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私は在日韓国人です。 1999年、朝日新聞の「声」の欄に、父のことを書いた私の投書が掲載されました。
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朝日新聞 「声」
1999年12月30日
忘れられない父の体験遺言
新 八子(大阪市 58歳)
この秋、私の父は在日韓国人として66年の生活を閉じました。81歳でした。
健在だったころの父は話好き、若者好き、そして人間大好きで、年齢よりは随分若く見え、並んで歩くのが恥ずかしかったものです。
父とは、それまで会話らしい会話をしたことがありませんでしたが、病に伏してからはよく語り合いました。
子供のころの韓国・済州道での話、日本へ来て皇国臣民として徴用され、炭坑へ送られたことなど……。その中でも、新婚間もない夜半に特攻警察にたたき起こされた話は悲惨だった。
有無を言わさず連行され、石畳の上に正座させられ、ひざの上にレンガを置かれたまま、両手の指の間に棒を挟んでねじられ、小指を残し八本の指を折られたそうです。父は争いを好まない人でしたが、「この時だけは復讐してやりたいと思った」と言っていました。
それでも最後は「けどな、人を恨んでも何も出てけぇへん。恨みが恨みを呼ぶだけや。そやけど、わしらの経験は忘れないでほしい。お前も平和運動をやる以上は負けるな」と私たちに遺言を残してくれました。
母も、もうこの世の人ではありませんが、私は父親から聞いたこの「体験遺言」を決して忘れないでおこうと心に誓っています。 |
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私は今年、64歳になりますが、父が受けたひどい仕打ちは、いま思い出しても、とても許せるものでもありません。
母の話によると、父が特高警察へ連れて行かれたのは、共産党員だったわけでもなんでもなく、ただ「半島人」というだけの理由だったそうです。
石畳の上に乗せられた父の体重は50キロで、その上に乗せられたレンガは15キロもありました。特高警察はその状態で左の指の間に棒を挟み、右手の間にも棒を挟んでねじりあげたのです。
父は悲鳴を上げましたが、警察はタバコを吸いながらにやにやしていたそうです。警察から帰るときの父の体は顔も足も手も腫れ、しばらくの間は起き上がることも食べることも出来ませんでした。
父は、皇国臣民(※編集部注:大日本帝国が支配していた植民地に住んでいた人間を指す。帝国国民のひとりとして、天皇に忠誠を尽くすことを強要された)として徴用され、小さな炭坑へ送られたことがありました。
父が帰って来るまで、家には母、私、祖父母、叔父らがいました。
私たちは、小柄な父が炭坑で重労働をさせられていることを思うと、心配で心配でたまらず、毎日心細い思いで父の帰りを待っていました。
ある日父は、なんとかして私たちのところに帰ろうと、炭坑を脱走しました。
父は目がとても悪かったのですが、逃げるときにメガネが壊れたために足元もはっきり見えず、何日もかけて命からがら帰ってきたのです。
その後、朝鮮戦争が始まる直前に、祖母と叔父が韓国に帰りましたが、祖父母は朝鮮戦争で殺されてしまいました。祖国にいた3人の叔父も、同じく朝鮮戦争で殺されたのです。
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私の在日の60年間は、「怒りの60年間」でした。
そこには相変わらず民族差別があり、性差別があり、家父長制があるからです。
家父長制は、儒教の理念そのものです。イデオロギーとしての家父長制は、アジア的専制君主の支配原理・理念として、広く東アジアの伝統的社会を支えてきました。
日本での家父長制は、天皇制を頂点に維持されています。
<天皇制DNA>が生まれる前から刷り込まれており、「関係ない」という人にも無意識にしみ込んでいます。
そうして「怒りの60年間」は、さらに延長されて続くのです。
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