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2012-08-29up
この人に聞きたい
南部義典さんに聞いた(その2)
憲法論議をサボタージュしない仕組みと意志を
原発の是非を国民自身が直接決めようという、「原発」国民投票の実施を求める声が高まっています。「原発国民投票法市民案」の作成にも携わった南部さんは、投票そのものだけでなく、その法案制定のプロセス自体が、間接民主制を補完することになる、と指摘します。
なんぶ・よしのり
慶應義塾大学大学院法学研究科講師。1971年岐阜県生まれ。1995年京都大学卒業、国会議員政策担当秘書資格試験合格。2005年から国民投票法案(民主党案)の起草に携わり、2007年衆参の公聴会で公述人を務めた。近時は、原発稼働をめぐる各地の住民投票条例の起草、国会・自治体議会におけるオンブズマン制度の創設に取り組む。著書に、『Q&A解説・憲法改正国民投票法』(現代人文社、2007年)がある。ツイッター(@nambu2116)、フェイスブック
諮問型「原発国民投票」は可能か
前回お話を伺った、国民投票法の「三つの宿題」の一つに、憲法改正問題に関する予備的な国民投票制度の検討ということが挙げられていました。重要な国政問題に関する一般的国民投票の類型の一つで、憲法改正以外に案件を拡げる制度といえるでしょう。実際には、この部分についてもまったく議論は進んでいないわけですが、ここで気になるのが、昨年から市民グループなどが呼びかけている「原発の是非に関する国民投票」についてです。
憲法改正に関する国民投票のように法的拘束力のある国民投票は、国会を「唯一の立法機関」と定めた憲法41条に違反しますから、憲法を改正しなくてはできませんが、今主に話題になっているのは、法的拘束力はない「諮問型」の国民投票についてです。これを実施するためには、国民投票法とは別に、原発国民投票のための法律を別につくる必要があるのだと思いますが…。
そのとおりです。ただその前に、諮問型の国民投票であっても、日本国憲法がそれを許してくれるかどうか、という合意を形成する必要がありますね。
結果拘束型の投票はおっしゃったように確実に憲法違反ですが、諮問型についても憲法違反だという意見がないわけではないので、それについて憲法審査会で合意を得る必要があります。民主党案もかつて、国政問題に関する一般的な国民投票の結果は、国家機関を法的に拘束しないとの条文をわざわざ置いたくらいですから。
なるほど。そこで問題ない、という合意が取れたら…。
今度は、法案そのものの内容について、憲法審査会が審査することになります。国会法の定めで、国民投票に関する法律は、憲法改正に関するもの以外もすべて、憲法審査会で審査する権限があると読み込めるようになっています。
市民グループ〈『みんなで決めよう「原発」国民投票』〉のメンバーの一人として私がたたき台を作成した「原発国民投票法市民案」の中にも書きましたが、法案をつくるのは内閣ではなく立法府、国会です。過去から現在に至る原子力行政の監視・評価を伴う内容ですから、内閣にそれをつくらせるわけにはいかない。終始、まな板の上のコイに徹してもらいます。投票の選択肢も手続きも、すべて立法府が、党派を超えて決めていくということになります。すべての党、会派が一致してこの法案を提出するのが望ましいというのが、市民案の立場です。
内閣ではなく、議員立法の法律になるということですね。そして、その内容について再び審査会で合意されたら、今度は衆議院の本会議、そして参議院の憲法審査会、本会議で議論されて、それを通過すればようやく実施に漕ぎ着けられる。
そうなります。まず審査会で、自民党から共産党までが一致してくれないと進まないので、ハードルが高いのは事実ですが。
審議のプロセスが、間接民主制を補完する
今お聞きしたような過程を経て原発国民投票法が成立したとしても、これは「諮問型」ですから、政府をその結果に従わせる法的拘束力があるわけではありません。しかし、例えば市民グループ〈みんなで決めよう「原発」国民投票〉の事務局長、今井一さんなどは、「拘束力はなくても、例えば7割が脱原発を支持するような結果になれば、その結果を完全に無視できるはずがないし、もしそんな政権であれば、次の選挙で落とせばいい」として、だから諮問型でも実施する意味は大きい、と指摘されています。
それはそのとおりです。ただもう一つ、そうして実際に投票実施の段階に行く前に、原発国民投票法案が国会に提出されて審議される、そのプロセスにも大きな意味があると思うんですね。
というと?
