080730up
先週の「週間つぶやき日記」の記述に誤りがありました。
<反対派住民は、すぐさま後継市長選に候補を擁立しようとしたのですが、住民投票運動の虚しさからか、人選は難航。その結果、反対派は保守系のも都市議会議長を革新統一候補として推すことになりましたが、それに反発する革新系候補も出馬。結局、反対派は分裂選挙を闘うことになりました。>
という部分は、実は2002年の名護市長選の際の出来事でした。ここで記述した1998年の名護市長選では、革新統一候補は玉城義和氏であり、革新側の分裂選挙ではなく保革の一騎打ち選挙となり、接戦の末、保守陣営の岸本建男氏が当選しました。
2回の市長選の事実関係を混同してしまったこと、関係者のみなさんにご迷惑をかけてしまったことに深くお詫びし、当該部分を削除いたします。
本日未明(午前0時26分ごろ)、またも東北地方を、震度6強(マグニチュード6.8)の大地震が襲った。
私の故郷は東北だし、兄弟や親戚がいまも住んでいる。「マガジン9条」でおなじみの「やまねこムラ」の村長さんのお宅も、やはり東北だ。
村長さんからは、すぐにメールが届いた。今回も、被害はまったくなかったとのこと。私の縁戚関係にも、被害は出ていないようだ。被災した方々には申し訳ないが、とりあえずホッと胸をなでおろした次第。
それにしても、このところの大地震の頻発は、いったいどうしたことだろう。この国の地軸そのものが狂い始めたような、気味の悪さを感じてしまう。
私の故郷を含め東北地方は過疎化が進み、住民の数は減る一方だ。 こういう書き方は不謹慎かもしれないが、そんな過疎地だからこそ、被害もかろうじて軽微で済んでいる、とも言える。
しかし、同規模の地震が首都圏などの大都市周辺で起きたら、どうか。
例えば東京で、大地震対策はどこまで進んでいるのか?
私がいま住んでいるのは、東京郊外の中都市だ。この街では、耐震工事が終わっている学校は、全体の半数くらいしかない、と言われている。中国四川省大地震の際の、学校崩壊の悲惨さを考えれば、まず、そういうところへ対策費をつぎ込むのが急務ではないか。
だが、東京都がいまもっとも力を入れているのは、能天気にも“オリンピック招致”なのである。
このコラムで以前(6月13日~16日)にも書いたのだが、順序が違うと思うのだ。地震が、それも特大の強烈な地震が首都圏や東海、中部などの大都市圏に迫っている。それへの備えが完全にできているのであれば、オリンピックもいいだろう。
だが、東京に限って考えても、先述の学校の耐震工事や下町の地震対策、埋立地の液状化現象対策、どれをとっても中途半端なままではないか。それらがまだ完全ではない状況下で、都知事が先頭に立って“五輪音頭”を踊りまわるのは、私にはまったく理解できないのだ。
築地市場の移転問題もかなり怪しい。この移転先に予定されている豊洲の旧東京ガス跡地は、化学物質に激しく汚染されている。その汚染の除去のためには、深さ2メートル以上の土壌を取り替えなければならないと、専門委員会が答申した。
広大な土地の2メートルに及ぶ土壌を、総入れ替えするのだ。そのための費用は、最初の試算が約670億円、すぐに1300億円に訂正。この2メートル案が出て、その1300億円でもまったく足りない、ということになった。
そうまでして移転させた築地市場の跡地に、何を造るのか。それは、五輪関係の施設だという。ここでも、都民の食の安全よりもオリンピック招致が優先されている。
しかも石原慎太郎東京都知事、自分の気に入らなければ、例によって口汚い言葉で相手を罵る。ほんとうに聞くに堪えない。“ベらんめぇ調”というのが、そんなにカッコいいと思っているのだろうか。
“知事の品格コンテスト”とでもいうものがあれば、この人の言葉遣いは、“最低品格賞”ものだと私は思う。
「皇太子の招致活動参加を」としきりに言い立て、これが「皇室の政治利用だ」と批判されれば、「バカな連中の世迷言」と罵る。宮内庁の野村一成東宮大夫が「招致活動には政治的要素も強いから」と皇太子の招致活動参加に難色を示したことに対する、石原知事の罵倒は、エスカレートするばかり。
最近の彼の語録を拾ってみると、暗然とする。
「宮内庁のバカどもが」
「宮内庁の木っ端役人の言うことなど」
「何モンなんだ、いまの東宮大夫って」
「あいつらの口出す話じゃねえだろ」
「宮内庁ごときが僭越だ」
これが、世界に誇る大都市の代表者の言葉である。同じ東京に住むもののひとりとして、呆れるばかりだ。
何度でも繰り返して書いておく。
私は、2016年の“東京オリンピック”招致には、はっきりと反対する。
結局は数兆円の規模になるであろうオリンピック関連経費を、なぜ市民の安全のために使おうとしないのか。
