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2013-06-19up

2013年参院選前に「改憲」を考える

 憲法9条が無くなっても、
沖縄には何の損失もない 平良夏芽

(たいら・なつめ)
沖縄県在住。名護市辺野古の基地建設阻止などの平和運動にかかわる。
公式ブログ「フィリアの日記」で基地問題などについて発信中。
twitter:@natsumetaira

 参院選を前に「改憲」への動きが活発化してきている。これまでも何度も改憲の話は出ていたが、今回ほど具体的になったことはなかったのではないかと思う。自民党政権を中心とする改憲勢力は、表立っては憲法96条の改憲だけを主張している。96条によって現行憲法が縛られているがゆえに、憲法改定が困難であるだけでなく、国民が自らのものとして憲法を受け止め、議論することすら妨げているという趣旨の理由をこじつけ、結局、憲法9条の改定を目論んでいることは明らかだと思う。しかし、この卑劣な企みに国民の何割が気がついているのだろうか。96条改定に向けて、様々な発言がなされているが、今だからこそ、私は、変えられようとしている憲法について「私と憲法」という関係の中で考えてみようと思う。

 私は1962年に、現在は「沖縄県」と呼ばれている当時はどこだったのか分からない場所に生まれ育った。私と日本国憲法との出会いは、沖縄の「祖国復帰運動」の最中(実際には復帰でも何でもなかったのだが)だった。当時、小学生だった私は学校で「日本国憲法」、特に前文と9条についての授業を受けたことを記憶している(帝国憲法との違い、基本的人権等の説明もあった)。あまりにも素晴らしい文言に、子どもながら身震いしたことを鮮明に覚えている。
 しかし、私の住む沖縄では、今も昔も、この前文と9条が適用されたことは一秒たりともない。ただの一瞬もないのだ。したがって、憲法9条が無くなっても、沖縄には何の損失(変化)もないと思う。残念ながらそれが実態なのだ(変化は日本全土が軍事的に沖縄化するということ)。
 そもそも天皇制を護る代価としての憲法9条の制定なのだ。国体護持のために沖縄を米軍に売り渡し、自国の軍隊を捨てることまでを決断したというだけのこと。「平和主義」なる発想を第一に生まれた条文だとは考えにくい。最重要項目としていたのは国民の命や生活ではなく、軍隊でもなく、国体護持だったのだ。もちろん国民の多くが心から「平和」を希求したことは間違いのない事実だと思う。しかし、あの綺麗な文言は、その醜い実態をカモフラージュするための飾りだったのかもしれない。そして現在は、日米安保条約と自衛隊の容認によって憲法9 条の中身はほとんど無に帰している。カモフラージュとしての文言であったのなら不思議はないと思う。
 それゆえ、「憲法9条を守れ!」という発想にはどこかついていけない思いが残る。「守れ」と言われているものの実態は、中身のない平和主義と沖縄の売り渡しがセットになっているからである。
 さらに言うならば「守れ」の中には、いつまでも攻撃される側ではなく攻撃する側にいることを無意識のうちに望んでいる場合すらあるのだと思う。多くの日本人がそれを「平和」と呼んでいることからも、それを伺い知ることができる。もしそうであるなら、そんなものは守る価値がないという感情すら湧いてくる。
 第二次世界大戦後も、多くの戦争に加担し続け、出撃基地として様々な協力を惜しみなく提供し続け、戦争特需で豊かになり続ける日本。なのに平気で「戦後六十数年」と言い続ける。彼ら(彼女ら)にとって、戦争とは自分の頭上に爆弾がふることだけであって、他人が殺され続けることではないのか。たったの一人も戦後世代がいない現実の中で、あたかも戦争がはるか昔に絶えたかのように「戦後世代」なる言葉が普通に使われる。
 確かに憲法9条は、より悪い状態になることを抑止する力として機能している部分がある。これは見過ごせない力であり、そういう意味では9条も中身がまったく無いわけではない。それでも、米軍が日本国から出撃して侵略、殺りくを繰り返し、自衛隊も後方支援という名目でこれに加わり続けることを憲法は止めることができずにいる。
 そのような現実の中で「憲法9条を守れ」という言葉が私の中に虚しく響く。
 おそらく私が傲慢で頑ななのだろう。第二次世界大戦下でどれだけの難儀をしたのか。今、どれだけの想いで叫んでいるのかということに想いを馳せる想像力が足りないのかもしれない。それでも、一瞬も憲法9条の適用を受けていない地に生活していると、そのような感情が湧いてくるのも事実である。

 しかし、それでも現在の日本国憲法を守らなければならないと、私は思う。
 今は、実態のない条文だが、人類の希望を謳った条文だ。これほどに崇高な条文は世界に類を見ない。このことは多くの方が書くだろうし、周知の事実だから割愛する。
 実態のない条文だからこそ守らなければならないし、実現しなければならない。
 沖縄の辺野古で米軍の新基地建設の海上阻止行動を繰り返していた時に語り合った言葉がある。

「人類の数万年の歴史の中に、戦争が無かった時代はない。私たちがしているのは、人類が未だかつて経験したことのない状況を生み出そうとする行為だ。数万年もなし得なかったことが、数年、数十年、数百年で実現するはずがない。千年かかるかも知れない。一万年かかるかも知れない。しかし、今、私たちが一歩を踏み出さなければ、今後、何万年たっても戦争の歴史は絶えない。いつになるか分からないが、夢が実現するその日のために、今日、基地建設を止めるための一日を過ごしましょう」