この法案は、先ほど言ったように内閣ではなく議員立法が想定されますから、共同提出者となる各党の政策責任者、それから内閣総理大臣はもちろん経済産業大臣や原発事故担当大臣など、関係閣僚が答弁席に並んで議論をすることになります。先日も、税と社会保障の一体改革法案についての国会審議が中継されていましたけど、あんな感じですね。
例えば衆議院で100時間、参議院で60時間とかやれば、相当幅広い議論ができる。投票案件と選択肢に関する各党の解釈はもちろん、7月以降の原発再稼働の決定プロセスと妥当性について、原発交付金について、雇用について、全部政策上の論点になりますから。政府に対する質疑と、各党に対する質疑が同時に可能なのです。その様子を毎日テレビで中継して、地方で公聴会もやって、参考人質疑もやるわけです。
その議論の中では、内閣の方針だけではなく、各党がどういうエネルギー政策を実行しようとしているのか、また国民投票の結果にはどのように従うのか、といったことも明らかにしていけます。例えば「原発推進」が多数という結果が出たとしても、うちの党是は脱原発だから従いませんという政党があってもいいわけです。そういうことを一つ一つ確認して、選挙では示されない各党の政策の方向性を明確にしていく。もちろん議事録も残りますから、各党に新たなマニフェストが生まれるような形になっていくんですね。そうしたプロセス自体が、間接民主制を補完し、強固にすることにもなるわけです。
その上で、国民投票の結果が出て、最初に行われる国政選挙が重要です。約束を破った政党、対応に納得のいかない政党、政治家があれば、「選挙で落とす」という次のステップに持っていく。最後は間接民主制の通常プロセスに戻す。それが大事なんです。
国民投票という「直接民主制」の手続きを決定していく過程が、結果的に間接民主制を補完することになる、と。今年6月に、市民グループの直接請求によって、いわゆる原発都民投票条例案が都議会に提出されましたが、そのときもそんな感じだったのでしょうか?
「東京電力管内の原子力発電所の稼動の是非を問う東京都民投票条例」制定の直接請求は5月10日、323,076名の署名を以て行われました。地方自治法上、請求代表者には議会で意見を述べる機会が与えられており、それが6月14日に行われたものの、わずか1週間足らず、20日の本会議で否決されてしまいました。
原発国民投票法案の国会審議は2~3か月というスパンで考えていますが、都民投票条例案の審議は、実質数日でした。これは、条例制定直接請求に関する、地方自治法上の規定の不十分さにも原因があります。条例案に対する都議会各会派の表決方針ばかりが注目され、条例案の中身などは、最後まで議論が深まりませんでした。
条例案に対する個々の議員の賛否は、来年夏に行われる東京都議会議員選挙にとって、一つの判断材料となりえます。条例案の審議は一瞬にして終わり、都民投票は実現していないので、違う意味での「補完」なのですが、それだけで終わらせていい話ではありません。
なるほど。また、脱原発を支持する人たちの間には、「原発国民投票をやって、仮に推進派が勝ったらどうするのか」という不安の声もありますが…。
正反対の立場の方が、正反対の「不安」をおっしゃいます。自由な言論空間のなかで、打ち消し合っているだけ。いま多くの方が、そのことに気づき始めています。国民投票をやらないとしたら、日本国憲法のもとでは24時間、365日、議会制民主主義における過半数で物事が決められていくわけですよね。日本の内閣は、議院内閣制のもとでそれに乗っかっているにすぎません。議会の過半数で決めるのか、国民の過半数で決めるのか、どちらの過半数により高次の正当性があるのか? という話にもなります。そして、過半数が得られないまま、決められない政治、決めかねる政治が続くということも避けられません。
市民案の根っこにある発想ですが、国会で法案審議を行う前段階、この法案が憲法に適合するかどうかという議論と、もう一つ、原発そのものを憲法は許すのかという問題について、確認合意を行う必要があると考えています。立憲主義を重視する立場からすれば、原発を憲法上のブラックリストに載せるか載せないか、いまが瀬戸際だからです。
結論から申し上げると、原発は違憲状態にある。このまま放っておくと本当に憲法違反の存在になるということです。この確認合意を超党派で行うことにより、原発の是非についての選択肢は限られてきます。つまり、「完全な赤信号か、点滅の赤信号か」という、限定された選択です。推進派の人たちには、いまなお青信号に見え、なお安全運転を宣言するのかもしれませんが、憲法解釈を踏まえて「点滅の赤信号」へと思考転換を行ってもらわないといけない。このイメージを、国会が国民に上手に伝えられるかどうかがカギです。
