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2012-12-19up
立憲政治の道しるべ/南部義典
憲法によって国家を縛り、その憲法に基づいて政治を行う。
民主主義国家の基盤ともいえるその原則が、近年、大きく揺らぎつつあります。
憲法違反の発言を繰り返す政治家、憲法を無視して暴走する国会…。
「日本の立憲政治は、崩壊の危機にある!」
そう警鐘を鳴らす南部義典さんが、
現在進行形のさまざまな具体的事例を、「憲法」の観点から検証していきます。
憲法第96条の改正はできるのか
▼総選挙が終わって
今回、急きょこのテーマを扱うことにしました。
総選挙において憲法改正が争点となった事実は一切ないと明言できますが(→第8回)、結果として、自民、公明両党が325議席を獲得するに至り、連立与党として憲法改正の発議が可能な数に達したことは、立憲政治の行方を見守る立場からは、無関心ではいられません。
議席数だけみれば、2005年郵政解散・総選挙の後と状況はそれほど変わりませんが、当時は憲法改正の手続きを定める国民投票法が未整備でした。憲法審査会も存在していません。当然、現在とは受け止めが異なります。
まもなく、衆議院憲法審査会の会長(1名)、幹事(7名)及び委員(42名)の顔ぶれが変わります。国対委員長を通じて、安倍総裁の意向が強く働くような審査会運営にならないか非常に心配されます。内閣から各議院に対する容喙(ようかい=口出し)が日常茶飯事となるような、常軌を逸した憲法改正論議が幕を開けるかもしれません。憲法改正は「国会」の権能であるにもかかわらず、です。
首班指名候補である安倍総裁が連日、憲法改正手続き条項の緩和論(憲法第96条の改正)に言及していること自体、立憲主義に反します。180度、位相が歪んでいるとしか言いようがないのですが、真っ正面から反抗し批判するメディアはなく、「改憲前向き発言」が垂れ流し状態です。国民の正常な憲法感覚が麻痺してしまうのではないかと危惧しているところです。
▼憲法改正手続き条項緩和論の不当さ
総選挙の前から、安倍総裁が訴えている「改正手続き条項緩和論」は、自由民主党「日本国憲法改正草案Q&A」p34で、以下のように説明されています。
Q38 憲法改正の発議要件を緩和したのは、なぜですか?
答 100条1項で、衆参両院における憲法改正の提案要件を「3分の2以上」から「過半数」に緩和しました。
現行憲法では、両院で3分の2以上の賛成を得て国民に提案され、国民投票で過半数の賛成を得てはじめて憲法改正が実現することとなっており、世界的に見ても、改正しにくい憲法となっています。
憲法改正は、国民投票に付して主権者である国民の意思を直接問うわけですから、国民に提案される前での手続を余りに厳格にするのは、国民が憲法について意思を表明する機会が狭められることになり、かえって主権者である国民の意思を反映しないことになってしまうと考えました。
答えの前段部分ですが、日本国憲法が「世界的に見ても、改正しにくい憲法になっている」のは、事実としてまったくそのとおりだと思います。問題は、その意義を積極的に受け止められるかどうかです。
憲法改正の手続きに関して、通常の立法手続きと同じ場合、その憲法は「軟性」であり、通常の立法手続きよりも厳格である場合、その憲法は「硬性」であるといいます。自民党案はこの意味で、軟性憲法とすることを志向していることは明らかです。
日本国憲法の場合、第56条及び第59条と、第96条とを比較して、表決の要件に4倍の較差があると前回指摘しました。法律案の議決は総議員の6分の1以上で可能であるところ、憲法改正の発議は、総議員の3分の2以上の賛成を要するからです。自民党案は、この4倍の較差を一気に縮めようとしています。成立要件で異なるのは、最後に国民投票が予定されているかどうか、だけです。
