憲法と社会問題を考えるオピニオンウェブマガジン。
2011-12-14up
原発震災後の半難民生活:宇都宮沖縄間右往左往
いわま・せん/横浜生まれ。宇都宮在住。大学教員。
2章:宇都宮に戻るまで(3月16日~4月)
その2「三つの戦争」
3)
沖縄という離れた場所から見る原発事故の状況は、異様そのものでした。
突然、自衛隊のヘリコプターが出てきて、原発の上空を飛行しながら水をかけはじめたのには我が眼を疑いました。なんという無意味なパフォーマンス。水が建屋にすらかからずに風に流れていく映像は、目を覆いたくなるほど惨めなものに見えました。
ほどなくして、なぜか東京都の消防隊員が呼び出され、原発敷地内で命がけの放水作業をやらされたりもしていました。こんなことのために駆り出される隊員たちやその家族の気持ちを想像して、私は暗澹たる気分に落ちこみました。
そのうち、原発事故の評価が、レベル5、レベル6……と次第に引きあげられていきました。どうやら放射能の汚染が広大な地域に及んでいるということも、少しずつ明らかになりつつありました。東北から関東までの野菜や原乳、それから東京都内の水道水の中からも、次々に高濃度のヨウ素やセシウムが検出されるようになりました。3月末には、原発敷地内の土壌が、猛毒物質と言われるプルトニウムで汚染されていることが判明し、さらに4月初旬になると、天文学的な分量の汚染水が、福島県沖から太平洋へと投棄されてしまいました。
これほどの大事故が起きているにも関わらず、テレビの画面には、今まで見たこともない「専門家たち」が入れ替わり立ち替わり登場してきては、「安全だ」「冷静になれ」とまくしたてていました。それでいて、原発周辺地域への避難指示は「念のため」という理屈のもとで、じわりじわりと拡大されていったのです。
ちょうどこの頃、私と同じように避難していた研究者仲間から、次のような強い口調のメールが届いたのは印象的でした。
――いったい、戦時中の「特攻隊」の精神と、どこがどう違うというのだろう。「神国日本は絶対に負けない」とでも言うのだろうか。この国の人たちは、なんでこんなものに従順についていこうとするんだろうか。まるで自己保存の原則が欠けているみたいに。
私はこの危機感いっぱいの文面に触れながら、3月15日当日、宇都宮から成田に向かう途中の国道で、何台もの自衛隊のジープとすれ違ったことを思いだしていました。
戦争状態……
この言葉が、改めて私の頭に重苦しくのしかかってきました。
それでも、その時の私は、当の言葉の底にうごめく「痛み」とでもいうべきものを、まだ十分には理解していなかったのだと思います。それを多少なりとも実感することになったのは、まさに避難先の沖縄県G村での滞在を通してのことでした。
ある日、生活用品の買いだしのために、私は義父から借りた米軍関係者の車であることを示すYナンバーの車に乗って、ぼんやりと国道を走っていました。目的地のマックス・ヴァリュに向かう道すがら、私はハンドルを切りながら、緩やかなカーブを曲がり、なにげなくバックミラーに目をやったのでした。
その瞬間の、背筋が凍りつくような感覚を忘れることは、決してないでしょう。ミラーのなかには、不気味な黒々とした影が隅々まで充満していて、にわかには何が起きているのかを理解することができませんでした。
目を凝らしてみて、ようやく合点が行きました。そこに大写しになっていたのは、ゆうに車高3メートルはあろうかという米軍の装甲車だったのです。重厚な鉄の塊が日差しをテラテラと反射させながら、私の車のすぐ後ろまで迫っていました。
たっぷりとした威圧感……おどろおどろしい方形……この巨大な車両は、その後も数分間に渡って、ミラーの端に現われたり消えたりをくりかえしながら、しつこく背後からまとわりついてきました。
とりたててどうということもない日常的な国道の光景が、あっという間に、はちきれんばかりの暴力の気配で満たされた瞬間でした。
もちろん、日本の全国土の1パーセントにも満たない沖縄に、在日米軍基地の7割以上が密集しているという事実を知らなかったわけではありません。そもそも、私の義父は、嘉手納やキャンプ・ハンセンの中にあるインターナショナル・スクールで生物学の教鞭を取っていたので、私としても、一般には伝えられていない米軍基地の内情をはるかによく知ることができる立場に置かれていました。
それでいて、自分がこの問題をまともに考えてはこなかったのだということを、私は思い知らされたのでした。これまでの私にとって、沖縄の在日米軍基地は、せいぜい大量に氾濫する諸情報のひとつに過ぎませんでした。いや、もっとはっきり言えば、情報としては知っているはずなのに、それでも、できればなかったことにしたい問題でありつづけてきたのだと思います。今から振り返ってみると、そこには身内の人間が、ほかならぬ基地に寄生して食いつないでいるということへの後ろめたさも、少なからず働いていたような気がしています。原発事故が起こる前の私は、母や義父の「遊びにおいで」という誘いをずっと無視しつづけていました。
いずれにせよ、沖縄では国道のまっただなかにも、ふと横道に逸れて紛れこんだ何の変哲もない空き地や草っ原にも、いたるところに「戦争」の濃密な気配が漂っていました。