そして、間接民主制だけ、通常の選挙を経るだけで、いつか原発をゼロにできるかというと、これは相当に難しいと思いますね。原発立地自治体である静岡県の御前崎市長選挙や鹿児島県の知事選挙などもそうですが、事前調査で原発に対する意見を聞くと反対派が多いのに、同じ有権者が投票しているにもかかわらず、実際の選挙ではまったく反対の結果が出ているでしょう。国政選挙でも同じです。原発に対する立憲的な拘束は、選挙という手段では不十分です。
あまりいい例えではありませんが、民主党・社民党・国民新党に政権が交代したとき、死刑制度に対する立憲的拘束(事実上の廃止)が実現したと考えた方も多かったのではないでしょうか。しかし、その後の対応をみれば、そうではなかったということですよね。
選挙でもダメだ、国民投票でもダメだというのは、ただのニヒリズムであり、主権者としてとるべき態度ではありません。ニヒリズムでは、公共政策は成り立ちえません。
憲法論議を「サボタージュ」してきた日本の政治
今、次の総選挙のテーマの一つは「原発」だという声がありますが、おっしゃるとおり、原発の是非というのは選挙のプロセスでは、必ずしも有権者の意思が反映された結果が出ないテーマだと思います。その認識のもとで、例えば国会議員の中から「まず諮問型の国民投票をやるべきだ」という意見は出てこないのでしょうか?
国会議員1人ひとりに、自分たちは憲法の命令を受けて、憲法に従って仕事をしているという意識があれば、そういう声が出てきてもおかしくないと思います。しかし実際には、国会見学の延長みたいな感覚で登院している議員が非常に多い。質問主意書も1回も書いたことがない、議員生活3年目なのに議会での質問回数は1〜2回、そういう人がかなりの数、いるわけです。議員立法を一度もやったことがない、その手続きさえ知らないという人も想像以上に多いのです。憲法政治を超越した世界の住人と称すべき、そういう経験値の低い人たちが、いきなり「立憲主義を守るために」とか「有権者の意思を反映するために」みたいな発想には立てませんよね。現時点ではおそらく、原発国民投票に対して党として反対だ、賛成だ、といった意見もまとまっていないんじゃないでしょうか。
前回の「立憲主義という言葉さえ議論の中に出てきていない」という話ともつながると思いますが、どうしてそんな「レベルの低い」状況になってしまっているのでしょう?
一つ、今の状況に影響を与えているのかなと思うのが、特に東日本大震災以降、法律のつくり方が圧倒的に変わってしまったことですね。
復興基本法、東日本大震災事業者再生支援機構法、国会事故調の設置法、再生可能エネルギー特別措置法、大阪都構想法(改正地方自治法)なども全部そうなんですが、民自公中心としたメンバーによる「実務者協議」といって、各党から数人がちょこちょこっと集まって、そこでもう政府案の修正協議を全部やっちゃうんですね。議事録にも残らないし、立法者意思が確認されないままにいろんな法律ができちゃっているというのが、今の永田町の状況なんです。ねじれ国会を乗り越える知恵としてはいいのかもしれないけれど、そうした閉鎖的なところでどんどん法案がまとめられてしまうのはどうなのか? という問題がありますよね。立法事実をどう取捨選択し、評価したのか。立法過程を事後検証しようとしても記録はないし、担当した議員が落選してしまうということになれば、確かめようがありません。
法案を国会で審議しているようでいて、実は場外で内容がほぼ決まってしまっている・・・。
昨今、そういう例ばかりなんです。結果として、立法府の一員としての仕事に関われない議員がどんどん増えている。経験値もいっこうに上がらない。そんな状況で、憲法論議どころではないんですよ。憲法改正が党是のはずの自民党ですら、4月に憲法改正草案を出した後、一度も党内でそれについての議論をしていませんからね。条文の有権解釈すら示されていないんですよ。それでもって国民的論議とか国民運動とか、誰も信用しないでしょう。
そうしてずっと憲法論議を「サボタージュ」してきたことが、今いろんな形でツケになって出てきていると思います。原発国民投票のような、大きな意思決定プロセスをつくろうというときに、政治家が誰も手を挙げない、市民の側も誰に相談していいのかわからない、というのはまさにそうですよね。
憲法審査会を、もっと広い憲法論議の場に
憲法審査会にしても、本来は改憲についてだけではなくて、もっと「憲法」全体に関わる幅広い議論の場であるべきものです。世の中の、さまざまな憲法に関する問題を取り上げて、論点を整理して、「憲法に違反していないか」をチェックする。人が休んでいる間も、憲法は24時間、365日機能し続けています。憲法に立ち返って、いま政治に何が足らないのか、問い続けること。それが審査会の一つの大きな役割だと思うんですが。
具体的にはどういったことでしょうか?
