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この人に聞きたい
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雨宮処凛さんに聞いた その1

自分に自信が持てなくて、国に誇りを求めていた

21歳で右翼団体の活動に加わり、「愛国パンクバンド」を結成。
現在は、若者たちが抱える「生きづらさ」などを
テーマに、作家として活躍中の雨宮処凛さん。
10代から20代にかけては、学生時代のいじめがきっかけで、
「不登校、家出、リストカットなどを繰り返していた」といいます。
そこから逃れてのめり込んだ先が、なぜ「右翼団体」だったのか。
その体験をお聞きしました。

かりんさん
あまみや かりん
北海道生まれ。愛国パンクバンド「維新赤誠塾」ボーカルなどを経て作家に。
自伝『生き地獄天国』(太田出版)のほか、『悪の枢軸を尋ねて』(幻冬舎)
『EXIT』(新潮社)『すごい生き方』(サンクチュアリ出版)など、著書多数。
雨宮公式サイトhttp://www3.tokai.or.jp/amamiya/
「すごい生き方」公式サイトhttp://www.sanctuarybooks.jp/sugoi/
アメリカの良心・デニス・クシニッチ下院議員との出会い
編集部

雨宮さんは20代の前半、「反米」や「愛国」を訴える右翼団体で活動されていたそうですが、そもそもその団体に関わられたきっかけはどういうものだったんですか? どういったところに惹かれて、活動に加わることになったのか…。

雨宮

まずあったのは、「自分の帰属する場所がどこにもない」という思いだったと思います。20歳から22、23歳にかけては、フリーターと今でいうニートを繰り返していたような状態だったんです。学校も卒業してしまって、バイトを始めてはすぐにクビになるし、つながっている人間関係もない。自分の帰属している場所が国家しかないというので、そこへ過剰に行ってしまったのかなと思います。

それと、「こんな何もない世の中、戦争くらい起こってくれないともう生きていられない」みたいな思いがすごくあって。戦争じゃなくてもいいんだけど、とにかく何か大きいことが起こってめちゃくちゃになってほしいと。

ちょうど私が20歳の時に地下鉄サリン事件が起こり、オウム真理教のことを知りましたが、事件のことはともかくとして、オウム信者の人たちはすごく目的を持っていて、充実しているように見えましたね。自分はフリーターだったりニートだったりで、目的も何も持っていなかったから。

そんなときに、知り合いに右翼団体の集会に連れて行かれたんですよ。そこで「こんな物質主義と拝金主義の社会は間違っている、こんな社会で生きていきやすいほうが狂っている」みたいなことを言われて、ガツンと衝撃を受けた。それで入会を決めたんです。その意味ではオウムでも右翼でも、どっちでもよかったのかもしれません。

編集部

そうして右翼団体で街宣などの活動をされて、「愛国パンクバンド」を結成して…。そのころは、例えば憲法9条についてはどう思っていたのですか?

雨宮

「思っていた」というか、教育されたのは「今の憲法はアメリカの押しつけ憲法だからダメだ。自主憲法を制定しろ」ということです。それは団体に入ってすぐ、最初から教えられて。基本的には、それをそのまま受け取っていました。

ただ、あるとき、憲法をテーマに右翼と左翼の役に分かれてディベートをするという勉強会があったんですよ。私は左翼の役になったんですが、ディベートだからそのときまでに理論武装をしないといけないというので、そのときに初めて日本国憲法を読んだんですね。それまでは、今の憲法を読んだこともないのに自主憲法を制定せよとか言ってたんです(笑)。

ところが、読んだらその憲法の前文に感動してしまって(笑)。「いいなあ」と思ったんですよ。周りから言われることを鵜呑みにはしないでおこうと少し思うようになったのは、そのときかもしれません。ただ、そのときはまだ「押しつけ憲法だ」と教えられたことのほうが勝っていて…それに、思想的なことよりも、何か破壊衝動を満たしてくれるものとしての右翼活動だったので、細かいことはどうでもよかったから(笑)、考えを変えるところまではいきませんでした。

とにかく「自分の頭で考えよう」と思った
編集部

でも、結局右翼の活動は3年くらいでやめられるんですよね。そのときのことは映画『新しい神様』(※)にも描かれていますが、右翼団体を離れようと思われたのはどうしてだったんですか?
(※『新しい神様』…愛国パンクバンド「維新赤誠塾」で活動する雨宮さんを主役に描いたドキュメンタリー映画。土屋豊監督、1999年。)

雨宮

一つは、自分が思想に依存しているなということが分かったから。自分の問題から逃げるために、右翼思想で理論武装しているんだということに気付いた。そうじゃなくて、いろんなことをとにかく自分の頭で考えよう、と思って、団体をやめたんです。

それから、『新しい神様』がたくさんの国の映画祭で上映されて、そこでいろんな国の人と話をしたことも大きかったですね。政治的な話もいろいろしました。例えば、あの映画の中では、私は愛国パンクバンドのボーカルで、「天皇陛下万歳!」なんて叫んでますから、アジアでは怒られるわけです。「天皇の戦争責任をどう思ってるのか」と聞かれたこともあったし、「おじいさんが日本軍の捕虜になってたんだ」という人にその話をされたりとか。

右翼が主張しているようなことって、国内で言っている分にはまあいいんですけど、アジアとかではまったく通用しないでしょう。実際に怒られてみて、それがよくわかりました(笑)。

