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2012-07-11up

鈴木邦男の愛国問答

第103回

マガ9学校 in 札幌(?)に参加して

 「じゃ、これは『マガ9学校』ですね!」と思わず言っちゃった。7月1日(日)、札幌で講演をした。乾淑子さん(東海大学教授)や地元の市民運動をやってる人々が呼んでくれたのだ。でも、「マガ9を読んでますよ」と言う人が多い。ビックリした。
 この日は、<「右」も脱原発!>という演題だ。これで人が来るのかな、と不安だった。地元の、反原発運動をやってる人達が中心でやっている講演会だ。定期的にやっている。名の知れた反原発の学者や活動家なら人も集まるだろうが、僕じゃ…と思った。「右翼なんか、どうでもいいよ」と皆、思っているだろう。「反原発デモに嫌がらせをしてるのが右翼だろう」「まあ、中には例外的に脱原発の人間がいるかもしれないが…。それがどうした」。多分、皆、そう思ってるんだろう。これじゃ、人が集まるはずはないよ、と思った。
 ところが、会場の札幌市教育文化会館は満員だった。そして、「マガ9を読んでますよ」と声をかけられた。「マガ9の鈴木さんが来るっていうので聞きに来ました」と言う人もいる。エッ? と思ったら、集会のチラシを見せてくれた。<「右」も脱原発!>と書かれ、「原発再稼働」ばかりが話題になり、危機的な状況にある。と書かれている。さらに、こう書かれている。
 <今回、「マガジン9」愛国問答連載(「脱原発デモに参加した」)でもおなじみの、「一水会」顧問・鈴木邦男さんに、原発について聞いてみることにしました! ぜひご参加ください>

