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2012-04-25up
昨年、「下北半島プロジェクト」で青森県下北半島を訪れたマガ9スタッフ。短い時間でしたが、核施設のある六ヶ所や東通も訪れ、地元の方ともお話しする中で、主要産業であり雇用の場でもあった原発を、即座に否定はできない事情や空気があるということを感じました。と同時に膨らんできたのが、他の原発立地地域はどうなのか? という関心。日本各地の「原発のある地域」で、反対運動をしてきた方のお話などをシリーズでお送りします。
第1回(福井県・小浜市)真言宗御室派 棡山 明通寺 住職 中嶌哲演さんに聞いた:その1
真言宗御室派 棡山 明通寺 住職 中嶌哲演(なかじま・てつえん)1942年、福井県小浜市出身。東京藝術大学中退。高野山大学仏教学科卒。学生時代から広島の被爆者支援を続ける。68年、小浜市に原発建設の計画が持ち上がったことを機に、「原発設置反対小浜市民の会」を結成。事務局長を務める。93年「原子力行政を問い直す宗教者の会」結成に参加。2012年3月25日~31日まで、大飯原発再稼動に反対してハンガーストライキを実行。著書に『原発銀座・若狭から』(光雲社)、『いのちか原発か』(風媒社)など。
青森県弘前市出身の私は、「下北半島プロジェクト」のスタッフメンバーになり、昨年10月に、青森県の下北半島にあるむつ市で映画『ミツバチの羽音と地球の回転』の上映会を行いました。(なぜ私が「下プロ」の、メンバーになったかは、こちらのコラムをお読みください。)
上映会から半年が過ぎ、その間、考えていたのは、どうやったら下北半島に原発がいらなくなるのか。原発を受け入れた自治体と、拒否した自治体は何が違うのかということでした。
福井県小浜市は、再稼動問題の渦中にある大飯原発から20キロ圏内。原発国内最多15基の原発がある県内で、一貫して原発を拒否してきた自治体です。その中心にいるのが、明通寺の中嶌哲演住職(70歳)でした。どうして、中嶌住職は原発のない小浜市を実現できたのでしょうか? これからの下北半島のヒントを探るべく、お話をうかがいました。
市民が団結して反対できたから、
原発のない小浜であり続けられた
——すべての原発が停止する5月5日を前に、経済産業省の前では脱原発を訴える市民たちがハンガーストライキを行っています。3月26日からの5日間、大飯原発再稼働への抗議として断食をした中嶌住職の意志をつなぐ、リレーハンストです。中嶌住職は、40年も前から福井県小浜市で反原発運動を続けてきました。多くの人が原発に無関心だった当時、何がきっかけで反対運動を始めたのでしょうか?
福島第一原発事故のあと、40年も前から反対してきてすごいと言われますが、本質はみなさんと変わらないんですよ。自分の目の前に危険性が及ぶまで、原発に対してまったく無関心でした。
原発の危険性に気付くのは、日ごろの心がけや行いとは関係ありません。むしろ、かつての私は煮ても焼いても食えない“ウルトラエゴイスト青年”でした。長い間、戦争と平和の問題に生理的な嫌悪感すら抱いていました。文学や芸術、哲学の世界を追求することが宗教の本命で、粗雑な現実の世界には価値がないと考えていたのです。
意識が変わったのは、高野山大学で学んでいたあるとき、友人に半ば強引に連れて行かれた平和講習でした。広島の被爆者と出会ったのです。彼らは、なんの落ち度もないのに差別的な扱いを受け、隠れるようにして生きていました。子どもができても、被爆の影響がないかが心配でならないと言っていました。原子力とはなんと恐ろしいものか。それまで、現実世界を遠ざけようと固く閉ざしていた私の心に風穴が空き、勢いよく風が吹き込んできたのを覚えています。以来、小浜で被爆者を訪ね歩いて、広島から呼んだ専門医の診察を受けてもらうなどの活動をしていました。
被爆者支援という前史があったことで、原発の危険性を実感できたと思っています。もともと、なぜ若狭ばかりに原発が集まってくるのか? という素朴な疑問はありましたが、ある科学者の講演で一気に氷解しました。「原発1基が1年間稼動すれば、広島原爆1000発分の“死の灰”と、長崎原爆30発分のプルトニウムが生成する」。その言葉が頭に焼き付いて、私は反原発運動を始めました。原爆の材料が大量に残る危険性があるから、若狭のような過疎地にしか原発は建てられない。福島の事故で安全神話が崩壊したと言われていますが、とんでもない。福島や若狭に1基目の原発を押し付けた時点で、原発は自らの安全性を否定していたのです。
しかし、小浜に原発建設計画があると知って、初めて自分の問題として向き合った時には、すでに敦賀、美浜、高浜に6機の原発が建設中で、70年には敦賀と美浜の1号が動き始めました。なぜもっと早く、最初から反対できなかったかと、ほぞを噛む思いでした。
——青森県と同様、原子力関連施設がたくさん建つ福井県には、以前から親近感を感じていました。小浜市議会は、2011年6月に脱原発の意見書を採択しましたが、そこに辿り着くまでの経緯を教えてください。
小浜市に原発建設の話が持ち上がったのは、1968年が最初でした。日本海の外海に面している「奈胡崎(なごさき)」という岬が候補地で、当時の市長や県会議員などが4基の原発を誘致しようとしました。これに反対して、翌69年には地元の漁協が「内外海原発設置反対推進協議会」を立ち上げ、71年暮れに後継組織の「原発設置反対小浜市民の会」(市民の会)が結成されました。私は市民の会の事務局長でした。
