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いよいよ最終回。お二人の話は、憲法論議からナショナリズムとアイデンティティとの関係、そしてご自身のお話へとつながります。
鈴木 邦男●すずき くにお1943年福島県生まれ。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。HP「鈴木邦男をぶっとばせ」
中島 岳志●なかじま たけし1975年生まれ。北海道大学准教授。専門は、南アジア地域研究、近代政治思想史。著書に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)、『中村屋のボース−インド独立戦争と近代日本のアジア主義』(白水社)、『パール判事─東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)、西部邁との対談『保守問答』(講談社)、姜尚中との対談『日本 根拠地からの問い』(毎日新聞社)など多数。「ビッグイシュー」のサポーターであり、「週刊金曜日」の編集委員を務めるなど、思想を超えて幅広い論者やメディアとの交流を行なっている。近著『朝日平吾の鬱屈』(双書Zero)
編集部 では、最終回ですので、憲法9条についても。お二人とも、インタビューやコラムでの発言がありますが、改めてお考えを聞かせてください。
中島 インタビューの時にも少しお話ししましたが、僕が、「左派」だとしたら9条を変えるべきと言いますね。なぜなら今の憲法9条は、憲法解釈によってイラク派兵を許してしまう憲法だったわけですから、「侵略戦争に加担しない」という点から見ると、不十分な憲法だったと考えます。とすると、ああいうこと=アメリカの戦争に協力して自衛隊を海外派兵することを不可能にする憲法に強化するべきであると、左派であるならば、言わなければならないと思います。
鈴木 強化するためには、どのように改憲すればいいと?
中島
今の憲法に規約を加えていくことでしょう。9条については、集団的自衛権を認めないと明記するとか。いろいろと加筆すべき点はあるでしょう。ちなみに私は、左翼思想を根本的な部分で疑っているので、そのような発想をとりませんが。
また、98条についても、もっと厳密にする条文が必要でしょうね。98条は、その第1項に「憲法は国の最高法規である」と書いています。それがあった上で、第2項のところに、「日本国が締結した条約および、確立された国際法規は、これを遵守する」と規定しています。つまり98条で書かれていることは、あくまでも憲法が上位概念であって、条約とか国連憲章というのは、そのもとに批准するものであるという発想です。しかしこれまで何がおきてきたかというと、「日米安保条約」の方が9条の上位概念になっていて、9条の拡大解釈もそこからの発想だったわけです。民主党の小沢一郎さんも、完全にその考え方ですね。国連憲章があるから、日本は国連に加盟しているから、アフガンに自衛隊が行くべきだと言ってますね。でもそれは、憲法からみたらおかしいわけです。そういう状況からも、98条で書かれてあることをもっと明らかにしないといけない。「9条の方が、国連憲章よりも上位概念である」ということを、本当の平和主義者であれば、言わないといけないでしょう。
僕は、イラク戦争で日本が自衛隊を派兵した時、「左翼」の側は「終わった」と思いました。あんな行為を解釈上、許す余地のある9条の文言を「死守」しようという左翼ならば、単なる「9条萌え」なんじゃないかと。靖国神社に軍人のコスプレで行ってよろこんでいる右翼の「靖国萌え」と同じで、単に9条の文言に酔っているだけ。9条を守る方が大事なのか、平和を守る方が大事なのか? もうちょっと考えた方がいい。9条の条文さえ守っていればいい、という人が言ってる「平和」については、僕はあまり信用できないなと思っているのです。
そうであるにかかわらず、僕は今の段階では、「9条を守った方がいい」という立場です。というのは、今の日米安保のもと、日米の安全保障をとりまく環境の中で、どんどんアメリカの要求が強くなってきている。唯一、日本が主権を守るためには、いまのところ政治的な方法としては9条しかないんです。「9条があるから、こういうことは無理です」ということしか、日米関係においてアメリカの要求に「まった」をかける手段がない。僕は、主権の問題は非常に大きいと思うので、日本の国家主権を守るためには、9条を持っていてアメリカに抵抗した方が賢いと考えます。
しかし、私は本来的には9条改定論者です。僕がずっと言い続けていることには、9条の改正は、日米安保の改正と同時でなければならない、ということです。やはり近い将来、アメリカから自立し、自分の国の防衛は自分たちで決定できるシステムを作るべきです。日米安保を根本的に改正し、防衛に関する主体性を確立した上で、9条は改正すべきだと考えています。日米安保を持ったまま、ずるずると9条を変えていくと、憲法の原理原則もおかしくなるでしょう。憲法は、国民が国家の暴力を制限するということなのに、アメリカの意向に従って暴力が稼動されていく。国民よりもアメリカ政府の言うことを聞く国家にしてどうするんですか?