 そうか。「マガジン9」に書いてる人が来るというので、集まったのだ。100人以上が来た。北海道は広いので。帯広や釧路から飛行機で来たという人もいた。ありがたいです。<「マガジン9」でおなじみの>で人を誘うのだから、皆、「マガジン9」を読んでいるんだ。北海道の人は皆、読んでるのだろう。
 「マガジン9」の僕の連載をまとめた『愛国と憂国と売国』(集英社新書)を入口に置いていたが、何と、全部売り切れてしまった。これも「マガ9」効果だ。だから、「これは『マガ9学校』ですね」と言っちゃったのだ。「マガ9学校 in 札幌」だ。
 これを契機に、「マガ9学校」も全国展開すべきですよ。新宿だけにとどまっていては勿体ない。全国展開し、次は海外進出ですよ。「憲法9条」が果たして世界に通用するのか。世界は、この憲法をどう思っているのか。それを聞き、挑戦する必要があるだろう。…と、夢が広がった。
 7月1日は、「北海道新聞」「朝日新聞」「北方ジャーナル」の記者も取材に来ていた。それに、「久しぶりです」と青年に声をかけられた。20年前に僕の話を聞いたという。それから、本や「マガジン9」を読んでいるという。詳しい。僕のことは何でも知っている。なぜ右翼になったのか。何故、学生運動を追われたのか。何故、産経新聞に入り、何故、クビになったのかも。会が始まる前に、主宰者の乾さんたちに説明していた。
 乾さんたちも驚いていた。「そんなに詳しいのなら、ぜひ講師紹介をして下さいよ」となった。午後2時から会は始まり、まず乾さんの主催者挨拶。それから、その青年の「講師紹介」。「鈴木さんは北海道には実は、とても縁がある人なんです」と言う。そして、「千歳事件」と「釧路事件」の話をする。そうか、そんなことがあったなと思い出した。
 1970年11月に三島事件が起きた。この年の春から僕は産経新聞に勤めていた。会社の社員食堂のテレビで見て、ショックを受けた。足がふるえた。昔の運動仲間が来て、会社を早退したことを覚えている。70年直前に右翼学生運動で内ゲバがあり、僕は「指導者として失格だ」と追放された。その後、いろいろあって、70年から産経新聞に入った。もう運動に戻ることはないと思っていた。ところが、三島事件だ。三島は本気だったんだと驚いた。それと同時に、一緒に自決した森田必勝氏のことがショックだった。僕らが彼を運動に誘ったからだ。運動に誘った僕らは会社に勤めたり、大学院に行ったりしている。誘われた森田氏は今も運動を続け、思いつめ、三島と共に自決した。うしろめたさを感じた。罪悪感を感じた。そして、昔の運動仲間が集まってきた。僕を追放した人たちもいる。やりきれなくて、連日、酒を飲んでいた。そして「勉強会でもやろうか」となって、1972年に一水会をつくった。だが、その時も、僕は産経の社員だし、他の人達も、勤めている人が多い。いわば、「サラリーマンの勉強会」だった。
 ところが1974年。「千歳事件」が起こる。千歳の自衛隊の駐屯地祭りでストリッパーを呼んだ。当時は僕も硬派だったので、「許せん!」と抗議に行った。会社が始まる前や終わってから、チラシをまいたり、マイクで演説した。防衛庁に抗議に行った時、カッとなって、門を乗り越え、中に入った。そこで逮捕だ。3日間、赤坂署に勾留され、産経はクビだ。この事件で、ふんぎりがつき、いわば「プロ活動家」になる。
 さらに、1977年。3月3日、野村秋介さんたちが起こした経団連事件の直後、僕は釧路で捕まった。4月9日だ。野村さんたちが命を賭けて、戦後日本を糾弾した。僕は何もしていない。やましさを感じた。そんな時、釧路で「日ソ友好会館建設阻止闘争」があった。よし、行ってやろう、と思った。ソ連に媚を売るなんて許せん。断固抗議して、北方領土を取り戻すべきだ、と思った。釧路では警官隊と乱闘になり、逮捕され、釧路警察署に23日間、勾留された。
 だから、北海道は、とても縁がある。千歳事件がなければ、ずっと産経にいただろう。いや、どっちにしろ、無能だったから、クビになったか。「政治事件」でクビになっただけでも、ありがたかったと思う。
 「講師紹介」をしてくれた青年は、やたら詳しい。だから、「じゃ、この後の1時間の講演も代わってやってよ」と行ったが、「それはダメです」と乾さんに言われた。だから、何故右翼の中で「脱原発デモ」が生まれたか、又、その現状などについて話をした。脱原発は左翼や市民派だけの運動だと思われていたが、「右の脱原発」運動によって、「いや、左翼だけでない。右翼もやってるし、全国民の運動だ」と認識され出した。それは大きかったと思う。今、右翼の人たちは、ほとんどが「脱原発」だ。国土を汚す原発を、愛国者として許せない。そう思っている。だが、心の中ではそう思っても、デモや集会に出るのは躊躇する。そんなことをしたら左翼と思われるんじゃないか。左翼に力をかすことになるのではないか。そう思うのだ。長い間、東西冷戦があり、又、すべては「左右対決」だった時代の思考が残っているのだ。その中で、ふっきれた若い世代から、「右から考える脱原発デモ」が生まれた。又、ネット右翼の中でも動揺、分裂が起こり、「脱原発・愛国デモ」をやる人も出て来た。
 …と、そんな話をした。又、一水会では昔、高木仁三郎さんを呼んで講演会をやったり、反原発の合宿を福島でやったこともある。そのころは、「左翼かぶれだ」と批判され、異端だった。しかし、今は違う。そんな、右翼の歴史についても話をした。
 そうだ。この日、会場に来た100人以上の人は、皆、「マガジン9」を読んでいる。又、『週刊金曜日』を読んでいる人も多かった。月刊『創』の読者もいた。『週刊金曜日』では、読者会を定期的にやってるし、時々、佐高信さんや雨宮処凛さんを呼んで、大々的に講演会をやってるという。人もかなり集まる。じゃ、「マガジン9」や『創』でもやったらいい。ぜひ、真剣に考えてほしい。と思いました。

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なんと、いつのまにか「マガ9学校 in 札幌」(?)が!!
もちろん、満席の理由はマガ9ではなくって鈴木さんですが、
「読んでます」とのお言葉、何よりの励みになります。
マガ9学校の「全国進出」、
いつか果たせるといいな、と夢を思い描きつつ。

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鈴木邦男さんプロフィール

すずき くにお1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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