12条にわたる条文を見てみると、秘密保全法に該当するような内容が含まれ、安全保障確保における国民の責務も定められています。国連憲章51条を根拠に集団的自衛権の行使を認め、国連安保理決議があれば、海外での武力行使ができるようにする条文もあります。現状の憲法解釈には、著しく反する内容のこの法律が、なぜ内閣法制局に止められることもなく国会提出できるのか? そんな疑問がわきますが、これは議員立法で出すことが予定されているため、提出にストップがかかることはないのだそうです。
 そんな「禁じ手」を使って、憲法9条を骨抜きにしてしまう法律の制定が、自民党の圧勝により現実味を帯びてきています。最後に憲法改正を決めるのは、主権者である国民、そう信じてこれまで来ましたが、それさえも骨抜きにされてしまいかねません。
 それにしても憲法の縛りを無視して、時の多数派権力が、自分たちの都合の良いような法律をつくる。こんな立憲民主主義を根底から覆すようなことが、一応は世界の中の先進国と言われている日本で起きようとしていることに、唖然としています。
 まずはこの現状を多くの人に知って欲しいということで、近くこのテーマについての企画を、マガジン9でもアップの予定です。

(水島さつき)

'13.01.16

VOL.387

自由とは常に違った考えを持つ人のための自由である

 最近、ドイツの劇作家・詩人のベルトルト・ブレヒトの本を手に取る機会が増えました。福島原発事故を機に戯曲『ガリレイの生涯』を十数年ぶりに開いたのがきっかけです。

 このテキストのもつアクチュアリティに驚かされました。科学者の良心の問題、権力と学問の関係、自由の大切さとそれを持ち続けることの難しさなど、私たちがいま直面しているテーマをどんどん投げかけてくるのです(ご関心のある方はこちらのマガ9レビューにも目を通してみてください)。しかもブレヒトが『ガリレイの生涯』を書いたのは、ナチスドイツに共産主義者のレッテルを張られ、命の危険から亡命せざるをえなくなった1930年代。ファシズムが欧州を覆い、明日をも知れない身である作家の胸の内は想像するにあまりあります。そうしたなかにあって、彼は次のような趣旨の詩も書き遺しています。

 君の意見を伝えるべき相手は、君の意見を排除しようとする者だ――。

 出典が確認できず、曖昧なまま引用してしまいましたが、先の衆議院選挙で脱原発、反TPPを掲げる勢力が大きく後退したことを嘆く声がマガジン9の周辺で聞こえるなか、私が思い出したのはブレヒトの詩でした。

 私たちは自分たちとは対立する考えをもつ人々に届く言葉をもっていたか?

 そんな自問をしていたら、忘年会の場で鈴木邦男さんが「毎年、毎年、同じ顔ばっかりで(忘年会を)やっていても仕様がないじゃないか」と一喝。少し愉快な気持ちになりました。

 湯浅誠さんは著書『ヒーローを待っていても世界は変わらない』のなかで、テレビの討論番組に出演し、自分とは相容れない意見を持っている人と向き合った経験からこんなことを書いています。

 「自分の言いたいことを言うだけでは決してこの人たちには通じない。この人にも通じる言葉とはどんな言葉だろうか。自分に、自分と同じ経験、同じ土台を持たないこの人を説得できる言葉はあるだろうか。なければ編み出していかないといけない」

 仲間内だけで通じる(仲間内だけでしか通じない)言葉をどうやって乗り越えるか。「言うは易く、行うは難し」です。ただ、マガジン9が様々な言論が集まる場として機能すれば、自ずと新しい言葉が生まれるのではないか。そんな思いも抱いた年の瀬でした。

 ドイツの哲学者で、革命家でもあったローザ・ルクセンブルクの言葉に「自由とは常に違った考えを持つ人のための自由である」というものがあります。かつて旧東ドイツで湧き上がった民主化デモを進む数えきれないプラカード群のなかに彼女の言葉を見つけたとき、ドイツ現代史における知識人の苦闘の一端に触れた気持ちになりました。

 二十数年前に抱いた感情をときどき思い出すこの頃です。

(芳地隆之)

'13.01.09

VOL.386

新しい年、新たな決意と、お願い

 2013年になりました。でも「おめでとう」とは言いません。そんな気分にはなれないからです。
 福島第一原発が爆発してから、2回目の正月です。あの事故から3年目に入ったということです。
 故郷を追い出された人たちは、いまだに10万人をはるかに超えたままです。事故収束の気配などまったくありません。放射性物質は、今も漏れ続けています。
 除染作業のずさんさが報道されました。「除染はしょせん移染にすぎない」ということが露呈してしまいました。故郷を思い、帰還を願う人たちの傷口に塩を塗りこむような話です。
 そんな中で、安倍首相は原発の再稼働や新増設に踏み込むような発言をしました。除染報道よりもっとひどい。原発被災者の傷口を、さらに大きく広げるような発言です。そんな首相が、残念ながら我々の国の最高責任者なのです。
 この首相、参院選までは静かにしているでしょうが、もしそこで勝利すれば、原発はもちろん、集団的自衛権容認やら、憲法改悪やら、危ない火種をばら撒きそうな気配です。

 「マガジン9」は、創刊当初は「マガジン9条」といいました。日本国憲法第9条の精神を広め伝えていこうという趣旨だったのです。
 2011年3月11日以降、原発問題に多くのスペースを割いてきましたが、憲法9条を忘れたことはありません。そして、改憲を高らかに謳う安倍首相の再登場と、「戦争も辞さず」を公言する石原慎太郎維新代表の国政復帰で、ますます日本国憲法の重要性は大きくなっているのです。
 「マガジン9」は微力ですが、そんな潮流に抗いたいと、年明けに新たな決意を固めたところです。

 そして、いつものことでほんとうに申し訳ありませんが「マガジン9」をみなさんで支えてくださるようお願いいたします。みなさんのカンパや寄付が活動費なのです。カンパの方法は、ここをクリックしてください。
 いつもお願いばかりで恐縮なのですが、「マガジン9」と一緒に、改憲や原発に抗していくためのご協力を、心からお願いします。

(マガジン9 スタッフ一同)

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