だから日米安保を強固にするための9条改正であってはならないんですよ。これは、まともな保守の立場だと思うんですが、「自称保守派」の中には、喜んでアメリカの属国になりたがっている人が大勢いる。また中島は「9条守れ」って言ってるって、左の人は喜んでくれるんだけれど、それは僕、困るんですよね(笑)。論理が根本的に違う。私にとって、現状の9条は日本の主権をぎりぎりのところで固守するための手段です。それ以上のものではありません。
編集部 中島さんは、日米安保はどうなるべきだと? ゆくゆくは解消する方向へといくべきだと考えますか?
中島 最終的には。ただ、いっきに日米安保を解消するというのは、現実的に難しいですからね。徐々にやっていかなくてはいけないことでしょう。それに、アメリカの基地が減るのはいいけど、日本が自主防衛するとなると、防衛費はもっと高くつくだろうし、我々国民にも覚悟が必要ですよね。そういう意味でも、時間がかかる。20年ぐらいはかかるでしょう。それをぽーんといっきに飛ばしてやろうとすると、自主防衛=核武装ということになる。そうではなく、自分たちで国を守るということはどういうことなのか、をじっくりと国民の間でコンセンサスをとりながら考えていきたい。
編集部 自衛隊については、どう考えますか?
中島
僕は、自衛隊を手放せとは思わないし、自衛隊はあった方がいいと考えます。9条があることによる彼らの苦労についても検証するべき。改正したら、自衛隊の明記はするべきだ、と思います。憲法で、しっかりと自国の軍隊を規定しておかないと、やはり危ないですよ。あと、様々な形で海外派兵を続けるとするならば、現地における武器使用の範囲についてなども、しっかりと議論すべきです。現状では、自衛隊員の命を軽んじすぎています。
でも9条だけを改正すればうまくいくか、良くなるのか、というと、そう単純なものではないだろうと思います。やはり日本が主権を失っていくこと、自分たちの判断で外交も軍事もできない、というのは、国民国家として非常にまずいと思います。アメリカに付くにしろ、離れるにしろ、自分たちで決定できるような仕組みをつくらないとだめでしょう。
そもそも日米安保は不平等条約ですからね。みんな、なんであんなに、不平等条約を嬉しがっているのかが、僕にはわかりませんね。
鈴木
かつて、自衛隊の人たちの転勤にともなう、住民票の受け入れ拒否をするよう自治体に呼びかけるというような、そんな人権的にどうなのか、というような運動が左翼の側にはありましたね。
一方、以前の右翼の人たちの改憲論者は、「自衛隊を認めろ」というのが多かったですが、自衛隊という名前のままで良かったんですね。でも、今、そういう人はいませんね。時代が変わってきて、「自衛隊は自衛軍として明記せよ」というようになってきています。防衛庁は防衛省になりましたしね。さらに 自民党の改正案には、軍隊のための裁判所、軍隊の刑務所を作ることが書かれてあります。戦前には、ありましたね。2.26事件は、陸軍の裁判所で裁かれました。
自衛隊が、軍になったら、そういうものが必要になってくるわけでしょう。軍法や軍事裁判所を置く、果たしてそこまでする必要があるのかなあと思うわけです。国家内国家というか、もう一つ国家機関ができるようなものでしょ。
例えば右翼の集団に入ったり、企業に入ったりして、嫌になったから、そこから逃げ出したとします。すると批判されたり、クビになったりはするかもしれないけれど、逮捕されたり、罰せられたりすることはないですよね。でも、軍隊となると、そこから逃げ出したら、逃亡罪という重い罪で裁かれますよね。
編集部 軍というのは、そういうものなんですからね。
鈴木
