憲法と社会問題を考えるオピニオンウェブマガジン。
2012-09-19up
原発震災後の半難民生活:宇都宮沖縄間右往左往
いわま・せん/横浜生まれ。宇都宮在住。大学教員。
3章:その5「モノレールのなかで――前篇」
1)
モノレールの切符売り場で小銭を取りだそうとした瞬間、糸くずのようなものが指先にからまりながら、ぽろぽろと財布からこぼれ落ちてきました。最初はゴミかと思ってふり払おうとしたのですが、よく見ると、それはちょうど半年前の秋、家族三人で男鹿半島を訪れた折に「なまはげの里」でもらってきた二、三本の藁でした。
あの当時、まだ二歳だった娘のKにとって、ナマハゲたちのお芝居は途方もなく恐ろしいものに見えたことでしょう。Kは必死の形相で私の首筋にしがみつき、野太い声で威嚇するナマハゲに向かって、「ワガママ、いいません! ゼッタイ、いいません!」と泣きながらに訴えていました。
その日の夕方、男鹿半島の観光を終えて海辺のペンションに戻り、いっしょに砂浜で拾ってきた色とりどりの貝殻を床の上にならべていると、Kは急に思いだしたように、ポケットから例の藁を取りだして、「オトーサン、これ、あげる」と私の手に握らせようとします。
――どうして? ナマハゲさんが、Kちゃんにくれたプレゼントでしょう?
私がそう尋ねると、Kは、父親の物分かりの悪さに呆れるような顔をしてから、「ゴコク、ホージョー、でしょ!」と言い残すと、ひとりで貝殻ならべを再開するのです。
ゴコク、ホージョー… 五穀、豊穣…
この漢字が頭に浮かぶことで、なんとなく合点が行きました。私は「なまはげの里」で恐怖に顔を引きつらせる娘を安心させようとして、配布されたパンフの紹介文を適当につぎはぎしながら、大体こんなことを話していたのです。
――Kちゃんね。毎年、ナマハゲがやってくると、ゴコク、ホージョーといって、そのオウチでは、オコメやヤサイがたくさんとれるようになるんだよ。ナマハゲはおっかないけれど、ほんとうはすごくやさしくてね、いっしょうけんめい、みんなのためにお祈りしてくれるんだ。ナマハゲが落とした藁を、だいじに取っておいたひとは、幸せになれるんだって…
娘のなかで、「ゴコク、ホージョー」の意味がどのように認識されていたのかは、私にもよく分かりません。ただ、あの恐ろしいナマハゲの藁が、「ゴコク、ホージョー」というなんらかの幸せをもたらすプレゼントであるのなら、お父さんにこそ、そのプレゼントを持っていてほしい… Kがそんなふうに考えたとしても、決して不思議ではありませんでした。私はためしにもう一度尋ねてみました。
――Kちゃんは、お父さんにシアワセをプレゼントしたいのかな?
Kはすまし顔で貝殻をならべながら、こくりとひとつ、うなずきました…
私は財布のなかにナマハゲの藁をしまいこむと、羽田空港第一旅客ターミナル行きのモノレールの切符を購入しました。辺りには、ゴールデン・ウィークならではの、独特の喧騒が立ちこめていました。自動改札に向かう途中、JR浜松町駅からの乗り継ぎ客の一団が、どっとこちらへ押し寄せてきました。狭い空間のなかでひしめきあう、大小さまざまのスーツケース。久しぶりに晴れ間が広がったせいもあって、そこら中に浮かれ気分が漂っていました。
私は旅行カバンを持ちあげて自動改札を通り抜けると、エスカレーターのほうに歩いていきました。この東京で、いまも普段通りのリズムを刻みながら流れていこうとする時間が、どこかしら不気味であり、そしてそんなふうに感じている私が、うまく自分自身との距離を測りかねて困惑しているようでもありました。
マスクのこちら側で、粘りつくような汗の玉が噴きだしてきて、ただでさえ蒸し暑い空気がいっそう息苦しく感じられました。そう。この頃はまだ、私も万が一を考えて、律儀にマスクを着用していたのです…
2)
宇都宮でひとり暮らしを始めてからは、長いようでもあり、短いようでもある毎日でした。以前にも書いたように、授業や学務は言うまでもなく、それまで妻に任せてきたすべての家事をこなさなくてはなりませんでしたし、妻と娘の移転に伴う諸手続きが、これでもか、これでもかと言わんばかりの勢いで、降りかかってきました。私はいつも何かに追い立てられているような気がして、ゆっくりと自分を見つめる余裕すら持つことができませんでした。
そうこうするうちに、私はふとした拍子に襲ってくる虚無感に苦しめられることになりました。胸に穴ぼこが開いて、そこから隙間風が流れこんでくるような感覚、とでも言えばいいでしょうか。この感覚は、とつぜん独り身になった私を、時と場所を問わず不意打ちにしました。研究室でメールを確認しているとき… 自宅で食器を洗ったり、洗濯物をたたんだりしているとき… 近所のスーパーマーケットで、買い物籠に野菜を放りこんでいるとき… いつどこにいても、前触れもなくこの寒々とした感覚が浮かびあがってきては、やがてつかみどころもないままに消え薄れていくのでした。平凡な暮らしに自足してきた私にとって、こんなことは初めての経験でした。
