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2012-04-18up

原発震災後の半難民生活:宇都宮沖縄間右往左往

いわま・せん/横浜生まれ。宇都宮在住。大学教員。

3章:ひとり暮らしの始まり(ゴールデン・ウィークまで)
その2「数値と言葉」

1)

 宇都宮に帰宅してからのことを、つぶさに記憶しているわけではありません。ためしに手もとのダイアリーを開いてみても、昨年四月から五月半ばまでの日記はすっぽりと抜け落ちている始末です。

 もともと日記を付けるのが苦手なたちなので、それ以外の日付のページをめくったからといって、なにか特別なことが細かく書き残されているわけでもありません。ただ、この時期の私が簡単な予定を書き留める余裕すら失くしてしまうほど、日々の雑事に追われていたということだけははっきりしています。

 いよいよ新学期が始まり、授業と学務に忙殺されることになりました。これに加えて、今までなら妻が請け負ってきたことまで、ひとりでこなさなければなりませんでした。料理、買い物、掃除、洗濯などの家事全般は言うまでもなく、娘の移転にまつわる各方面への連絡や手続きが次々に降りかかってきました。住民票の移動、幼稚園の休園手続き、郵便局や銀行口座の変更、図書館への絵本の返却…… ある日などは、聞いたこともない保険の登録内容に関する問い合わせが留守番電話に入っていて、妻に尋ねても一向に要領を得ないので途方に暮れたものでした。運悪く、地域の自治会から「保健当番」の係がまわってきたために、大学から帰宅するや、全住宅向けの回覧板を整理したり、その報告を記録したり、各世帯の共益費を集金したりする仕事を受け持つことになりました。

 目の前のことをひとつずつ片づけていくだけで、精いっぱいの毎日でした。私はやむをえず、三年前に宇都宮に引っ越してきてからの日課だった、片道三〇分の自転車通勤をあきらめて、ちょうど二か月前に購入したばかりの中古車を多用するようになりました。避難する以前なら、助手席に陣取った娘が、「フィーちゃん! ミギニ、マガリマス!」「フィーちゃん! イチジ、テイシ!」と大はしゃぎしていたホンダのフィット…… 沖縄とは違って、宇都宮の道路の幅はどこもかしこも狭苦しく、なぜか運転の荒っぽい車が多いので、初めは冷やひやしながらハンドルを握りしめていたことをよく覚えています。

2)

 この頃、宇都宮ではかなり大きな地震が相次いでいました。栃木県の地元紙である下野新聞の報道をたどりなおしていくと、「宇都宮、また震度5」といった見出しが登場していることが分かります。地震の頻発に伴って、県内各地で土砂くずれが起きたり、建物の天井が落下したり、国道の交通が規制されたりもしていたようです。4月12日付けの同紙朝刊は「県内家屋損壊3万3225棟」と報じており、いわゆる3月11日当日の大震災だけではなく、その後も引き続いた数多くの地震こそがこうした深刻な二次災害を引き起こしてきたのではないか…… そう思えてくるのです。

 もちろん、私も初めからそんなことをじっくり考えていたわけではありません。四月当時の私は、沖縄に避難していた時期とはまた違った意味で、混乱し、揺らぎ、時には麻酔でも打たれたかのように思考も感覚もしびれ果てていました。それにしても、私はなぜ、こうした麻痺の状態に陥っていたのでしょうか? たしかに毎日の職務や雑事に追われていたのは事実だとしても、そればかりがすべての理由ではなかったはずなのです。

 それなりの月日が経過した今の時点に立って、当時の自分のことをふりかえってみると、そこには大震災や放射能汚染をめぐる報道内容への居心地の悪さがあったのではないかと感じています。

 たとえば、毎日のように報じられていた数字のオンパレード。その典型は、何といっても地震と津波による死者・行方不明者の数です。千人、2千人、3千人…… じわじわと増えていくそのデータの移り変わりが、新聞紙上に踊らない日はありませんでした。こうして淡々と犠牲者数が報告される一方で、被災地の人たちがその場でどんな暮らしを営んできたのか、どのような困難のなかで津波の犠牲となったのか、そしてなんとか生き延びた後も、どのような状況下で、どのような苦しい生活を強いられているのかという肝腎の問題に関しては、感傷的なエピソードが並べられるばかりで、最後には「がんばろう東北」「がんばろう日本」という呪文が垂れ流しにされるありさまでした。このメッセージが誰から誰に向けられたものなのかは、まったく不問に付されたままで……

 0.2マイクロシーベルト/時…… 120ベクレル/キログラム…… こうした放射能汚染に関わる数値の行列も、また別の意味でこちらの思考を麻痺させるには十分なものでした。というのも、これらのデータがどのようなリスクを伴うものなのかという私たちが最も知りたい事柄に関しては、入れ替わり立ち替わり登場してくる「専門家」の立場によって、見解から基準まで何もかもがマチマチだったからです。ひどい場合には、大変な「権威」として喧伝された放射線研究の大学教授が、ころころと発言をくつがえすような場面も見受けられました。この教授は現在、福島県立医科大学の副学長に就任し、福島県民の「健康調査」プロジェクトを主導しています。

 そういえば、レベル7という数値が浮上したのも、この頃のことでした。4月12日、日本政府は福島原発事故を、あの「史上最悪」と目されてきたチェルノブイリ原発事故に並ぶレベルとして正式に認定することになったのです。事故直後の段階では、「大したことはない」「冷静になれ」という大合唱がテレビから降り注いできたはずなのに、それから一か月も経たないうちに、本当は最も深刻なレベルの事故だったということが公けになったわけです。

 そればかりではありません。数値への麻痺ということは、言葉への麻痺ということと分かちがたく結びついていたように思います。事実、東電、原子力保安院、さらには大学の「権威」たちが何らかのデータを示しながら報道陣の前で語ってみせる言葉は、その大半がなんとも軽薄で、白々しいものばかりでした。それに、テレビや新聞がこぞって「風評被害」という言葉を使いまわすようになったのも、やはりこの頃のことでした。日本のあちこちに放射能汚染が拡散しているのは紛れもない事実なのに、どこをどう突けばこの現実を「風評」と断じる見方が出てきうるのか、今でも私は理解に苦しみます。

――言葉への信頼感が、粉々に砕け散っていく……

 私は次第にそんな感覚にさいなまれるようになりました。学問の府の片隅に身を置く人間として、こういうことを書くのは忸怩たるものがあるのですが、もう「専門家」と称するひとたちの話を手放しに信用することはできない、というのが率直な気分でした。

 どんなに滑稽で、どんなに不器用であろうとも、放射能の影響に関しては自分で調べて、自分の頭で考えるしかない…… この当たり前と言えば当たり前の確信に到達するまでに、そう多くの時間はかかりませんでした。

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「言葉への信頼感が、粉々に砕け散っていく」。
同じ思いを抱いた人は、決して少なくなかったのではないでしょうか。
3・11は、私たちの価値観やものの考え方そのものをも、
否応なく変化させる契機となったのかもしれません。
そして、そこから見えてきたものとは--。

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