硬性憲法になっているのは偶々なのか、それとも何らかの意図が隠されているのか。 私は66年前の制憲者意思を合理的に読み込むことで、「憲法が暗示する意図」が発見できると思います。立憲主義を維持し、発展させるために、いまこのタイミングで、憲法が暗示する意図を共有することが重要だと考えます。
政権政党であっても憲法改正を発議するには、単独では不可能で(自民党は両院で3分の2以上の議席を有しません)、連立与党のパートナーの協力だけでも不可能で、少なくとも野党第一党との合意に基づいて、政党(会派)として賛成してもらうことが必要だということにお気づきでしょうか。野党第二党の合意があれば、ハードルはさらに下がりますが、「3分の2条項」というのは、それほど厳格に作用し、憲法改正発議権の行使は簡単でないことを意味するのです。
憲法とは、国民が自らの権利と自由を保障するため、統治機構の所在と権能(分配)を定めた最高規範です。憲法改正の場面で、野党第一党(次の総選挙で与党となる潜在的可能性を有しています)の賛成を暗に求めることで、憲法を「政権の枠組みに影響されない、権力行使の共通ルール」として定着させることが意図されているのです。
仮に、発議要件が「過半数」だったらどうでしょうか。その後に国民投票が予定されているとはいえ、政権交代のたびごとに憲法改正(の発議)が行われることになり、憲法政治が安定しなくなります。その分、統治者が良しと考える、都合のいい「憲法」が誕生しやすくなります。権力を拘束される側が都合良しと考え得るような「憲法」、これは本来的な立憲主義の予定するところではありません。そのような発想で憲法論議が行われること自体、大きな矛盾を抱え込むことになります。
さらに、「過半数」要件の下では、いったん憲法改正が行われた後でも、政権が変わって元に戻そうとする"終わりのないシーソーゲーム"に発展することにもなりかねません。あえて、そういう無為なゲームに展開しないように、「政治部門(国会・内閣)は、憲法改正よりも、法律の定立と執行に、政治のエネルギーを集中させなさい」と、憲法は暗示しているのです。
▼憲法が暗示する意図を無視する、改正手続き条項の緩和論
実に没イデオロギー的なアングルから、立憲主義を破滅に導こうとする、統治者側による巧妙な落とし穴だといえるでしょう(落とし穴だというのは、仕掛けた自分も嵌ってしまって、出られなくなるという意味を含めています)。憲法という社会契約が容易に「改正」されることにならないよう、成文憲法を持つこと自体、「硬い運用」に至ることは必然なのです。統治者の側も、国民の側も、伊藤博文や、D・マッカーサー気分に浸る前に、このことをしっかりと認識する必要があります。
答えの後段部分では、憲法改正国民投票の機会がないと国民の意見表明の機会が奪われてしまうという、国民を憐れむかのような理由づけがなされています。が、これも失当です。
そもそも、憲法制定時、いったん制定した憲法体系が易く変容し、国民の権利、自由を保障するという最高かつ最大の目的が達成されないことにならないよう、憲法改正権を「箪笥の一番奥」に閉じ込めたことを忘れてはいけません。その自己拘束を行ったのは、国民自身なのです。また、憲法改正権を発動させるという逆の面からみても、55年体制以降、自民党が安定政権にあった期間、憲法改正国民投票法が制定されなかったという事実を見過ごすことはできません。
そして、国民の意見表明の機会は、"本番"の憲法改正国民投票に限るものではありません。憲法改正国民投票法附則第12条にいう、「憲法改正予備的国民投票」の制度(憲法改正の意向に関して、事前にアンケートをとる形式で行うイメージの国民投票です)の検討がこの条文の施行後、5年以上にわたって放置されていることを、どのように対処するのでしょうか。この検討が行われないまま、いきなり本番の国民投票に入るというのはいかにも乱暴、粗雑です。5年前、憲法改正国民投票法を成立させたのは自分の功績が大だと、豪語していたのは一体誰だったでしょうか。附則とはいえ、その法律の条文に自ら反してどうするのでしょうか。
▼通常国会で審議しても「振出に戻る」