私は気を紛らそうとして、ひとつの日課をつくりだすようになりました。それは朝早く研究室に行き、留守番電話に残されたKのメッセージを再生する、というものでした。
Kは二歳の半ばになった頃から、私が出勤している日中に、「オトウサンに、オデンワする!」と妻にせがむようになりました。子どものことなので、私に伝えたいことを二言三言しゃべると、すぐに気が変わって電話を切ってしまうのが常でしたが、それでもKからの毎日の「電話攻勢」が止むことはありませんでした。
こうしてKは、私が研究室を不在にしているときにも、留守番電話に伝言を残すようになったのです。わずかな語彙をつぎこみながら、その日その時の気持ちを表現しようとするたどたどしいKのメッセージ。二歳児なりの真剣さを留めたそれらの伝言を、私は二年以上を経た今でも消すことができず、保存したままになっています。
友だちとのピクニックから帰宅した後で、「キイロイ、キャンディー、食べたよ!」と喜びをかみしめる声… 覚悟してのぞんだ予防接種を乗り切って、「オチューシャ、チックン、がんばったよ!」と誇らしげに報告する声… 自宅近くに落ちた雷の轟音におびえて、「ピッシャン、ドンガラン、こわいよお!」とすすり泣く声… (その頃、私は「風神雷神図」の写真を娘に見せながら、「フージンさん、ライジンさんが、『ピッシャン! ドンガラン!』って太鼓をたたくと、おおきな雷が落ちてくるんだ!」と語っていたのです。)
いくつか残されたほかの声も含めて、私は毎朝のように、飽きもせずにKの留守番メッセージを再生しつづけました。そうやって数分に及ぶKの声を聴いてから、私はその日の仕事に取りかかるのでした。
3)
いつだったか、ある友人との会話の流れのなかで、私はぽろりとこの「日課」について打ち明けたことがあります。笑い話にして済ませるつもりだったのですが、意外にも、友人は真顔でこう切り返してきたものでした。
――大の男が、ちょっと家族と離れたくらいでメソメソするなって。沖縄には休みを取ればすぐに行けるんだし、単身赴任だと思えばいいじゃないか。ゆっくり次の職場を探して、家族全員で移っちまえばいいんだよ。
なるほど、彼の言う通りかもしれません。実際、ひとつの職場にしがみついていなければならないという法はどこにもないのです。歯に衣着せぬやり方ではあったけれども、彼の言葉は、とらえようによっては私へのエールだったとも言えるのかもしれません。現に、原発事故後の栃木県に子どもを留まらせたくないという私の気持ちを、彼は彼なりに理解してくれていました。
ところが、この時の私には友人の真情を受け止めるだけのゆとりがありませんでした。私はムキになって、自分と娘の関係には特別な事情があるのだということを力説しました。この私の応答は、彼の発言の主旨からすれば横道に逸れるものでしたし、そもそも「特別な事情」というのであれば、それは何も私とKの関係に限ったことではなくて、どんな親子にも多かれ少なかれあるはずなのです。ともあれ、私が彼に説明したのは、だいたい以下のようなことだったと記憶しています…
Kが二歳の頃、私と彼女の信頼関係はゼロと言ってもいいくらい、ひどいものでした。大学でも家でも、私が仕事漬けの毎日で、ゆっくりKと過ごすということを怠っていたからです。当時、まだ着任したばかりで、いまひとつ仕事の要領がつかめていなかった私としては、根を詰めて準備しなければ担当授業の開講すら覚束ないという気分でいっぱいでした。一方、Kの目から見ると、在宅しているにもかかわらず、「いまはダメ。お仕事中だよ」とくりかえすだけで、ろくに遊び相手にもなってくれない私の存在は、実に頼り甲斐のない父親に見えたことでしょう。
こうして、私が毎朝、大学に出かけようとして靴を履き始めると、Kはわざわざ玄関までやってきて、「行ッチャエ! ベエーだ! 知ラナイヨーだ!」と憎まれ口をたたくようになりました。これは思えば、紛れもなくKからのサインだったのでしょう。このままずっと自分のことを見てくれないのなら、もうオトーサンのことなんか「知ラナイヨーだ!」と…
妻もまた、子どもを顧みようとしない私への苛立ちを抑えることができないらしく、容赦のない非難の言葉をぶつけてきました。
――あなたは家にいても、これっぽっちも子どもの面倒を見てはくれない。おかげでわたしは、家事ひとつ満足にこなせない。あなたは、なんでこの家にいるのかしら? 大好きなお仕事を邪魔する気はないけれど、そんなに仕事したいのなら、せめてこの家から出て行ってほしい!