それだったら、自衛隊は自衛隊のままでいいでしょう。そして逆に、今度は2年ごとぐらいのスパンで縮小していって、次は保安隊にして、さらに警察予備隊にまでもどすとか。そうしたら、警察になっちゃうかもしれない。というふうなことだって、本当はやれるんじゃないかと思う。
政治のことで言えば、麻生太郎のおじいさんの吉田茂は、憲法を盾にして、外交をしましたが、ああいうようなずるさがあっても、いいと思う。
そりゃあ憲法を変えて「自主防衛」しよう、と言えば、気分はすっきりとするけれど、それをもし本当に今やるなら、「核武装しかない」でしょう。僕は核武装してまで、日本が自主防衛する必要はないと思ってます。
中島 核武装は日本にとって国益にならないですよ。明らかに経済制裁されますから。石油も食糧もこれだけ輸入に頼っている国なんだから、すぐに干上がりますよ。そんなことは、ちょっと考えればすぐにわかることです。日本に核武装という選択肢は、存在しません。核武装を議論することによって、アメリカを揺さぶるという言論戦術・外交戦術としてのみ機能するもので、現実化できないオプションです。その点を冷静にわきまえないといけない。
鈴木 右や保守派の本や雑誌で、「核武装は是か非か」というテーマでよく議論をやっています。するとやはり、「核武装したら、世界から制裁を受ける」という意見が出てくるのだけれど、それに対して「中国を見てみろ、核武装しているが、そういうことにも負けずにがんばってるではないか、中国を見習え!」なんて、反論をしているんです(笑)。だったら、北朝鮮をもっと見習うべきでしょう。
編集部 北朝鮮を批判する口実がなくなっちゃいますよね。
中島 それはそうです。独裁国家への道しかありません。
鈴木 そうなったら、我々が北朝鮮になる覚悟を持つしかない。それにしてもね、核武装論が出てくるなんて、日本の戦後の平和教育は何だったんだろうと思うわけです。広島や長崎の資料館へ修学旅行で行って、先生たちは悲惨な写真をみせて、「目をそらすな!」とやっていたあの教育は、結局何もならなかったのかなあ、まったく力にならなかったんだなと、ちょっと愕然とします。
編集部 広島や長崎に修学旅行で訪れる、それが無意味だったとは思いませんが、それだけではだめだったのかな、とは思います。
編集部 お二人とも、戦前戦後の政治思想についてずっと研究をしてきたわけですが、ナショナリズムをめぐる今のこの状況については、どう捉えてらっしゃいますか?
鈴木 世界各国で、自分たちの国のナショナリズムとか、アイデンティティを研究している学生や学者たちはいると思うので、そういう人たちが集まっての世界規模の学会とか、発表会とか、連帯して研究するとか、そういうのがあればいいなと思うのですが、どうなんでしょうか。世界のナショナリストたちが集まるよりも、そういう会議の方が、客観的に物事がみられるし、有意義なんじゃないかと思う。
中島 なるほど、そうですね。ナショナリズムを言うのが「右」なんていう発想は、世界の中では、ほとんどないでしょうね。そもそもこの概念は、革新勢力から出てきたことですし。インドの経済学者で、飢餓と貧困の研究で98年にノーベル経済学賞をとったアマルティア・センも、今、さかんにナショナリズムの重要性を言っています。センは、ご存知のように「人間の安全保障」という概念を作り出したリベラル派ですが、インドの宗教対立を解決するためには、ナショナリズムによるネーション(国民)の平等性の担保が必要だとしています。世界的な兆候としては、左派による「リベラル・ナショナリズム」が注目されているでしょう。
編集部 ナショナリズムという言葉に似た言葉に「パトリオティズム」があります。これは辞書を見ると、いいものとしての愛国心、「善なるもの」と書かれてある。一方、ナショナリズムは、国粋主義とかそのように訳されてますね。いい意味で用いられないことも多い。