日中、高速道路を走っている最中に、突如として視界に飛びこんでくる「流れ弾に注意!」と殴り書きされた看板……
夜半、私たちが眠りに就こうとする時間帯を見計らったかのように、すさまじい爆音をとどろかせながら、屋根の上すれすれを通り過ぎてゆく何機もの戦闘ヘリ……
早朝、庭に出て野菜や草花に水をやっていると、ふとした拍子に近くの山林から鳴り響いてくる機銃掃射の実弾訓練……
たとえば、祖母の介護にやって来るヘルパーのNさんによると、キャンプ・ハンセンの近くに暮らす少女たちは、誰もが一度は米軍兵に追いかけられるという体験をしていて、そう語るNさん自身、小学生の時に何度も怖い思いをさせられたというのです……
――もう何十年もの昔から、「終戦」の宣言にも関わらず、沖縄だけは毎日のように「戦時下」でありつづけてきた。そして、私たち「本土」の人間は、現在にいたるまで一貫して無関心を決めこみ、沖縄というこの小さな島に溢れかえる暴力の記憶を「なかったこと」にしつづけてきた……
私は呆然たる心持ちで、こんなことを考えるようになりました。
けれど、私が沖縄で突きつけられた「戦争」の問題は、そればかりではありませんでした。というのは、今年、かぞえで95歳になる私の祖母が、いまだに六十余年も前の過去を引きずりつづけていることを目の当たりにしたからです。
義父の家で介護を受ける祖母の暮らしぶりは、母の言葉を借りるなら、「体だけそこにいて、魂はもうこの世にない」ようなものでした。
夜中に徘徊を始めることはすでに述べた通りですが、日中の祖母は、食事の時間帯に置きだしてくる以外、ほとんどはベッドのなかでうとうとしているばかりでした。そうかと思うと、ふらりと散歩に出て行ったきり、どこか見知らぬ場所で迷子になって、通りがかりのヘルパーさんに保護されるということが何度も重なりました。
そんな祖母が、あるとき私の顔を見つめながら、こう口走ったのです。
――わたしは、罪深い人間です……
いきなりのことだったので、私は思わず腹を抱えて笑いだしてしまいました。けれど、それにはお構いなくとつとつとした調子で祖母が語りつづけた事柄は、私に冷や水を浴びせるだけの重苦しい内容でした。
戦中、祖母は二人の子どもを産んだのですが、ひとりめは嫁ぎ先の東京で、ふたりめは郷里の岐阜で、それぞれ別の理由から亡くなっていました。
ひとりめの子どもが命を落としたのは、生後まだ間もない時期のことでした。理由ははっきりしていて、祖母の母乳がなかなか思うように出ず、栄養失調になったためでした。
けれど、祖母の話によく耳を傾けてみると、そもそも母乳が出なくなったのは、同居していた姑がなけなしの配給食を独り占めし、ほとんど祖母に分け与えようとしなかったことが原因なのではないか?…… 少なくとも私には、祖母の語る出来事の行間から、そのように感じられてならないのでした。
どんどん痩せ衰えていく赤ん坊の姿を、不安な気持ちで眺めていた、と祖母は語ったものでした。そしてある日のこと、ふと気づいたときには、赤ん坊は事切れていたのだと言います。
――トントンって、赤ちゃんのホッペをたたいてみたんだけどネ、ぜんぜん声をあげてくれないものだから、あれ、おかしいなあと思ってネ、こうして赤ちゃんの胸に耳を当ててみたら、もう心ノ臓が止まっていたの……
せめて、ふたりめの子どもだけはきちんと育ててあげたい。祖母がそう思い詰めることになったのは、あまりに自然なことでした。
あくまでも配給食を独り占めしようとする姑。そして、傍らでそんな実母の振る舞いを見ていながら知らんぷりをする夫。
ほとほと彼らに愛想をつかした私の祖母は、制止しようとする周囲の声を振り切って、ただ我が子ひとりを胸に抱くと、取るものものとりあえず汽車に飛び乗り、岐阜の実家へと逃げていったのだと言います。
古風な家のひとたちが、そんな出戻りの娘のことを、もろ手をあげて歓迎したとは想像しにくいのですが、それでも畑の収穫は十分にあったようですし、食事にすら困るような東京の生活には比べるべくもなかったことでしょう。
ひさびさに心を許せる家族といっしょに過ごすことができるようになって、祖母も気がゆるんでいたのかもしれません。
いまや両足で立ち歩きまで始めたふたりめの子どもは、旺盛な好奇心のおもむくままに、あちこちを動きまわるようになっていました。そしてある日、祖母たちが目を離したすきに、家のすぐ近くにある池まで遊びに行ったまま、帰らぬひととなってしまったのです。
溺死した息子の姿に関して、祖母は多くを語ろうとはしませんでした。その代わりに彼女がつぶやいたのは、そもそもの話の始めに用いたのと同じ「罪」という言葉でした。
――わたしはほんとうに、ほんとうに、罪深い母親なんです……
体の奥底からしぼりだすようにして、祖母は六十年前の記憶を語り終えたのでした。
(この章、続く)
*
原発災害によって、宇都宮から親子で避難した先の沖縄で
突きつけられることになった「戦争」の問題。
著者は、家族の問題に加えて、過酷な避難生活の中で、
これまでは「見ようとしてこなかった」様々なものが
自身の中で可視化され、深く考えることになります。
また新しい出会いも生まれていったそうです。次回以降に続きます。
*
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