市民の会は、有権者の過半数にあたる1万3000人の原発反対署名を集め、市議会に請願を提出しました。当時の市議会は26人中、反対派はたった5人で、いったんは継続審議になったのですが、ねじれ現象が生じていました。論戦では原発反対派が圧倒しており、署名の採択をめぐる会議の傍聴人は、最初は数人だったのが2回目は20人、40人、80人とどんどん膨れました。私が請願者代表で意見陳述をしたときは、会議室に入りきれなかった住民が委員会室を取り囲み、話し終えたときには部屋の内外から大拍手が聞こえたほどです。
最終的には、市長が「過半数の市民の反対があるなら」と原発誘致を断念しました。これが、一度目の原発拒否運動です。
75年になると、再び原発誘致の話が持ち上がりましたが、この時も市民が団結して反対しました。ポスターを張ってチラシを撒き、デモ行進をして住民過半数の反対署名を集め、市議会に提出しました。推進派は、数にものをいわせて市民の署名を不採択にしましたが、当時の市長も民意を理由に原発誘致を否定しました。
04年と08年には、使用済み核燃料の中間貯蔵施設建設の動きがありましたが、やはり市民たちの力で阻止しました。市長選挙で中間貯蔵施設反対派の候補者を投票させ、原発のない小浜であり続けたのです。
――それだけ市民の意見をまとめるのは、相当大変だったのではないでしょうか。
市民の会は、社会・共産系の6団体と、地元漁民など政党に関係ない3団体からなる組織でした。小浜の原発を阻止するという、同じ目標の下に集まりましたが、準備会の最初の頃は激論が交わされましたよ。60年安保以来、社会・共産系の共同行動は10年のブランクがあり、お互いの相互不信を生んでいました。原発に対しても、意見相違がありました。
ですから、まずはお互いの主張を思う存分言うことにしたんです。原発は絶対否定なのか、原子力の平和利用3原則は許されるのかといった議論を交し、その上で話を意見の一致する点、異なる点を整理しました。段取り8部といいますが、実行するまえに侃々諤々やり合ったから、あと2部の実践がスムーズだったんだと思います。
ただ、当時の小浜が3万5000人ほどの規模だったからできたのかもしれません。10万、20万の大都市では意見がまとまらないでしょうし、数千人の小さい町村だとしがらみも強いでしょう。
また、社会的にも学生運動や反公害の住民運動が盛り上がっていた時期で、市民運動そのものが今よりずっと一般的でした。小浜だけが特別だったわけではありません。おそらく各地域条件にあった固有の運動があるはずです。
――同じ福井県で、小浜市は原発を拒否できて、おおい町ができなかったのは何が大きな違いがあったのですか?
おおい町(旧大飯町及び名田庄村)には、いくつもの不利な条件が重なっていました。福井県のなかでも行政が貧困で、インフラの整備が遅れていました。なかでも、大飯原発が立地する大島半島は、旧大飯町内でも差別的な扱いを受けていたのです。原発マネーで橋が架かる前は離島のような地域で、どことなく一段下に見られていました。
しかし、現在、原発がある地域も、決して、能天気だったのではありません。程度の差はあれ全て反対運動が起こりました。
1970年に大飯原発1、2号機の建設計画が持ち上がった時は、大飯町に住民組織ができています。中心になったのは地元の開業医で、会員は400人。県外の専門家を招いて学習会を開き、原発を誘致しようとする町長のリコールを求めて署名活動を行いました。その町長は、関西電力と秘密協定を結んでいたことがすでに明るみになっていて、リコールされる前に自ら辞任しました。大飯町も住民の力で、いったんは1、2号機の工事中止を勝ち取ったのです。でも、切り崩し工作によって工事が進められ、その後も3、4号機が造設されてしました。
——切り崩し工作とは、どんなことをされたのでしょう?
私は「原発マネーファシズム」と言っているのですが、多額の原発交付金によって、住民たちは言論の自由を封じられました。
もの言えば唇寒しで、たとえば民宿や旅館の経営者が、町や関電、関電の下請け企業がからむ寄合の席で少しでも原発に批判的なことを言うと、半年間、客を寄せ付けないようにボイコットされます。公務員だったら、即人事異動。親が反対派の子どもは、町のなかでいじめに遭っていました。
大飯原発3、4号機増設の時は、小浜市民の会が反対デモを行ったのですが、人口8000人あまりの小さな旧大飯町に、ジェラルミンの盾を持った機動隊が1500人、機動車が四十数台、制服の警官と私服の公安が合わせて1900人も押しかけました。これだけの圧力があるのですから、肝心の旧大飯町民はひとりも参加できません。たった4人だけが、路傍から手を振ってデモ隊にエールを送りました。
それから、いわゆる政略結婚も行われていました。関電の正社員は、地元ではトップエリート。女性たちにとって憧れの的です。関電は、そこを狙いました。反対派だった人が最近おとなしくなったなと思ったら、実は娘さんが関電社員と結婚していた、ということがありました。そのために、若狭では40〜50代の独身男性が多いんですよ。
同じようなことは小浜でも起こりましたし、全国の原発立地自治体でもそう。きっと、青森県の下北半島でもあったことでしょう。
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