老知事の退場の花道を飾るには、あまりに大きな花代だ。名誉欲とは、老いるにしたがってますます強くなるものなのか。
新聞を開いたら、またも同じような記事が載っていた。
見出し
<「誰でもよかった」
青梅通り魔 殺人未遂で再逮捕>
記事
<東京都青梅市のスーパーで15日夜、買い物中の女性が刺され重症を負った事件で警視庁青梅署は26日、銃刀法違反(所持)容疑で現行犯逮捕していた同市河辺町9、会社員、大越粒巧容疑者(22)を殺人未遂容疑などで再逮捕した。「誰でもいいから女の人を殺そうと思った」と供述しており、動機を追及する。(後略)>
(毎日新聞7月27日)
ああ、またか、である。
「誰でもよかった」という言葉を、私たちはこのところ、何度、目にしたことだろうか。どうも、この言葉がキイワードのようである。
世の中への不満、自分への絶望、さらには、周囲の人たちへの憎悪の鬱積…。それらが積み重なっての凶行。
しかしそれがなぜ、「誰でもよかった」になるのか。
中3の少女が、父親を殺した(7月19日、埼玉県川口市)。この少女の動機が、いまもってさっぱり分からない。
もしかしたら、この少女にとって、殺す相手は「誰でもよかった」のかも知れない。ただ、誰かを殺そうと思ったときに、そばにいたのがたまたま父親だった、というだけのことだったのではないか。だから、少女はいまだにうまく動機を説明することができない。そんな気がする。
「誰でもよかった」
それが、このところの「無差別殺傷事件」の犯人の、共通した供述である。
人を殺すことによって、自分を殺す。自分を殺したいために他人を殺す。つまり、これは「形態を変えた自殺」なのではないだろうか。
芥川龍之介が、35歳という若さで服毒自殺したのは、1927年(昭和2年)7月24日未明であった。自殺の理由は「将来に対する漠然たる不安」であったとされている。
ちょうど、大正デモクラシーと呼ばれたある種の明るさを伴った時代が終わり、日本は、戦争への準備の暗い時代へ傾斜していく。そんな時代の裂け目での、芥川の自殺だった。
現在の日本は、昭和初期の雰囲気によく似ている、とその類似性を指摘する研究者たちは多い。
ものが自由に言えない時代。働くことが、未来につながらない時代。貧富の差が、もはや自分の力ではどうしようもないところまで広がっていることへの、やり場のない怒り。それら、時代を象徴するような事件の連続である。
こうして、無差別殺傷事件という形でしか、その怒りを表現できないのだとすれば、あまりに哀しい。「甘ったれるな」と、テレビのコメンテーターたちは叫ぶ。では、どうすればいいのか。
テレビ解説の知識人たちに、その処方箋を聞きたい。
教育であれ、経済政策であれ、労働環境の整備であれ、さらに雇用状況の改善であれ、具体的に彼らの意識の奥底へ降りていっての提言でなければ、それは何の効果も持たない。
もはや、官僚や政治家どものその場しのぎの口舌など、聞きたくもないし期待も持たない。
働いて、きちんとメシが食え、一応の未来図が描けるような状況を作らなければ、同じ「誰でもよかった」事件は、まだまだ続くだろう。
では、対策はないのか。
例えば、ある規模以上の企業には、以下のような制度を早急に導入するよう義務付けてはどうか。
思いつきで列挙してみたが、よく考えればもっと多くの改善策は、必ず見つかるはずである。
そのような労働環境・雇用制度の改善のための政策を、野党に(自民公明の与党にはまったく期待できないから)、ぜひ提案してもらいたい。労働組合依存のために、労組に入れない非正規雇用者を無視してきたことへの大きな反省を、野党側にも強く求めたい。
労働組合の側も、自分の会社で働く非正規労働者にもっと目を向けなくてはならない。
「働くものの権利を守る」はずの労働組合が、自分たち正社員の権利のみに固執して、本来の同僚たるべき非正規社員を踏みつけにしてきた事実を、ここらで反省すべきだろう。そうでなければ、この国の労働社会はまさに2分され、正規と非正規間の、新たな階級闘争に発展しかねない。
それは、企業にとっても決してありがたいことではあるまい。労働環境の崩壊が、労働意欲を失わせ、結局、企業も損失を蒙る結果になるのだから。
もうひとつ書き添えておく。
多発する無差別殺傷事件に便乗して、厳罰主義や死刑制度維持が高らかに語られることに、違和感を抱く。いかに厳罰化しようが死刑を執行しようが、「他人を殺すことによって自殺しようとする人間」の行為を防ぐことはできない。
国家の手で殺されることを望む人間には、死刑も厳罰も、意味を持たない。
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