私は私で切羽詰まっていたので、「じゃあ、俺の代わりに授業準備をやってくれ!」と言い返した覚えがあります。父親である私が、きちんと子どもと向き合おうとしないものだから、夫婦の関係までギクシャクしていたことは事実です。
私がそんな自分を恥じるようになったのは、ある海外の短篇アニメを見たことがきっかけでした。ストーリーはいたってシンプルで、次のようなものでした。
何らかの事情で住み慣れた街を去らなければならなくなり、みずから小さな舟を漕いで、大海原の向こうへと旅立つ父… そんな父を、いつまでも土手のうえから見送るひとりの少女… その後、彼女は結婚し、二人の子どもを産み、やがて夫に先立たれて独り身になる… そんな長い歳月のなかでも、彼女は暇さえあればあの土手にやって来て、かつて父親が去って行った海の向こうを眺めつづけることになる…
たったこれだけの、素朴きわまりない映像でしたが、それと同じくらい素朴な問いが私のなかに浮上してくるのには、十分すぎるほどでした。私は映画を見終って、こう自問することになりました。「もし、何かのきっかけで、Kと離ればなれに暮らさなくてはならなくなったとして、彼女はいつまでも自分のことを覚えていてくれるだろうか?…」
具体的にどんなきっかけで娘と離ればなれになるのか、私には思いも及びませんでした。それはあくまでも漠然とした問いに過ぎなかったのです。とはいえ、それまでのような親子関係を続けているだけでは、Kが私の存在を忘れずにいるなどということは、とても覚束ない気がしたものでした。
ほどなくして、私の生活は一変しました。その変わりようときたら、妻でさえも驚くほどのものでした。
私は平日の五時半になると、無理にでも仕事を切り上げて、帰宅するようになりました。そして、妻が夕食の準備をしている間、Kと二人で積み木崩しをしたり、絵本を読んだりしました。週末には、仕事をすべて放りだし、二人乗り自転車の前部座席にKを乗せると、いっしょにおしゃべりをしながら気の向いた場所へと漕いでいきました。近くの川べりに集まる水鳥たちにパンくずをやりに行ったり、馬や鶏を飼っている幼稚園まで遠出して、野菜の切れ端や果物の皮をあげてみたり、その幼稚園の向かいにある広い空き地で、どんぐり拾いや、石ころ並べや、放し飼いにされた鶏たちとの追いかけっこに興じたりしました。気が済むまで遊んだ後は、お気に入りの団子屋に立ち寄り、試食用の和菓子や煎餅をかじりながら、店員が持ってきてくれた焙じ茶を飲むというのが、Kにとっての毎週末の楽しみとなりました。
私が変わることによって、Kと私の関係が変わり、おのずと妻と私の関係も変わっていきました。絶えずまとわりついてくる子どもから解放され、ゆっくりと家事に取り組めるようになったことで、妻のなかにもゆとりが生まれたのでしょう。何より、こうした一連の変化は、私自身にかけがえのない時間をもたらすことにもなりました。Kは、それまでの父親らしからぬ私の振舞いを水に流し、毎朝のように、仕事に出かける私の脚にしがみついてくるようになりました。研究室の留守番電話にたくさんのメッセージを残すようになったのも、この頃のことでした。娘といっしょに過ごすということは、それと同じだけの睡眠時間を削って、仕事の準備に充てなければならないということを意味していました。けれども、そんなものをはるかに上まわる充実した時間があるのだということを、私は遅まきながら知ることになったのです。
――これからもっと、子どもとの生活をエンジョイしていこう…
福島第一原発の事故が起きたのは、そんなふうに思いをめぐらしていた矢先のことでした。離ればなれになっても、娘に自分のことを覚えていてほしい、というとらえどころのない私の想像は、皮肉にも現実のものとなってしまいました…
以上のような打ち明け話を聴き終えた例の友人は、余計な批評をいっさいしませんでした。ただひとこと、「とにかく、思い詰めてばかりいると、体に毒だぞ」と言ったきりでした。それはおそらく、友人なりに精一杯の思いやりを示した言葉だったのだろうと思います。けれど、その時の私の胸には、彼の言葉はほとんど響いていませんでした。
*
さまざまな思いが去来する一人暮らしの日々を、
そうしてなんとか過ごしてきた著者。
後篇ではその間、遠く離れた家族が何を思い、
どんな日々を暮らしていたのかが描かれます。
宇都宮と沖縄。
ふたつの場所に引き裂かれた「半難民生活」は、
いまも現在進行形なのです。
*
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