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2012-10-31up

【被災地とつながる:#14】釜石—横浜 往復書簡「広く冠水した街で思うこと」(小笠原拓生)

前回このコーナーに掲載した記事に登場したO(小笠原拓生)さんより寄稿いただきました。ここに紹介します。※写真もすべて小笠原さん撮影

小笠原拓生(おがさわらたくお)●1967年岩手県釜石市生まれ。東京の美術学校を卒業後、カメラマンを目指し美術専門学校で働いていたが、1990年、難病のベーチェット病を患い、1994年失明。帰郷し地元で家業の清掃会社を継ぐ。2011年3月11日、東日本大震災によって被災。現在は、妻、3人の子どもと釜石市の借り上げ住宅に暮らしている。

Kさんへ

 ずいぶんとごぶさたしてしまいました。
 いつも言うことは同じになりますが、まだまだ落ち着かない日々の中にいます。仕事に追われ、自分たちは何も手をつけられない…という毎日です。
 ずーっと放っておいた原稿を見直し、まとめてみました。部分的に書いた時期がまちまちでなんだかまとまりのない内容となってしまいました。それでもこれを送らないと、なにか次に行けないような気持ちです。

 震災から1年半が過ぎました。釜石も暑く長かった夏の時期が終わりました
 昨年の夏は、いたるところで撤去中の瓦礫からの腐臭と、ハエの大量発生に悩まされていた時期でした。
 今年はハエこそそれほど多くありませんが、現在もなお瓦礫は山と積まれています。建物が撤去された場所や、瓦礫のやまに草が生い茂った風景は、原っぱや小山のように見えるとの事です。全盲の私にはそれらの風景は想像するだけですが、人によっては、緑があるというだけで少しながらも気持ちが落ち着くとのことです。

 ここでは大きく変化することができない時間の中での日常が続いています。
 震災からの1年はとにかく現状への対処ということで仮設住宅・仮設店舗の建設などパタパタと風景が変化し、そういった意味ではまだスピード感があったように思えます。
 知り合いがどこそこに引っ越ししたとか、いつも食べに行っていた馴染みの飲食店が仮設店舗で復活したりなど。そしてそこへ出向きお互いの再会と店の再開を喜びあったりしました。

 今は「これから次にどうしようか?」という時期です。しかしそれはニュアンス的には、落ち着いているわけじゃなく、震災後の時間の経過にせっつかれながらの苦悩の時期なのです。復興という時間の風に乗っているというよりも、停滞している自分が、時間の経過に追われ追い抜かされている気持ちになります。

重機の音、水の上を走る車の音。遠くの音まで聞こえて、しばし空間にめまい

 私の以前に生活していた地域、釜石市の東部地区においては、おおまかな復興計画案や時期はようやく見えかけてはきましたが、事業の詳細や現実的な経過など、今後の生活の計画の方向を考えるために重要なところがはっきりしないままです。
 そんな毎日の中で、なんとか実感と手ごたえのある目標を見つけ、それに向かうモチベーションを持たなければこれからも、ただただ忙しく目の前の事柄をこなしていく毎日が続くだけのような気がします。

 復興計画の遅れにより、浸水した市街地はマダラな状態での変化が始まっています。
 現段階においてもなお大規模な造成がされていない市街地では、店舗を自分たちで修繕して以前と同じ場所で営業する店や、更地になった浸水地域に新築をし営業を開始する店もあります。それらを見ると、また同じような町が出来上がってきて、それをベースに自分たちの今後を考えてしまうような、甘く危うい想像をしてしまうこともあります。

 以前と同じところで復帰しようとしても、そこは盛り土される地域であったり、今後の街づくりの中で、周辺がどのような地域になるのかにより、本当にそこで同じ商売をしていけるのか、なにより安全面での不安がある…などなど、なかなか次に踏み切れずにいる方々は多いのです。

 そして高齢の方々にとっては、いつ始まるか分からない復興事業や、未来の予想図。どのような気持ちでそれらを見つめているのかを考えると、こちらもまた複雑な気持ちになります。

 震災後幾度となく開催されている市の復興計画の説明会の中などで、高齢の方が「どうせ、生きている間には…、だったら残り少ない人生を以前と同じ場所で送らせてくれ」という意味のことを話されると、ありふれる復興に関する言葉での説明は、どことなくとってつけた重みのないものに思えてきます。

 商店の業種による違い、世代の違い、土地計画に関するライン周辺の方々、ほかにもさまざまな立場の違いによって、更地となった街の見え方は異なるのでしょう。

 テレビなどで被災地を報じるニュースは、明るい部分のことが主です。確かに現状の一面であり、うれしいことで、そこから力をもらうこともあります。
 そのようなニュースが話題となって、仕事仲間や近所の人たちと明るくコミュニケーションを取っても、いざ一人になると、やるせない不安と先の見通せない今後に対しての気持ちが迫りあがってくる人たちも少なくないのです。
 現在のメディアも含め、多くの人々は直接「津波被災」を忘れているということではないのでしょうが、実際の時間の経過というものは、心のどこかである部分を忘却し被災の現実をわずかずつ、日常化しているのかも知れません。

土を見つけて根をはる植物。実もあるようだが、徘徊する熊も食べるのだろうか?

