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週間つぶやき日記

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6月12日(木)雨

粛々と議会を否定する与党

 史上初の「総理大臣問責決議」が、6月11日、参議院で可決された。福田首相と自民公明の与党は、これを「憲法上では何の法的拘束力もない」として無視。相変わらず「粛々と施策は進めていく」のだそうだ。
 “粛々と”。便利な言葉だ。
 どんなに批判にさらされても、それを無視するときに使う、これ以上ない言葉、それが“粛々と”なのだ。
 しかし、2院制の日本において、一方の議会がはっきりと、首相に「ノー」を突きつけたのだ。それを無視して“粛々と”もないものだと思う。
 それならば、参議院など必要ないことになってしまう。
 参議院での決議を“粛々と”無視するというのであれば、与党はすぐさま憲法を改定して、日本の議会を1院制にしなければならないはずだ。その手続きをした上で、「我々自民党は2院制を認めないのだから、参議院の決議など無視していい」と主張するのなら、理屈として分からないわけでもない。
 だが、現実に2院制の中で政治を行いながら、一方の院の決議には縛られない、という与党の理屈はどう考えてもおかしい。与党は、衆議院で「内閣信任決議」を可決する前に、まず「参議院不要法案」を提案、可決させなければならなかったのだ。そしてすぐさま、1院制にするための憲法改定手続きに入らなければならなかったはずだ。そうでなければ、与党の言い分は筋が通らない。

 確かに、憲法上は「問責決議」に法的拘束力はない。だが、この決議は今度は逆に、野党を縛る。
 「福田首相は、首相としての適格性がない。ゆえに早期に衆院解散か内閣総辞職して、新たに民意を問うべきだ」というのが、今回の決議である。野党はそんな適格性を欠いた首相のもとでは、国会審議に応じることはできないことになる。この決議の性格上、それが当然である。問責決議で首相にノーを突きつけた野党は、福田首相の下では一切の国会審議を拒否しなければ、一貫性に欠けることとなる。絶対に、この首相が出席する場での審議に応じてはならない。当然の帰結だ。
 それを押し通せばいいと思う。

 もし審議拒否に踏み切ったなら、メディアからは、凄まじい批判が巻き起こるだろう。しかし、それも覚悟の上で出した決議案だったはずだ。
 今国会は、もうじき閉会する。サミット後の次期国会で、野党がノコノコと国会に福田首相とともに登場するようなことがあれば、野党自らが、2院制を否定することになる。
 福田首相と与党が「法的拘束力なし」を盾に、政権に居座り続けるなら、野党は徹底的に審議拒否を続けるしかない。それが、険しいけれど、野党が選んだ道なのだ。
 任期が6年と定められている参院はさておき、野党の衆院議員たちは、全員が辞表を衆院議長に提出すべきではないか。そうすれば、さすがの与党も福田首相も、野党なき衆院で自分たちの思うがままの議会運営などできるはずもない。そんな決意もなしに、野党側が「問責決議」を行ったのだとしたら、それはパフォーマンスと批判されても仕方ない。
 早く民意を問うべきだ。衆院解散総選挙を、一刻も早く行うべきだ。それが、政治空白を防ぐ唯一の道ではないか。

 考えてみれば、今の衆院の与党3分の2体制は、あの小泉元首相の「郵政解散」の残骸である。年金問題も後期高齢者医療制度もテロ特措法もガソリン暫定税率も道路特定財源も、すべてがあの“小泉改革”の無残なツケだ。
 そろそろ、後始末をしなければならない時期に来ている。

6月13日(金)晴れ

退場の花道にする五輪かな

 このところ、東京都内の公共施設を訪れると、どこにも同じような「2016年オリンピックを東京に」などというポスターや幟旗が飾られている。石原慎太郎都知事が執着するオリンピック招致のためのキャンペーンだろう。
 しかし、どうも違和感がある。
 私は東京でのオリンピック開催には、賛成はできない。もっと先にやるべきことがあると思うからだ。  

 中国の四川省大地震は、時間が経つにつれて、その規模の膨大さが明らかになってきつつある。中国政府の発表(6月11日)では、少なくとも死者約7万人、行方不明者は1万8千人にのぼり、被災者数は1千万人を超えるとのことだ。
 これは決して他山の石ではない。私たちの国に、同じような危機が訪れようとしているのは、政府自体が認めていることだ。
 例えば、政府の中央防災会議は、2005年に「関東直下型大地震がいつ起きてもおかしくない状況にある」とし、それが発生した場合は、「死者1万3千人、負傷者17万人、被災者総数700万人、経済被害は112兆円にも及ぶだろう」という予測値を発表している。しかし、これには発表当時から「予測値が低すぎる。死者は数十万人に及ぶはず」という反論も多かった。
 とくに、地震対策が遅れている東京の下町地区での被害は甚大なものになるだろうと言われている。しかも、この大地震がこれからの30年間のうちに起きる確率は80%を超えている、という。この地震対策に目もくらむような膨大な金がかかることは、容易に想像できる。
 こんな状態にある東京で、なぜいまオリンピックなのか。数千億円もの費用を投じて、人命よりも先にお祭をやろうというのか。