編集部

まさに肌身で感じたという感じですね。

雨宮

本当に。それまでの自分は、すごく小さな視点しか持っていなかった、日本側の気持ちしか考えてなかったんだなと感じました。そうじゃなくて、いろんな国の人の立場について考えたら、視野が広がった。日本一国にだけこだわって考えないようになったら、やっぱり憲法9条もあったほうがいいなと思うようになったし。
今、改憲を叫んだり、戦争を肯定するようなことを言う若い人が増えているのがとても怖いなと思っているんですが、そういう人たちにも、「自分が今主張してることをアジアで言ってみろ!」と言いたいですね(笑)。

シンプルに「戦争はいやだ」というとこにいきついた
編集部

右翼団体をやめた後、雨宮さんは今度は平和活動を積極的に行っていくわけですが、2003年に米軍によるイラク空爆が始まる前に、イラクへ行かれたときのことを伺いたいと思います。このときは「人間の盾」の一員として行かれていたんですよね?

雨宮

戦争が始まる、ちょうど1カ月ほど前です。空爆が始まりそうだというので、「何かしたい」と思って、何度か反戦デモにも行っていたんですね。そんなときに、知り合いの方に誘われて「行きます」と。

編集部

日本からもかなりたくさんの方が行かれていたそうですね。

雨宮

日本からは、そのとき80人です。そのほかにも、ヨーロッパとか世界中から、たくさんの人が「反戦」のために集まってきていて…。イラクの人たちも「こんなにみんな来てくれるから大丈夫だ」と言ってくれていたし、本当に戦争を止められるような気がしていたんですよね。いろんな国で行われている反戦デモのことが現地の新聞のトップに取り上げられていたから、イラクの人たちにも「日本で反戦デモをやってくれてありがとう」と言われたりもして。

編集部

でも、最終的には戦争は始まってしまって。そのときの気持ちはどんなものだったのでしょうか。

雨宮

怒りももちろん大きかったけれど、何よりまず怖かったですね。1カ月前、自分が行ったときのイラクはあんなに平和だったのに、と思って。

まったく知らない遠い国の話とは違って、自分が会って話をした、「あの人たちの上に爆弾が落ちるんだな」というのは、すごくリアルな感覚ですよね。それがすごく怖かった。あの人が死ぬかもしれない、でももう助けにも行けないし、イラクにも入れないし、行ったら自分も死ぬかもしれない。そう思うのはやっぱり、精神的にも厳しかったです。

実際に、戦争が始まってから、現地で知り合ったイラク人の友人にもメールを送ったんですけど、返事が来なくて、いまだに連絡がとれていないので、どうなったのかも全然わからないんです。

それから同時に、「(人間の盾の活動は)何の意味もなかったんだろうか」という無力感は強いものがありました。怒りはもちろん今もある、あるんですけど、戦争が始まった瞬間にどこかであきらめてしまった部分もあって。その後は急速に反戦デモもなくなっていったし、慣れちゃうというか、「始まったものはしょうがない」という感じになってしまった自分がとても怖かったです。

ただ、それからまた少し時間がたって、今はすごくシンプルに「戦争はいやだ」というところに行き着いた気がしています。イラクで少し会っただけの人のことを思ってもあんなに苦しかったのに、すごく近しい人が戦争で死んでしまうことがあったら、どれほど苦しいだろう、という思いがあって。

編集部

その「人間の盾」に一緒に行かれた方の1人が、最近病気で亡くなられたとお聞きしました。

雨宮

自身が被爆2世で、イラクではそれを明かして講演をしたりもしていた女性でした。イラクにも、劣化ウラン弾の後遺症で病気になっている人がたくさんいますから、そういう人たちを助けたいといって活動をしていたんです。

その人が、去年の6月くらいに白血病と診断されて。もちろん、原爆症による発病だということを証明するのは難しいんですけど、家族に病名を告げたときも、「やっぱり」という感じの反応だったらしいです。それで、一度は骨髄移植も受けたけれど合わなかったらしくて、結局今年の1月に亡くなってしまったんですよ。

もう、本当に腹が立って腹が立って。戦争が、原爆がなければ彼女は生きていたわけでしょう。これはいったい誰が悪いんだ、と思って。原爆を落としたことで、誰かが殺人罪で裁かれるとかいうことがあったわけでもない。それなのに人が死んでいってしまう。どこにも行き場のない、ぶつけどころのない怒りを覚えました。それに、被爆2世は被爆手帳ももらえないとか、国の支援もないんだということも、彼女が病気になってから初めて知って。

戦争が終わってもう60年が経っているのに、こんなふうにして自分の知り合いが死んでいってしまうんだということ。それが本当にショックでした。イラクもこれからどうなるんだろうと考えたら、すごく恐ろしくなってきて。

イラクでも、その彼女と一緒に病院を訪ねたときに、病気の子供が私たちの目の前で息を引き取ってしまったことがあったんです。その子のお母さんがわあわあ泣いているのを見て、何も言えませんでした。もちろん、その子供が劣化ウラン弾のせいで病気になったという証明はできないし、米軍は否定してます。そのあいまいさにまた、本当に腹が立って。

彼女も、被爆2世でいつ病気になるかもしれないという不安を抱えていたからこそ、反戦を掲げてイラクへ行ったんだと思うんです。その遺志を継いでいかなくては、と思いますね。

つづく・・・

「破壊衝動を満たしてくれるのが右翼活動だった」という雨宮さんの言葉は、
若者の右傾化が指摘される現在の流れにも通じるものがあるのかもしれません。
次回は、雨宮さんの近著のテーマでもある、
現代の若者たちが抱える「生きづらさ」についてもお話を伺います。

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