中島 英語の感覚で言うと、パトリオティズムというのは、下からの愛国者というような、苦しんでいる国民がいれば、それを助けるイメージ。逆にナショナリズムというと、排他的で上からの押しつけというイメージが英語の中にはあります。例えば、ドイツの社会学者のハーバマスは、「憲法パトリオティズム」の重要性を説いています。「普遍的なある価値を持った理念が定着するためには、個別的な価値と結びつかざるをえない」、としたら「政府をコントロールし、健全な社会をつくるための憲法を国民が担い、強い愛着をもつことが、近代立憲国家においては重要である」と、これが、ハーバマスが考えているある種の「愛国」というものですね。非常に大事な概念ですね。
そして難しいのですが、パトリにはもうひとつ「郷土」という意味があります。僕と姜尚中さんとの対談『日本 根拠地からの問い』(毎日新聞社)の中で使っている「パトリ」は、どちらかというとそういう、ある種の顔が見える領域から、どんな風に物事を立ち上げていくか、という問題です。つまり、ナショナリズムと、郷土というものを前提としたパトリとは、必ずしも一致しないと。だって、例えば成田闘争なんて、あそこで生きている人たちというのは、自分たちのパトリ(郷土)を守ろうとして、ネーション・ステート(国家)から迫害されているわけですよ。で、こういうことは往々にして起きていて、中央から地方に対して「それはお前たちの郷土の狭い考え方だ、我がままだ」と言われたりするわけです。
というわけで、実はこのパトリとネーションというものは、緊張関係があるのです。しかし、最近の保守は、これが一体化したものだと、簡単に言ってしまう。
鈴木 元赤軍派議長の塩見孝也さんが言ってましたが、「ナショナリズムやネーションは嫌いだが、パトリオティズムはいい」と。インターナショナルな闘いだったのに、もう模範になる国もないし、インターもない。自分の足元を見るしかない。でも〈国家〉は嫌だ。そうだ〈郷土〉だ。そんな感じでパトリを言ってる左翼の人が多い。でも、はっきり分けられない。郷土愛のない愛国心はニセ物だし、郷土愛もおだやかな形で愛国心になる。だから、排外的ではない、愛国心、郷土愛に基づいたおだやかな愛国心を考えたらいいと思う。
編集部 自分が依って立つもの=アイデンティティと愛国心や郷土愛との関係は、どうでしょうか?
鈴木 昔も今も、人間は、ひとり一人がアイデンティティや生きがいを欲している。だから、そういうものが何もなかったら、国家と一体となって、自分の存在価値を見出そうとする。そしてそれがナショナリズムにつながっていく、ということもたしかにあるんだろうね。
中島
そうなんです。僕が秋葉原事件を起こした彼のネットへの書き込みで注目したことは、彼は、事件を起こす3日前に、自分の「つなぎ」がないと言って、「クビにされた」と暴れるんです。しかしその後で、つなぎは見つかったし、派遣会社からも、現場からも「また明日から来い」とずっと連絡が来るんですね。でその時、彼が何と書き込みをしているかというと、「俺が必要なんじゃなくて、とにかくその場をやれる誰かが必要なだけ、俺が必要じゃないんだ。誰でもやれる簡単な仕事なんだよ」というようなことを書いている。つまり「代替可能な自己」=自分は、誰でも付け替え可能なパーツにされている。こういう感覚が派遣労働の中にあるんですね。
だから「かけがえのない自分」という感覚や、自分がいなければこの仕事がまわらない、という感覚を持てないという労働形態が、おそらく派遣の問題です。
このことをズバッと言っているのが、評論家であり劇作家の福田恒存なんです。彼の著書『人間・この劇的なるもの』(新潮社)は、僕の愛読書なんですが、「人間というのは、本当に手放しの自由を欲しているのか、求めているのか? いや、そうでない。誰かに束縛されながら、自分がいなければ、この一定の共同体、会社や社会はまわらない、そういう実感こそが、人間が求めているものである。だから人間は特定の役割を演じて生きていく演劇的な動物である」というのが、この本の骨子なんですね。
