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2010-11-17up
1924年6月に誕生した加藤高明内閣をはじめに、第2次加藤内閣、第1次若槻禮次郎内閣、その後の浜口雄幸内閣、そして第2次若槻内閣と、およそ4年半にわたって外務大臣を務めた著者の回想録である。口述筆記による本書には、1920~1930年代のものとは思えない、現代にも通じる外交の要諦が随所で語られている。
幣原が外交の責任を負っていた時代は、日本が軍国主義へと傾いていくそれと重なっていた。なかでも幣原自身が、
「……その太平洋戦争は、盧溝橋事件から惹起された日華事変の発展したものであり、その日華事変は、柳条溝から発火した満洲事変の発達したものである」と語る1931年に勃発した満洲事変。これは満洲を実質的に支配する関東軍が奉天(現瀋陽)近郊の柳条溝で、南満洲鉄道の線路を爆破し、これを、中国東北部を支配する軍閥、張学良の仕業だとして、同地を占領、満洲国を建国するきっかけとなった事件である。
当時、幣原は中国戦線の不拡大方針を唱えた。軍部の危険な冒険だということを見抜いただけでなく、長年の対中外交から導き出した判断でもあった。
1927年、中国国民党の蒋介石が南京で、現地の外国人を排斥する動きを見せたことがある。北京の外交団、とくに英国は、当時結んでいた日英同盟に従って、南京への共同出兵を日本に求めた。しかし、幣原は蒋介石の政権が潰れれば中国国内は大混乱に陥ると考えた。さらに、
「……中国という国は無数の心臓を持っているから、一つの心臓を叩き潰しても、他の心臓が動いていて、鼓動が停止しない」から、外国による軍事的平定は不可能であるとし、中国と大きな利害関係をもつ日本がそれに加わることはないと出兵を断った。
幣原外交の真骨頂はその後だ。彼は仲介人を使って蒋介石と接触し、列国に対して謝罪し、損害賠償を支払ってはどうかと伝えたのである。蒋介石はその通りにして、欧米列強との衝突を回避した。
このエピソードからもわかるように、幣原は同盟を核とする外交に懐疑的であった。
「二つの国が同盟すれば、その対象と認められる第三の国から反感をもって迎えられる。つまり同盟は友邦を少なくする。国際平和を求めて、かえって国際不安を起こすことになる。これに処するには、同盟ではなく、協商ということがよい」
しかし、対中不拡大方針を掲げた若槻内閣は「弱腰外交」と批判され、総辞職した。幣原も外相の職を辞し、やがて日本は破滅へと突き進んでいく。
戦後の幣原は、総理大臣として憲法草案の作成に係った。内容に関してGHQとの間でさまざまな議論があったが、日本国憲法には彼の国際協調主義が色濃く反映されている。幣原に言わせれば、軍備放棄をうたう憲法は「決して誰からも強いられたのではない」のであり、
「……国民各自が、一つの信念、自分は正しいという気持で進むならば、徒手空拳でも恐れることはない」という彼の言葉は説得力をもって、読者に届くのである。
(芳地隆之)
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