もし安倍総裁が、来年の通常国会で「憲法第96条の一部を改正する憲法改正案」を衆議院に提出する意図があるとすれば、その企ては意味がないことを指摘しておきます。
鉄は熱いうちに打て、といいます。平成25年度予算案が衆議院を通過する3月をめどに、96条改正案を提出し、衆議院憲法審査会で可決し、衆議院本会議で総議員の3分の2以上の賛成を以て可決し、参議院に送付する、というスケジュールが思い描かれているかもしれません。
しかし、それは意味がありません。衆議院で96条改正案を楽々と議決し、参議院に送付しても、3分の2以上の賛成は得られないばかりか、3年に一度の通常選挙を控えた国会に当たるため、参議院では慣例上、議案の「継続審議」の手続きがとられません(会議体の構成が変わるからです。同様、衆議院が解散されたときも、すべての議案は廃案になります)。参議院に送付された96条改正案は、否決されるか、廃案になるかのどちらかです。振出に戻り、もう一度、衆議院でゼロから審議し直すことになります。
したがって、憲法改正原案が国会で粛々と審議できるのは、どんなに早くても2013年夏の臨時国会以降ということになります。ただし、自民・公明両党で3分の2以上の議席を獲得することが条件です。失敗すれば、さらに3年後の参議院選挙まで延期されることになります。本当に、安倍新首相の在任中に、憲法改正の発議が可能なのでしょうか。
▼「自己言及」という論理的な壁
そもそも憲法改正手続き条項を、その条項に従って改正できるのかという、論理的にみてややこしい問題があります。これは憲法第96条に特有の問題です。
憲法第96条(第1項)の冒頭に「この憲法」との文言があります。「この憲法」に、第96条が含まれていると考えると、
この憲法=第96条+その他の条項 という関係になります。
もっとも、第96条には「この憲法」との文言があるわけですから、すると、
この憲法=第96条+その他の条項
↓
この憲法=第96条+その他の条項
↓
この憲法=第96条+その他の条項
↓
この憲法=第96条+その他の条項
↓
…
という論理のループが、永遠に続いてしまうのです。改正手続きの対象となるべき「この憲法」が確定しないのです。
これは論理学でいう「自己言及」という問題の一つです。
卑近な例を出しますが、「"貼り紙禁止"と書いた貼り紙を、壁に貼ることができるのか」という問題があります。禁止される貼り紙に、その貼り紙が含まれると考えるならば、貼ることは論理的に誤っていることになります(論理的に誤っていても、壁の所有者の権限で物理的に貼ることはできますが…)。
もっとも、これは形式的な論理の問題にすぎません。政治の世界では論理の壁を超えた決定がなされますし、憲法改正権の発動によって終局的に解決する話ではあります。しかし、改正手続き条項の「改正」にはこうした問題があることを、いったん立ち止まって考えるべきでしょう。
安倍総裁が考えるほど改正手続き条項の改正は容易でないことが、ご理解いただけたでしょうか。
そもそもなぜ日本国憲法は改正が容易ではない「硬性憲法」の性格を持っているのか? についてもよく考えてみる必要があります。過去のコラムですが、伊藤真先生も「憲法96条が定める改憲手続きについて」で〈憲法は、その時代の国民の多数派でもやってはいけないことを予め規定しておくもの〉と指摘しています。
南部義典さんプロフィール
なんぶ よしのり慶應義塾大学大学院法学研究科講師。1971年岐阜県生まれ。1995年京都大学卒業、国会議員政策担当秘書資格試験合格。2005年から国民投票法案(民主党案)の起草に携わり、2007年衆参両院の公聴会で公述人を務めた。近時は、原発稼働をめぐる各地の住民投票条例の起草、国会・自治体議会におけるオンブズマン制度の創設に取り組む。著書に『Q&A解説・憲法改正国民投票法』(現代人文社、2007年)がある。ツイッター(@nambu2116)、フェイスブック
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