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私の父も母も戦争体験者です。断片的ですが話を聞いたことがありました。父は戦争当時、35歳でした。2度ほど徴兵されたらしいですが、そのことについてあまり多くを語りませんでした。「世界は国連を中心に統一するべきだ」とか、「(父は弁理士だったので)士のつく職業は武士だが、自分は剣ではなくペンを使って闘う武士だ。武士は食わねど高楊枝」といったようなことばかり言うので、戦場での具体的な体験については、知りません。父いわく「すぐに病気して日本に帰ってきた」とのことでした。
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それから、私にとっては年のすごく離れた兄が、「静岡空襲」のことを少し話してくれました。静岡の中心街はすっかり焼け野原になり、たまたま焼け残った我が家から、それまでは見えるはずもない、2キロ先の静岡駅が見えたそうです。
ちょうど東京に出かけていた父は、夜静岡に帰ってくると、空襲で明かりも破壊された真っ暗な町にぽつんと灯る明かりを目指して歩けば、それが我が家だったのでした。
当時7歳だった兄は、家族を探し、自分の家のまわりの焼き尽くされた町並みを見てまわり、そこらじゅうに転がった焼死体にかかっている藁むしろを、はがして歩いたそうです。
「今思えば恐ろしいことだと思うが、当時は子どもでかえって怖さがわからなかった」と兄は言っていました。
この空襲で、父は自分の父親と母親(わたしの祖父母)を亡くし、妻(わたしの母ではありませんが、兄の母親)が行方不明になりました。
考えてみればいわば「家族崩壊」してしまったわけで、父はその後一人で3人の子を育てていかなくてはならなくなりました。
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一方、私の母は同じ頃、旧満州にいました。ソ連兵がやってきて女を見つけたら陵辱するから、ということで、母は泣く泣く髪の毛を短く切って、一見女性には見えないような格好をしたそうです。
母がよく話していたのは「引き揚げ」のことでした。奉天で暮らしていたのだけれど、本土に引き揚げなければならなくなり、大勢で列車に乗り込んだのですが、それはもう客車ではなく貨車だったそうです。しかもはじめは屋根のある貨車だったのに、途中で乗り換えさせられたら「無蓋車(ムガイシャ)」、つまり天井のない貨車になり、最後は徒歩で港までたどり着いたのでした。
その間にも、すぐそばで何人もの人が身体をこわして死んでいき、乗り換えるごとに人数が減っていったそうです。
もしもわたしが母や父と同じような体験をしたら……。累々と並ぶ死体を眺めながら歩く、そんな体験をしたら、いつまでもトラウマとなって、その後の人生に暗い影を落としたことだろうと思います。
父が戦地に赴いた時のことを、結局死ぬまで語らなかったのは、もしかしたら語ることのできないような陰惨な、それとも後ろめたさを感じるような体験があったからかもしれません。
母は、9人兄弟で支えあって生きてこられたから、少しは戦争体験のことを語ることができたのかもしれません。しかし戦時体制の中で、押しつぶされてしまったような祖父(母の父)の死(当時の国策会社であった“満州綿花”での仕事の失敗を引責しての自殺)に関しては、ずっと苦しんでいたように見えました。
もしかしたら、父も母も、実は立ち直れないまま戦後を生き、私たちを育て、死んでいったのかもしれません。
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父や母が体験したようなことを、再び父母や私たちが体験せずにすんだのは、憲法9条があったからでしょう。9条があったから、このような戦争の極限状況を更に繰り返すことによって、戦争を「常識」にしてしまうことはなかったのです。アメリカのように。
父は時々「おれは反戦じゃない、非戦論者だ」と言っていましたが、これも「日本国憲法」が成立した社会の中でこそ言える言葉だったのではないでしょうか。
母は、戦後10数年を東京で暮らした後、静岡に嫁いできて、生涯を閉じるまで定住していましたが、もしも再び戦争状態に陥っていたら、流浪の一生を送ることになったかもしれません。
歴史に「もしも」はありませんが、“もしも9条を持つ憲法が無かったら”と想像した時、父と母がめぐり合うこともなく、私はこの世に生を受けることができなかったのでは、という気さえしてきます。
改めて、戦争を回避するのに役立った憲法9条を、今手放すべきではないと思います。
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