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終戦60周年特別企画 見た・聞いた・体験した「戦争の話し」読者編
戦争があった子どもの頃のこと ●忘れられない父の体験遺言 ●侵略戦争時代に生きた一人として ●和解と希望〜中国人強制連行長野訴訟原告の蒼さんと交流して
●戦後、満州での思い出 ●伝えられた戦争のはなしと9条のこと

「戦後、満州での思い出」ちえこおばあちゃ


突然知らされた終戦。と同時に始まった、ソ連軍の侵攻


 19歳のとき、満鉄(編集部注:南満州鉄道株式会社)の社員だった主人(当時27歳)と共に、満州の虎林へ行きました。着いたばかりの時は、内地(日本)に比べて物が豊富にあり、なんて豊かで平和なところだろうと思っていました。それが一変したのは、昭和20年8月16日のこと。

 夜中に大きな音がしました。ソ連からの大砲の音でした。主人がとんで来て「牡丹江へ避難するから支度をするように」と言いました。私は何が何だかわからなかったのですが、大陸は夏でも夜中になると寒いので、綿入りねんねこを着て、子どもをおぶって主人と別れ、先に出発しました。その後遅く出発した主人は、線路が破壊されてしまったため、山の中をさまよい、再び私たちと出会えたのは、3ヵ月後でした。

 東安の駅に着いて、汽車に乗り込みました。一緒にいた友達の奥さんが、臨月で困っているだろうと思い、窓を開けてご主人の名前を叫んだら、突然目の前に銃剣を突きつけられました。私は頭の血が引いていくようでした。

 夕方、牡丹江の社宅に着き、休んでいたら、その日の夜中12時ごろ、大雨が降ってきました。すると、これから牡丹江の駅へ向かうようにとの命令がありました。私たちは何だか最後のような気がして、今まで着ていた洋服は暖炉に放り込んで焼き、一張羅の上下のもんぺに着替えて駅に向かったのです。

 主人の同僚の奥さんは、途中ではぐれたりしないよう、眠たがる男の子の手を、大きい子から順番に、兵児帯(編集部注:へこおび。男性・子供の締めるやわらかい帯)で結んでいるようでした。まるで電車ごっこをしているように、4人、つながっていました。
 奥さんは背中いっぱい、荷物を背負っていました。 ところが駅に着いたら、子どもが1人いないというので大騒ぎになりました。男の子たちが、夜の間ずっと眠い、眠いと言っていたのは知っていたのですが。道端に塹壕が掘ってあったので、そこへでも落ちてしまったのでしょうか。ご主人でもいれば、探しに戻るだろうに。奥さん一人では、もうどうすることもできなかったのです。
 汽車はすぐに発車して、ハルピンへ向かいました。

 松花江へ着いた時、「みんな、線路へ鎮座して下さい」と言われました。一体、何があるのだろう、これからひき殺されてしまうかとびくびくしていたところ、「天皇陛下の終戦のお言葉」を聞かされて、あ然としてしまいました。

一変した日常の生活。デマにおびえる毎日
 しばらくしてまた場所をうつし、撫順にある満鉄の社宅に入りました。私も働きに出ました。
 9月に知り合いの坊やが、亡くなりました。心臓が悪くて、注射さえあれば助かった病気だったのに、お父さんがいないばっかりにと、泣きました。
 我が家の息子、昭が10月25日に亡くなりました。ある人が「ロジノン(編集部注:ブドウ糖)があれば……」と言っていた言葉が、耳の奥に染み付いて離れません。普通の状態だったら、薬や栄養のある食べ物を工面できて、助けることができたのに。悔しい。主人のいない者同士、泣きました。

 隣の部屋の奥さんは、高齢出産で産後の肥立ちが悪く、目が見えなくなって困っていたようすでした。4年生ぐらいと中学生ぐらいのお兄ちゃんと、お姉ちゃんが1人居ましたが、食べるものもないようでした。ご主人は山の中を逃げているとき、残兵に殺されてしまったと聞きました。そのうち、2、3日の間、お姉ちゃんの姿が見えないと思っていたら、素敵なチャイナ服を着て帰ってきました。きっと家の犠牲になったのです。食べ盛りの弟、目の見えない母のことを思って決めたのだろうと思うと、女の子が不憫でした。
 自分の娘を金で売らなければならない気持ち。私は戦争の傷跡のこわさ、悲しい気持ちが、日に日につのるばかりでした。

 毎日、いろいろなデマが飛び交っていました。女はサイパン島へ連れて行かされるとか、男はまた別の島へ連れていかされるとか。内地に引きあげても、焼土と化していて住むところはないとおどされてもいました。
 終戦後、1年ぐらいは毎日、気の休まることがありませんでした。朝になると、かまどのすすを塗りながら「今日が最後か……」と思っていました。すすを顔に塗ったのは、女性だとわかると強姦されるとのウワサがあったからです。女性は散髪のできる人に髪を切ってもらい、丸坊主になったりしていました。私は胸のふくらみで、女だとばれるだろうからと、すすを塗っていたのです。

 こんなこともありました。仲良くしていた5組の新婚さん夫婦のうち3人の奥さんがソ連の兵隊に追われたので、防空壕へ入ったのです。「ダバイ、ダバイ(出てきなさい)」と言われたけれど、怖くてますます奥へ入ったところ、防空壕の入り口に蓋をされて、蒸し焼きにされてしまったのです。毎年、その当時の仲間たちと「今度、みんなでお参りに行きましょうね」と言うのだけど、毎年、一人ずつ死んでいってしまいます。

 またその当時、小学校の裏にあった防空壕は、亡くなった人でいっぱいだったそうです。氷が溶けたら、ウスリー江へ流すのだと聞きました。満州へ来るときは、希望に胸をふくらませていたのに、最後は誰にも見送られずに、河に流されてしまったとは……。


戦争の話を聞いてもらえると、辛い経験が少しずつ癒される
 結局、日本に引き揚げてきたのは、昭和21年8月25日でした。中国残留孤児がテレビに出ているのを見ると、「もしかしたらあの人は、あの時、中国人に売られた坊やではないのかしら」と思うこともあり、当時のことを思い出してばかりいます。 あのような思いは、これからの子どもや孫たちには、絶対にさせたくないと思います。

 戦争の悲惨さ、むごさ……血の出るような叫び。私は、戦争によって、いろいろな汚い水をかけられた思いです。でも、皆さんに少しでも聞いていただくと、汚い水が少しずつ洗い流されるような気がします。一人ひとりが、広い心、やさしい心を持ち、アジアの人、世界の人が、膝を交えて仲良くしたいものです。


 満州国は、日本が満州事変によって占領した中国東北部(現在の黒竜江省・吉林省・遼寧省・内モンゴル自治区北東部)につくりあげた傀儡(かいらい)国家。
  1932(昭和7)年、もと清朝の宣統帝溥儀(ふぎ)を執政に迎え(34年には皇帝)、中華民国から分離させて建国。首都は新京(現長春)。翌年熱河省も加えた。政府の要職には満州人を起用したが、事実上は日本人官吏および関東軍の指導下にあった。45年8月、日本の第二次世界大戦敗北とともに消滅した。(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

  この敗戦の壊滅的混乱の中で、肉親と離れ離れとなり、現地の中国人・満州人に保護されたり、肉親自身によって現地人に預けられるなどして、そのまま中国に残留を余儀なくされた日本人の子どもたち、いわゆる中国残留日本人孤児を多数生み出した。

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