 辺野古の非暴力実力阻止行動において、上記の言葉は繰り返された。さらに激しい暴力に晒されて救急搬送される仲間が出る中で、「殺されてもやり返さない」。何をされても、相手の尊厳を認め、抗議はしても非難はしない。言葉も暴力になり得ると、何度も何度も確認がなされた。

 ダメだったから批判したり諦めるというのでは何も変わらない。ダメだったのなら、今まで以上に努力しなければならない。
 憲法9条を守り、実現させていく上で、「殺されてもやり返さない」という考えを仲間とどれだけ共有できるか。それが非常に重要だと思う。核の傘に守られながら、攻撃されない前提で「平和」と叫ぶだけでは、そのような理念は、たった一発の銃弾で吹き飛んでしまう。
 「目には目を」というハムラビ法典は、目を潰された怒りで相手を殺していた時代に、目を潰された者はやり返すとしても相手の目を潰すだけに止めなさいという復讐の制限を謳った画期的な法令だった。それなのに復讐を奨励、義務化する法令であるかの如く曲解、利用されている。
 私たちが本気で憲法9条を守り、実現しようとするならばハムラビ法典以上の理念と覚悟を持たなければならない。
 ガンジーやキング牧師たちが何を語り、どのように闘ってきたのかを学び、自らのものにするということも大切だと思う。
 ガンジーは「銃を持つ勇気の無いものに非暴力を貫くことは出来ない」という激しい言葉を残している。もちろん、これは銃による暴力を肯定した言葉ではない。そうではなく、武装蜂起した人々を安易に批判する平和主義者たちに突きつけた言葉だ。イギリスの植民地として搾取され続けるインドにおいて、武装蜂起しようとする人々がいたが、自らは何もせずに、暴力反対と批判だけをする人々がいた。ガンジーは、このような人々にこの厳しい言葉を投げつけたのだと思う。銃を持つ人々は、現状を変えなければならないとまず決意し、その変化のために自分の責任において、自分の命をかけて行動することを決意した。非暴力で、現状を打破しようと試みる者たちは、それらの決意に敬意を示し、そして、それ以上の決意を持たなければならない、と。安易に、安全な地から武力を否定するだけの人々を批判したのだと思う。
 非武装、非暴力の決意と無抵抗を混同する人がいる。がそれは違う。
 酒やお茶を飲みながら、愚痴ったり批判だけで実際には何もしないのと、命をかけて暴力と抗することは天と地ほどの違いがある。実際には何もしないのは、実態を容認することですらある。害悪を認識しながら放置したのであれば、気がつかなかった人々よりも罪は重いのかも知れない。
 暴力は、新たな暴力を生み出すだけで問題解決の手段にはなり得ない。憎しみが新たな憎しみを生むだけではない。たとえ相手を殲滅して報復の連鎖を断ち切ったとしても、自分の子どもたちが「意見が異なれば殲滅すれば良い」と学習し、そこから新たな暴力が生まれる。凶悪犯罪の低年齢化が叫ばれるが、戦争を肯定し、死刑を肯定している国の子どもたちが殺し合いを始めることには何の矛盾もないのだ。
 選挙で頑張り、政治活動で護憲を主張することも重要である。96条改定などという卑劣なやり方をする為政者に対して、これまで以上に努力しなければならない。
 と同時に、武力を本気で放棄するということはどういうことか。どういう覚悟が必要か。世界情勢の中で、何をどう判断し、どう動くべきかを議論し、学ぶ必要がある。
 理想的な理念は、あくまも理念にすぎない。理念を繰り返して自分たちに刷り込むことも重要だが、それだけでは新たな時代は切り開けない。理念を具現化する手段を模索しなければならない。
 そのための世界情勢の分析や学習はまだまだ足りないと思う。戦争を否定する仲間たちで、戦争被害についてだけでなく、戦争そのもの(戦争が起きるシステム)についてもっと議論し、研究する必要を感じる。
 私は、9条を肯定する説得力を持つための学習を積み重ねたい。そして、すべての暴力を否定する姿勢を貫き、あらゆる場面で非暴力が貫けるように自他共にトレーニングしたいと思う。トレーニングなしには、人は案外簡単に、他人を罵り、暴力をふるう。無意識であったり、何らかの理由で正当化しつつ、暴力(含、言葉の暴力)をふるう。この現実を受け止め、その実態を変える努力なしには、憲法9条は実体化しない。自分と家族や仲間たちが暴力に晒される中であったとしても、非暴力で抵抗していく手段。それを模索し続けていこうと思う。
 憲法は、為政者を見張り、規制するための道具である。がしかし、この憲法を守るためには、自らの生き様を振り返り、変えていかなければならないのではないかと思う。憲法9条の実現、それは自分自身の変革なしにはあり得ない。
 私は、日本国憲法を守り、実現していくために行動しようと思う。まず闘わなければならないのは、「諦め」や「疲れ」、そして自らの内側にある暴力性。それらと闘いながら、憲法が実現される社会を生み出すために、今日を生きていこうと思う。

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