保守はそう考えるので、派遣労働については批判的なはずなんです。ある社会の中で、ひとり一人の意味ある価値というものを重視するのが、保守主義とするのであれば、ひとり一人の人間性が無視されている貧困問題や派遣問題について、保守は取り組まなくてはいけないと思うのです。
編集部 派遣労働の深刻な問題とリンクして、新たなナショナリズムが台頭してくる社会状況に、今はあるということですね。朝日平吾の時代のように。
鈴木 なるほど。しかし、派遣労働だけでなく、右翼も左翼も運動が最優先するとね、人を一人の人間としてではなく、数として扱うというか、そういう風になりますね。集会をやる、デモをやるから来い、となると、俺が必要なんじゃなくて、数が必要なだけ。俺がいなくても、別の人二人の方がいたら、そういう方がいい、というわけ。ああなるほどそういうことか、と思ったことありますよ。今でもそういうところは、あるんじゃないかなあ。市民運動でもね。
中島 それで思い出しましたけれど、うちの母は某企業の労働組合で、パートでやっていたんですよ。左翼の労働組合が、パートのおばちゃんをどう使っているか、僕はずっと見てきたわけですが、まあ、ひどいですよ。うちの母なんて最終的には容赦なくクビをきられましたが。労働貴族と言われる一部の人は、ほとんど何にも仕事しないでいて、高い給料をもらい、出世もする。でも母は時給800円で、すぐにクビを切られる。でも日曜日には、動員かけられて集会に出なくてはならない。母はものすごくそれに怒っていて反発をし、彼女は、選挙で「絶対に民主党になんか投票しない」というようになっていく。労働組合が、こういう欺瞞を持ってやってきたというのは、良くないですよ。
編集部 怒ってますね。
鈴木 中島さん、その話をこんど本にしたらどうですか? 「おかあちゃん物語」として。戦後、日本の労働組合と左翼活動の欺瞞について、すごく説得力があっていいんじゃない。
中島 いや〜(笑)。でもまあ、若い時からずっと蓄積してきたものってありますね。僕が国立大学に入ったときに感じたのは、なんか威張ってる先生が新左翼の人たちだったりしたんです。そういう人が、国立大学の先生になっていること自体が、もう意味がわからないんですが。それで自分の意に沿わない院生とかをどんどんいじめているんですよ。自分の青春のテーゼや主張を、新左翼の人って現実の生活の中で簡単に踏みにじれるんだ、とがっかりしました。だから、僕の原初体験が、「左翼って汚い奴だ」って、ことだったんですね。母もぼろぼろにされているし。赤木智弘さんが本で書いていること、よくわかりますよ。
鈴木 なるほどね。ところで、中島さんの岳志というこの名前は、やはり山に関係があるんですか?
中島 ええ、親父が山登りが好きで付けたらしいです。
鈴木 やっぱり! 親父の趣味を子供に押し付けていいんでしょうか?
中島 ちなみに僕は、山登り大嫌いなんです(笑)。平地で酒飲んでる方が好きですから。で父は、元全共闘です。でも、父が偉いのは、ヒラのサラリーマンでずっと営業やっているところ。人が好きで、地元の共同体の仕事も楽しそうにやっている。出世なんて、父の人生の中ではどうでもいい価値なんだと思います。だから、地域社会に友達も多いし、会社以外に居場所をたくさん持っている。もうすぐ退職ですが、まったく心配していません。いろんな仲間と楽しくやっていけるんだと思う。父は共産党を支持してたし、赤旗も日曜版をとってましたね。それなのに、かわいそうに・・・息子は右翼研究者になってね。保守だと言っているし(笑)。
鈴木 それ、お父さんに反抗してそうなったんですか?
