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2011-04-27up

【被災地とつながる】#01: 青年ケンの身の上におこったこと@南相馬

渥美京子●あつみ・きょうこ 静岡県に生まれる。労働問題の専門出版社、雑誌記者などを経てフリーランスに。夫と中学生の息子と東京に暮らす。原発爆発後、まず考えたのは「子どもを連れて西に避難したい」ということ。だが、仕事あり、(息子の)高校受験あり、故郷には浜岡原発ありで、現実的でないと断念。「福島と全国をつなぐメルマガ」をボランティアで配信中。著書に『パンを耕した男~蘇れ穀物の精』(コモンズ)など。

福島に住む友人の縁から、
ささやかなボランティア活動が始まった

 あの日、原発事故の一報がテレビから流れた3月12日、私は安否がわからない福島の友人からの連絡を東京の自宅で待っていた。彼の名は大橋雄二(54)。福島市内で社員50人からなる銀嶺食品工業というパンの製造販売会社を経営している。彼は血友病を抱え、血液製剤の投与を欠かすことができない上、左足がない。24歳の時に大腿骨を骨折して切断。以来、車椅子生活をしている。
 彼と知り合って12年ほどになる。福島県の地産地消の食材を使って、こだわりのパンを作り続ける姿に惹かれて取材を続け、『パンを耕した男〜蘇れ穀物の精』(コモンズ刊)を上梓した。その続編を出するために2年前から密着取材を続け、この秋の出版に向けて最後のフィニッシュに入っていた矢先の大震災だった。
 無事だという連絡がきたのは、12日の夕方。聞けば11日に東京での商談中に地震に被災。車椅子のまま、新宿にあるホテルのロビーで一夜を過ごしたという。血液製剤の投与期限が迫った翌13日、福島に戻る。その後は、水やイーストなどパンに必要な材料の確保に工面しながら、休日返上で被災者向けのコッペパンを1日15000個作り続けた。
 大震災から1週間たったある日、電話であることを頼まれた。当時、東北新幹線は止まり、高速道路も断絶していた。
 「私が近況を伝えるから、渥美さんがコメントをつけてそれを私の友人たちに配信してくれないだろうか。この瞬間起きている未経験の日々を、リアルに伝えることで、みんなの気持ちを一つにしたい。苦しく、悲しく、辛い時こそ笑顔で分け合い、支え合い、励まし合いたい」
 何か支援したいと思っていたなかで、私にできるささやかなボランティアと思い、その役割を引き受けた。以来、「福島と全国をつなぐ〜大橋雄二通信」と名付けたメルマガを毎日、発行している。通信を通して知り合った人の数は150人を越える。これについては別の機会に譲ることにして、今回はその中から福島県南相馬市に住むある青年の話から始めたいと思う。

南相馬市に住むケンとの出会い

 「福島第一原発の北にある町」で全国に知られることになってしまった福島県南相馬市。しかし、つい1ケ月半前までは海の幸、山の幸に恵まれ、人口約7万人、2万3000世帯が暮らす太平洋岸沿いにある平穏な町だった。
 ケン(23)はこの町で生まれ育った。父親は原町区にある国道6号線沿いでレストランを経営している。彼もここで働いていた。将来は店を継ぐつもりだった。かろうじて津波被害は逃れた。
 私がケンと初めて話したのは3月28日、彼が原発事故のため両親に加え、交際中の彼女一家とともに福島市内に避難していたときのことだ。
 「22日の夕方、一緒に避難してきた彼女と、コインランドリーを探して市内を歩いていたら、パンの香りがしてきたんです。見ると、パン屋さんがあった。パン好きの彼女は『何かできることがないか聞いてみようよ』と。避難生活で仕事ができず身体がなまっていました。パン屋さんに飛び込み『お手伝いさせてもらえませんか』と頼んだんです。店の人が事務所へ案内してくれ、そこで大橋さんに会いました。大橋さんは『ぜひ、明日から来て下さい』と行ってくれました」
 それ以降、パンを焼く鉄板の掃除や、被災者へのパンの供給などを手伝っていた。

「原発が爆発しました」と緊急事態を知らせる放送が

 そのケンに、原発事故が起きた12日の話を聞いた。地元の消防団に入っている彼は、地震と津波の後の救援活動に加わっていた。
 「その日は、朝から遺体の捜索をしていました。海辺から3〜4キロまで、津波にやられ何もない状態。土から手だけがでている遺体もありました。一度は余震がきて、『津波がくるぞ』と言われ、走って高台に向かって逃げました。津波警報が解除されると、また浜で捜索を続けました。しばらくして、『原発が爆発しました。すぐ屋内に避難してください』と緊急事態を知らせる放送がスピーカーから流れました。僕がいたのは、第一原発から20キロの地点です。津波にやられ、あたりは更地。『屋内』なんかない。消防団の分団長が『それぞれ家族のもとにいけ』と言いました。『どうなってしまうんだろう』と思いながら、必死で逃げました」
 彼は家族と合流し、原発とは反対方向の「北」へ車で向かった。川俣にある道の駅で一泊した後、郡山の磐梯熱海にいる知り合いを訪ねた。旅館の別館に泊り、旅館で働きながら数日を過ごす。別館から旅館までは車で10分かかる。ガソリン不足が不安になり、福島市内に出て、1ケ月契約でアパートを借りた。大橋氏と出会ったのは、そのときのことだ。

