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2012-05-23up
雨宮処凛がゆく!
札幌姉妹「孤立死」事件。の巻
15日の集会
5月15〜17日まで、「全国『餓死』『孤立死』問題調査団」に同行して、北海道に行ってきた。
今年1月、札幌・白石区のマンションで姉妹が遺体で発見された事件や、相次ぐ餓死・孤立死(今年に入って私が把握しているだけで23人が亡くなっている)をなんとかしようと結成された調査団だ。
調査団の団長は、金沢大学教授の井上英夫氏。弁護士さんや現役ケースワーカーなど、30人からなる調査団が事件の真相を解明しようと札幌に乗り込むというので、私も同行させてもらったのだ。
この事件、発覚当初から私にとっては「他人事ではない」という思いが強かった。亡くなっていたのは42歳の姉と、知的障害のある40歳の妹。そんな二人の出身地は、私の地元である北海道滝川市。同郷の人であり、妹さんとは年も3つしか違わない。しかも、お姉さんが働いていたのは私もよく知る滝川のデパート。数年前、その店が倒産したことが地元民の間では大きな話題となったのだが、それがきっかけで滝川では暮らしていけなくなったようで姉は札幌に出て働き始め、それから数年後の今年、遺体で発見されたのである。
二人の遺体が発見されたマンション。普通にきれいなとこなのがさらにショックです・・・
どこかですれ違っていたかもしれない二人。地元にどれだけ仕事がないかは、私自身もよくわかっている。
発表されている姉の死因は病死。突然の脳内出血らしい。この背景には、食料にも事欠くほどの生活状況があったのだろう。一方、妹は凍死。二人の住んでいた部屋の電気・ガスは止められ、暖房器具のガスストーブが使えなかったことからの凍死のようだ。マイナス10度を平気で下回る冬の北海道で暖房がないということは、即「凍死」を意味する。発見された遺体は、服をたくさん着込んだ状態だったという。
二人の両親は既に他界。知的障害の妹を支えながら働いてきたお姉さんが亡くなり、あとを追うように妹も力尽きてしまった。どれほど寒く、心細かったか。考えれば考えるほど、気が狂いそうになってくる。だからこそ、私は調査団に同行させてもらった。自分一人では処理できないこの感情をどうにかするには、「そんな現実を変えようとする人たち」と行動を共にするしかないと思ったからだ。
この事件には、大きな問題がある。それはお姉さんが3度にわたって白石区に生活保護の相談に訪れていたものの、申請には至らなかったということだ。
井上団長が札幌市に要望書を提出
現地調査に行って目にしたお姉さんの「面接受付表」からは、生活がどんどん逼迫していく様子がありありと滲み出ていて、「どうしてこれで生活保護を受けられなかったのか」と気が遠くなる思いがした。1度目の2010年6月の面談では、仕事もなく、手持ち金もわずか。2度目の昨年4月には、公共料金も滞納し、国民健康保険も未加入、残金は1000円、食料も少なくなっている。それに対して白石区がしたのは「非常用のパンの缶詰14缶を支給したこと」。3度目の昨年6月には、家賃も滞納し、生命保険も解約。そんな中でも、お姉さんはこちらが驚くほど懸命に仕事を探していた。しかし、友人などの証言によると、ずっと体調が悪く、めまいや吐き気を訴え、物忘れがひどくなっていたそうだ。そんな状態なので、仕事が見つかっても続けることができない。病院に行きたくても、既に国民健康保険は未加入状態となっている。現金も残りわずか。厳しい状況の中、二人は主に妹さんの障害年金(ひと月で6万円ちょっと)を頼りに暮らしていたようだが、それではとても生活できない。そんな状況にある姉妹に対して、3度も相談を受けた白石区はどう対応したのか。面接受付票には、「高額家賃について教示。保護の要件である、懸命なる求職活動を伝えた」の言葉が何度か登場する。二人が住んでいたマンションの家賃は、生活保護で定められた住宅扶助の額より少し高かった。しかし、その場合も、家賃が数千円高いからといって生活保護が受けられないということはない。また、「懸命なる求職活動」は実際にしていたし、それは「保護の要件」では決してない。二人の収入はどう見たって最低生活費を下回っているのだから、保護が必要な状況だ。しかも、かなり切迫している。受付票から想像できるのは、「家賃が高いから引っ越さないと生活保護は受けられない」「もっと頑張って仕事を探さないと受けられない」などと誤った情報を与え、それによってお姉さんに「私は生活保護を受けられないのだ」と思わせた、ということだ。
16日、調査団と白石区の話し合いが持たれた。実際に面談にあたった人は現れず、その上司が数人、話し合いの場に姿を見せた。調査団の質問に対し、白石区保健福祉部の課長は、(面談した)本人は記憶がないと言っている」と何度も繰り返した。これほどの事件に発展し、テレビなどでは二人の顔写真も流れているというのに、覚えていないというのだ。また、面談した本人には聞き取りをしたものの、その記録も残っていないのだという。
2時間にわたる話し合いを終え、調査団は翌日、記者会見。札幌市に要望書を提出し、回答を求めた。また、二度とこのような悲しい事件が起きないよう、国や厚生労働省にも働きかけていくという。微力ながら、私も協力したいと思っている。
SOSを何度も発したのに、救われなかった命。
餓死や凍死していい人など、当たり前だが一人もいない。
記者会見を終えたところ
以前、困窮しても「助けてと言えない」、
30代など若い世代の貧困が大きな問題となりました。
(雨宮さんコラムなど参照)
しかしここには、助けを求めてもなお、
その「助けを得られない」現実があります。
助けられたかもしれないのに、助けられなかった命。
そして同じような状況は、たぶんこの瞬間にもあちこちにある。
その現実を、どう考えればいいのでしょうか?
雨宮処凛さんプロフィール
あまみや・かりん1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮処凛のどぶさらい日記」
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