中島
いやいや、父に反発したことはまったくないんですよ。父は「これはやるな、あれはやるな」とか、言わない人です。何かを強制されたことは、ほとんどなかったですよ。僕は真面目な学生ではなかったので、親は先生に面談なんかでいろいろと言われたんだと思いますが。高校の授業はまったく聞かず、読書か昼寝ばかりしていましたし。
高圧的なところがなく、人の話もよく聞いて、人付き合いが好きで。そんな父とは、めったに政治の話はしないのですが、ある時、家で酒のみながら、たまたまテレビで浅間山荘事件のことをやっていたのを見ていたら、父は「マルクスは偉かったんやけど、マルクスを読んだ奴がアホやったんや。お父さんは読んでへんけどな」と言ってました。政治が、他者と向き合いながら、合意形成していくものだというのが、とてもよくわかっている人ですよ。父のような左翼だったら、信頼できますし、僕が信頼する左翼は、そういう人間性を持った人です。
鈴木 へー、おとうさんとの対論でも1冊できそうですね。政治と思想と、自分の私小説的なところとミックスさせて、中島さんご自身についても、ぜひ。
中島 いやあ、自分のことでそんなに書く事、ないですよ・・・30年ぐらい経ったら、回想とかしたくなるんでしょうか。そのときは「あいつは、おっさんになったな」と笑ってください(笑)。
鈴木さんとは、どうしても一度、お目にかかってお話ししたいと思っていました。しかし、これまでなかなか実現せず、残念に思っていました。「マガジン9条」のインタビューを受けたとき、「どなたか対談されたい方はいますか」と聞かれ、「鈴木邦男さん」と即答しました。これまで、保守的なメディアでもリベラル系のメディアでも実現しなかった鈴木さんとの対談を、「マガジン9条」の編集部は何のためらいもなく承諾してくださいました。「懐が深いな」と改めて思いました。
鈴木さんには、率直に私の右翼観をぶつけてみたいという思いがありました。実際に右翼活動をされてきた方に対して、「私は右翼を○○と思う」なんてことを若造が生意気に話すのですから、鈴木さんは「この野郎!」と思われたんじゃないかと思いますが、それでも鈴木さんはにこやかに、そして紳士的に話を聞いてくださいました。本当に感謝しています。
私は、「反左翼・自称保守」は大嫌いですが、「本物の右翼」に心惹かれてしまうところがどこかにあります。頭山満のような人物がいれば、私は間違いなく惚れてしまうんだろうと思います。本物の右翼人は懐が深く、人間的な魅力を持っています。私の中には、どうしようもなく「右翼気質」があります。それは素直に認めなければならないと思っています。
お目にかかった鈴木さんは、とても懐が深く魅力的な方でした。この対談では、私は明らかにしゃべりすぎており、読み返すと恥ずかしい思いに駆られますが、それは私が目の前にした鈴木さんに、魅了されたからなのだと思います。テンションが高くなりすぎました。
私は、鈴木さんに聞いてみたいことが、まだまだたくさんあります。もちろん「右翼」の話です。鈴木さんがかかわってこられた「新右翼運動」、そして実際に会ってこられた「右翼人」について、私自身の右翼論を投げかけながら、じっくりと話をお聞きしたいと思っています。
そんな機会が近くあることを、心から願っています。
(中島岳志)
この対談の後に、中島岳志さんの『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房)が発売され、一気に読みました。朝日平吾ってこういう男だったのかと、初めて知りました。右翼の「先輩」なのに余り知らなかったのです。知ろうともしなかったのです。国の為のテロというよりも、個人的な激情に駆られての凶行のような気がして。でも違ったんですね。中島さんの見方の方があたたかい。今の格差社会の中で鬱屈している青年たちと同じ絶望感、焦燥感を持っていた。だからこそ、大きな導火線になり、その後のテロの連鎖を生んだのだろう。多くのことを教えられた。この本に、そして中島さんとの対談からも。
パール判事、ボース、朝日平吾・・・と。僕らが知っているつもりになって喋っていた人間だ。しかし、とらえ方が僕は一面的だった。多面多層な見方が出来なかった。それを中島さんに教えられた。僕は40年の右翼運動の中で多くの先生、先輩達に会ってきた。そのことだって教訓になってないし、伝えてもこなかった。絶望感、焦燥感に駆られる。中島さんにならい、それらの体験を客観視して、先生・先輩たちの〈思想〉と格闘し、書いてみたい。そんな気にさせてくれた中島さんに感謝したい。
(鈴木邦男)
最後は、中島さんご自身の話まで、鈴木さんが上手に聞き出してしまいました。まだ
まだ話し足りない様子のお二人でしたが、またの機会を待ちたいと思います。
鈴木邦男さん、中島岳志さん、ありがとうございました!
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