 南相馬市は福島第一原発から北へ20〜30数キロの距離に位置している。大津波のために海岸付近はほぼ壊滅状態。407人が亡くなり、いまだ1070人が行方不明のままだ。また、5710人が避難生活を送っている(4月10日現在)。当時、福島第一原発から半径20キロ圏内にあたる地域は政府から「避難指示」が出ていたが、20〜30キロ圏内は「屋内退避」。3月25日には「自主的圏外退避」が呼びかけられた。彼の家は福島第一原発から半径約20キロ地点のすぐ外にある。避難指示が出ているなら、従う。しかし、「屋内退避」「自主避難」という「あいまいな状況」をどう判断するのかで悩んでいた。27日、ケンは南相馬の様子を見に出かけた。福島の春は遅い。道は凍結していた。福島市内から南相馬まで2時間かかった。
 「最初に市役所に行きました。いつになったら、南相馬に帰れるのか、店の経営はどうすればいいのか、少しでも情報を集めたかった。役所の人に話を聞いたけれど、『自主避難は国が言っているだけであって、地元としては自主性にまかせるしかない…』と要領を得ませんでした。それから、避難せずに町に残っている祖父母を訪ね、2時間ほど話をしました。友だちの家が泥棒被害にあっていないか見ました。町を歩くと、あちこちで店が開いていました。肉屋が営業していました。僕はそこでコロッケを買いました」

南相馬にもどり、
レストランを再開することに決めたが・・・。

 原発の爆発とともに家族で避難生活を始めてから、一家の収入はゼロ。福島市内の狭いアパートでの暮らしには限界を感じた。南相馬に帰ることを考えたケンは31日、もう一度南相馬に行った。
 「津波の被害にあった現場に行き、あの日の記憶が蘇りました。津波でひっくり返された車の中に残された遺体を救出したこと。人はこんなに簡単に死んでしまうのかと立ちすくんだこと。捜索をしていたら、原発が爆発したと知り、あわてて逃げたこと。僕は福島市内に避難している間に、少し平和ボケしていたことに気づきました。南相馬に帰ることにしました」
 4月1日、ケンは家族とともに南相馬に戻った。私は、彼とその後も連絡を取り続けた。「地震で壊れた家具や割れた食器を片付け、レストラン再開に向けてがんばっている」という前向きな思いが書かれたメールを見ると、放射性物質によって被曝しないだろうかと不安がふくらんだ。
 東京をはじめ各地で原発に反対するデモが行われていた4月10日(日)、彼の携帯に電話してみた。
 「今、遺体の捜索中なんです」
 そこでいったん電話を切り、夕方かけ直した。
 「ずっと消防団の活動に参加できていなかったんで、久々に行ってきました。今日は1体見つかりました」という。
 放射性物質による被曝が気になった。
 「放射能の恐怖? 正直、怖いです。『ただちに影響はない』というけれど、じゃあ3年後、5年後は大丈夫なの? って思う。仙台に行き、仕事がないか探したけれど、どこも厳しくて見つからなかった。だから、南相馬でがんばるしかないっす。外に出るときは、マスクはしています。水? うちは井戸水を飲んでいるんです。市役所に『安全かどうか、検査してほしい』と頼んだら、『一軒一軒、検査する余裕がない』といわれました。でも、井戸は100メートルも掘っているので、大丈夫でしょう」
 雨にあたらないように、と伝えると、
 「わかっているけれど、多少は雨にあたっても気にしていないかも。だんだんマヒしているような気がします。危機意識が薄れてきている。町に戻る人が増えているけど、マスクしていない人をけっこう見かけるようになりました」
 ケンは12日、レストランを再開した。復興への祈りをこめて用意したメニューは「焼肉定食」「肉野菜定食」「ホルモン定食」「肉うどん定食」の4つ。「どれくらいお客さんが来るかわかりませんが、頑張ります!」とメールがきた。
 しかし、事態は急転した。政府は4月22日午前0時、福島第一原発の半径20キロ圏内を「警戒区域」とすることを発令した。これ以降、住民の立ち入りは法的に禁止され、各市町村長は退去を命じることができるようになった。許可なく立ち入れば罰則の適用もある。
 その日、ケンから届いたメールには「役所の職員が20キロの範囲を正確に計ったみたいで、自分の家から100メートルくらい先の家が警戒区域になってしまいました。その先にはまったく人が入れなくなるそうです。親と話し合ってこの先の人生を考えて、とりあえず自分だけ県外に出ることにしました」とあった。
 26日の早朝、写真付きのメールが届いた。
 「この写真は今、実家から撮った写メです。見づらいかもしれませんが、警察が4、5人体制で24時間封鎖しています。近いですよね(笑)」
 南相馬を出るのはゴールデンウイーク明けと決めている。

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福島の被災地からのさまざまな声が、
渥美さんのところに寄せられているそうです。
有機農業を営む農家の方、福島で診療を続ける小児科医、
子どもを持つ若いお母さん・・・などなど。
「東京に暮らす私に何ができるのかわからない、
でもとりあえず彼ら、彼女たちの声を伝えていきたい」
そんな思いで綴る渥美さんのレポートです。

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