 しかしながら、これまでの生活を考えたとき、まだまだ自分たちは異常な光景・現状を受け止めきれてはいません。
 一変した街の風景を改めて眺め感じたときに、こみ上げてくるやるせなさ。そして身近な人々との突然の別れ。昨年夏の初盆を迎え、3月の一周忌、2度目のお盆。時間の流れによって受け入れたつもりでいても、それは一部分で、多くの部分はまだまだ心の中で渦巻いて浮遊しています。

 いまでも、新しい別れに出会うこともあり、だれもがこれまで体験したことのない多くの離別に対処しきれていないのではないでしょうか。

 ボランティアに携わる方々からの「東北の震災を忘れないで!」という外に対してのメッセージ。 当事者である自分の「震災のことを忘れてしまう、忘れてしまいたくなる瞬間」。そして復興イベントなどで聞かれる「この時間だけは、震災のことを忘れてください」というフレーズ。

 どれも違った意味の「忘れる」という言葉です。そしてどれもその瞬間には違和感は感じません。けれど並べて考えてみたとき、どの「忘れる」にもその後ろにある若干の寂しさが見え隠れする感じがします。刹那的な気持ちになり、孤独をふと感じるような…。

 そして次に「震災」を「障がい」という言葉に置き換えてみます。

 自分は23歳で原因もよくわからず目の病気を発症し、数年後には全盲となりました。病気とはいえ、自分にとっては本当に突然の事故のような出来事でした。
 発症当時の「ショック」と、その後の病気に対する「拒否。気持ちの落としどころを見出せない「怒りと怯え」の時間。心の奥でにじみ出てくる「嫉妬」とそれに対しての「嫌悪」。「無力感」を伴う「無関心」などなど。
 自分の障がいについて「受容」までの経過と、震災後にたどる気持ちの移り変わりがどことなく重なってくるようです。それは個人としての段階と同じように、被災地のコミュニティそのものがこれらの段階を通過しているように見えるのです。

 視力が低下し、今後の生き方、仕事のことなど根本から考えなければならない状態になったとき、役所をはじめ、さまざまな機関へ相談に行きました。だいたいが同じような問答を繰り返していたように覚えています。

 相談のカウンターの向こう側の人は、「どのようなことがしたいのですか?」「どんなことを希望しますか?」といい、それに対して、こちらの気持ちや希望を伝えると、そこからはほとんどが「それは現段階ではできない」とか「そこまでは対象とならない」など否定的な話となります。

 ならば「何ができるのですか? どの部分が対象なのでしょう?」となり、提示された選択肢の中で判断しなければ先へ進めない状況となるのでした。

 このようなやりとりは、震災後いろいろな場面でも交わされた、今でも交わされているものです。

 その時期、周囲の優しさに対して、気遣ってくれることに感謝を感じつつも、どこかで何かがそれらの気持ちをはじいて押しやってしまうこともありました。

 自分の現在おかれている状況と、これからのことを無秩序にグルグルと果てしなく考える孤独で沈黙せざるを得ない時期。これもまた今の状況にも当てはまるものと思われます。

 震災後も時間は前に進み、先のことをとりあえず考えていかなければならない。しかし思考は逆に過去の思い出にグイグイと向かっていきます。自分を、そして今の時間を間にし、そこから先へ気持ちを引っ張り戻すのは、逆向きに何倍も力をかき集めなければならないのです。

 ただ、この無秩序にそしてランダムにひたすら自問自答したり、怒りや嫉妬などをちょっと吐き出してみては押さえ込んだりする時期は、無駄ではなくむしろ必要な時期。とんでもない非現実的で最悪なことを考えるときにでも、そのことへの対処法をどこかで無意識に考えているもの。それが後の判断に影響してくるものと思います。

 失ったものは多く、喪失感に打ちのめされていても、いまの現実を直視し、ないもの・残ったものをしっかりと把握して、それらに価値を見い出していく。

 という流れを「数多くの拒否」と「小さな受容」を少しずつ繰り返して辿っていくのかも知れません。

 二つの意味を同じレベルでとらえることには無理があるのかも知れませんが、身体に(後天的に)起こった障がいと、地域に起こった災害。これらは「突然の発生」〜「応急・臨時的対処」〜「長期的なサポートとそのプログラム」の必要性という共通点を持っているように思えます。

 ただ、震災はまだまだ継続しています。依然として頻繁に地面が揺れる中で、どの時期を「底」と認識して這い上がっていけばよいのかがわからない。この気持ちはいまなお続いているかも知れない地盤の沈下と盛り土・防潮堤の高さとの関係にも似てるとも言えます。