例えば、大阪市で制定された、「職員の政治的行為の制限に関する条例」。私は、ああした条例が生まれてくること自体も、憲法論議のサボタージュの結果だと思います。
2月に、大阪市でも原発市民投票条例案が直接請求されました。私はその案の作成にも携わったのですが、中に「市の職員等が行う市民投票運動に関し、公務員法の政治的行為の制限規定の適用を除外する」という条文を設けたんです。条例案を作成したときには、直接請求までに、憲法審査会で先の二番目の宿題が済むことを見越し、例の適用除外条項を準用することを考えていたのですが、結局それは叶わず、その条文は法律の根拠がなく地方自治法違反だと、市長の反対意見が付きました。
他方、今回の「職員の政治的行為の制限に関する条例」は、市の職員には地方公務員法に定めがない政治的行為まで、国家公務員並みに規制を拡大する内容です。公務員の政治的行為に関して、それを自由にする条例案は法律違反といいながら、規制を強化する条例はなぜ法律違反にはならないのか。この矛盾については、在阪メディアも含めて、誰も指摘していません。憲法の観点から、筋が通っているのかいないのか、はっきりさせるべきでしょう。
国会がそのあたりの論議をきちんとやっていれば、多少は歯止めになったかもしれない。もちろん、永田町で直接的に大阪の条例案について審議するわけにはいきませんが、憲法審査会で日本国憲法と地方公務員法の解釈についてきちんと議論することができていれば…。
あるいは、原発住民投票。都民投票条例については、30万人以上の署名が集まったにもかかわらず、議会に否決権があるために一日の議会で否決されて終わってしまうというのは、憲法から見ると地方自治法の欠陥じゃないかとか。アメリカ各州の間接イニシアティヴのように、必要署名数が集まれば、議会が否決したとしても、少なくとも住民投票は実施すべきです。
また、今話題になっている生活保護の問題などもそうですね。財源が厳しいからそこの支給を切り詰めようというのは、憲法25条に違反しているのではないのか。そういう一つ一つの問題を、憲法に照らし合わせてチェックしていく役割が、審査会にはあると思うんです。
審査会の委員自身が、「あの問題を検証しましょう」と提案して議論する。もしくは、市民の側が「この問題を議論してよ」と働きかけることもできるんですよね。
もちろんできます。請願には制限がありませんから、別に憲法改正原案に関することでなくても構わないんですよ。
人間が寝ている間でも、心臓や肺はちゃんと動いていますよね。それと同じで、憲法論議というのは「改憲」といった、事態が大きく「動いている」ときだけに求められるものではありません。およそ立憲主義の政治体制をとっている国として、ちゃんと現実に憲法が守られているかということを確認する意味でも非常に重要なものです。最低限の仕事だと思うのです。それを、内閣法制局だけに頼るのではなくて、国会で少数会派も含めて議論をして、権威ある憲法解釈を培っていく、それは国会議員1人ひとりにとって、当然の仕事といえるのではないでしょうか。
(構成・仲藤里美 写真・塚田壽子)
憲法論議を「サボタージュ」したままで、
進んできてしまった日本の政治。
3・11を経て、そのツケと歪みが一気に噴出しているようにも思えます。
さまざまな問題を、憲法に照らし合わせて議論し検証する。
憲法審査会が、そうした場になるのであれば、
それは大きな意義のあることだと思うのですが…。
南部さん、ありがとうございました。
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