 現在復旧中の湾口防波堤、防潮堤、まだ動きのない盛り土。このような防災に対してほぼ無防備な今の段階で、予想されているアウターライズ地震などが起これば、かなりの被害となるのは想像するに難しくありません。身近であの津波を経験し、そこからぎりぎりで逃げることのできた自分たちにとり、それは具体的に想像可能な現実なのです。

 津波の瞬間、屋上の塀をつかみ、見下ろし耳を澄ませた街。聞いたことも無い音で水が通り過ぎていきました。あの時は何が起こったのか、街がどうなったのか分かりませんでした。

 けれども今は分かります。現実に起きたことなのです。忘れることはできないし、忘れてはなりません。

 次の災害や大津波など、できれば考えたくありませんが、「1000年に一度」という言葉には違和感があり、まったくリアルに受けとめることはできません。

 とはいえ、復興計画の中で翻弄されている今、区画整理の線引きや盛り土の高さに目が行き、そこでそれぞれの今後の生活のイメージを読み取ろうとしているのも事実なのです。

 現在、市は浸水市街地の中心部に大型のショッピングモールの誘致を進めています。周辺の区画整理をして、商業・文化施設などを集積するという方向で動き始めています。

 次の災害に対する防災面の不安と、大きなショッピングモールの誘致画もたらすさまざまな不確定な要素。その中でどこにポイントを当て、どの部分を足を乗せる地盤として考えていくのか、誰もが悩んでいます。

 長期的な思考と目の前の現実。それはめまぐるしくうわさの飛び交う復興計画と、突然現れる街中での新設の建物などにより、同じレベルで考えることを難しくさせてもいるのではないでしょうか?

 今の現象が未来を作り、いまを乗り越え、または手放さなければこれからの未来を掴む手も用意できない。咀嚼したら飲み込まなければ、または一度吐き出さなければ次のものを口には入れることができない。

 どこかの時点で何かを手放し、次に向かわなければなりません。震災が奪い去っていったあと、残ったものさえ手放さなければならない状況も多くあるのです。

 被災した私たちにとっての当面の問題は住宅のこと。仮設住宅の延長はあるものの、いつまでもとはいきません。これは「いつまでいられるか」という不安と同じように、生活環境的に「いつまで耐えられるか」という不安もあるのです。

 次の段階の集合住宅の建築もようやく具体的なイメージが持てるようになり、現在市はアンケートにより、どれほどの戸数が必要かを確定しようとしています。

 ただ、前述のように浸水地域で大きな区画整理にあたる地域などでは、具体的計画、時期が未確定のまま、「自力再建」か「集合住宅への入居」かを判断することはまだまだ難しいことなのです。

 そのような中でも釜石の西部地区はいま新築住宅建設が多く見られます。浸水した地域の地価の下落とは逆に、西部地区の地価は高騰しています。建設関連会社やハウスメーカーの事務所もかなり増えてきましたが、もともと平地の少ない釜石、移転して自力再建するにしても思うように場所を確保できないのが現実です。

 釜石は9月の後半からぐぐっと一気に気温が低下し、真夏の熱帯夜から秋を飛び越え、もはや冬の始まりのような日々です。

 今は大潮の時期。満潮時にはやはり海に近い市街地は海水が昇ってきます。昨年の今頃はかなりの地域が冠水しました。あの風景がまた繰り返されるのでしょうか。もしも地盤沈下が進んでいれば、昨年以上になるのかも知れません。

 先日、雨の降る街中を車で走りました。満潮の時間とは重ならず、ひどい冠水はないものの、下水のにおいが車の中へ漂ってきました。十分に復旧がなされていない下水道は、うまく機能していないらしく、冠水とともに押し上げられ、漏れ出しているのでしょう。これらも盛り土の計画ともからみ、まだ手をつけられずにいる部分なのでしょう。

 マンホールから水の染み出してくる路地、水はただ低いところへ集まり、均一に水面を上下させているだけなのです。土を求め、建物跡地や瓦礫の山をコーティングする植物と同じようなもの。

 流れ込む水面は現在の街と海との関係を静かに示し、土があるところへ植物が根を張る。純粋な示唆と再生のようにも感じられます。「緑のコーティング」は荒廃ややるせなさをも超えて、少しなりとも人々の気持ちに自然の穏やかさを与え、再生へのタネ火を灯してくれるしくみなのかも知れません。

追記:
 数日前からは市街地に熊の出没が続いています。震災以前にもこの季節に熊が山から下りてくることは珍しくはありませんでしたが、それはほぼ山際の地域に限られたことでした。
 しかしここ最近は被災した市街地を通りこえ、海のすぐそばでの出没です。人の気配の少ない夜の市街地は、熊にとってさほど警戒する地域ではなくなったのでしょう。
 自然は本来の時間の中で静かに経過しているようです。

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