 さらに、東京・築地市場の移転問題もある。 石原知事は、築地は狭いし老朽化しているので早急な移転が必要とし、その移転先に豊洲の旧東京ガス工場跡地(1956年から30年間操業)を選んだ。そして、築地にオリンピック関連施設を造ろうとしている。ところが、移転先の豊洲がなんともひどい汚染地帯だったことが判明した。
 ベンゼンが環境基準値の1500倍、水素イオン濃度(PH)に至っては同1万倍の汚染が検出された。こんなところに、都民の台所と言われる巨大な市場を、移転させるというのだ。豊洲の汚染除去には、土壌の徹底的な入れ替えが必要であり、それにかかる費用は現在の試算では約1300億円(東京都は当初、約670億円と発表していた。ここにも何らかの作為が?)にものぼるという。
 この分では、実際の汚染除去工事に取り掛かれば、東京都は「実は当初の見込みより、もっと費用がかかりました」と言い訳しながら、都民の税金をもっとつぎ込むだろう。官僚や企業と結託した政治家がやることは、いつも同じだ。

 1998年の長野冬季オリンピックの際に、オリンピック招致のために使われた費用に、約9千万円もの使途不明金があったことは有名な話だ。それに対して、長野県は住民から訴訟まで起こされていた。オリンピック開催費ではなく、招致費でこれなのだ。
 東京都も2009年10月の正式開催地決定まで、これから激しい招致活動を繰り広げていくことになる。有名タレントやスポーツ選手が、招致委員などという名目で、やたら世界を飛び回るだろう。数十億円(百億円超との試算も)と言われるその費用を、誰が負担するのか。まぎれもなく都民の税金だ。

 もっと、大切なことにお金を使うべきではないか。これが、私が感じる違和感の正体である。そう感じるのは、どうも私だけでなないらしい。都民(国民)の決して少なくない人たちも、同じ感想を持っているようだ。事実、最終候補地の中で、オリンピック招致にもっとも消極的な世論を示したのが東京だった。
 開催に賛成なのは、マドリード88%、シカゴ79%、リオデジャネイロ78%。そして我が東京は59%(国際オリンピック委員会=IOC調べ)。その差は歴然としている。
 いま、そんなことに膨大な金を使っていていいのだろうか、と多  くの都民が思っているということだろう。その疑問は、とても真っ当だと、私は思う。
 石原都知事は記者会見でそこを問われると、例によって尊大に言い放った。
 「君らのせいだ。君らマスコミが批判ばっかりするからだ」
 気に入らないことや失敗は、すべて他人のせい。正しいのは自分。いつもの石原節である。
 任期最後の大花火、オリンピック招致成功を、自身の退場の花道にしたいのだろう。個人的名誉欲のために…。

6月14日(土)晴れ

大地揺れいずれ首都への胸騒ぎ

 どうにも妙な気分です。予感、みたいなものだったか。
 私は昨日、この日記に、オリンピックよりも地震対策が先じゃないか、という趣旨のことを書いた。先週(6月6日)の日記でも、なぜか東京のビルが大地震で崩れる幻影について書いている。
 そこへ、東北で大地震。

 私の故郷は秋田県南部です。実家には、年老いた母と姉が住んでいます。また、弟は仙台在住。どちらも、震度5と報道されました。さらに、コラム「やまねこムラ」でおなじみの村長さんの家は、震源地に近いところ。
 すぐに電話をかけましたが、どこも例によって「この地域の電話は現在、大変かかりにくくなっております」のコールだけ。でも、電話をかけ続けて1時間後ぐらいに、やっとみんなと連絡が取れました。私の関係者たちは、みんな無事でした。ホッ。
 しかし、被害にあわれた方たちには、なんと言っていいか分かりません。

 ここで、昨日の論旨を繰り返しておきたい。
 M7.2という今回クラスの大地震が首都圏(や名古屋、大阪圏)を襲ったときの衝撃を、もっと真剣に考えるべきです。
 東北で起きたことが、人口密集地域でももうじき起きようとしているのです(これも昨日の繰り返しだが、M7以上の大地震が大都市圏で起きる可能性は、これからの30年間では80%に達するという)。
 オリンピックで数千億円を使う余裕なんかないはずだ。そんな金があったら、まず地震対策につぎ込むべきではないか。自然が、しきりにそう訴えているような気がして仕方ない。

 私は、東京オリンピック開催に、いま、はっきりと反対します。

6月16日(月) 曇りのち晴れ

核被害地震とともに近づいて

 久しぶりに芝居を観てきました。井上ひさしさんの『父と暮らせば』(こまつ座公演)です。
 これは、広島の原爆被災者の娘とその父の、ふたりだけの芝居。
 娘は、もっと生きるべきだった人たちが、私より早く死んでしまった。その人たちに申し訳ない。だから私には、人を愛する資格はない。恋などしてはいけないのだ、と繰り返します。そして、原爆症という不安を抱える身では、結婚などしてはならないと、言うのです。
 父は、そんなことはない。死んだ人たちのためにも、お前は幸せにならなければならない、と諭し、娘の切ない恋を応援します。
 核兵器の悲惨さが、じわじわと観客の心にしみこんできます。もう何度も再演されている名作(映画にもなりました)ですが、観るたびに胸が揺さぶられます。
 核というものの持つ凶悪な威力、それに抗う人間の弱さ…。

 一度、核が爆発したら、その被害は気の遠くなるほどの時間にわたって続く。現在もなお、ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちの闘いは終わっていない。国家が認めようとしない被爆被害を争って、裁判を続けなければならなかったのが現状なのだ。国は、何度裁判で負けても控訴し続けた。
 原爆症認定集団訴訟で、ようやく仙台高裁(5月28日)、大阪高裁(同30日)での国側敗訴の判決が出て、国は上告を断念、判決が確定した。しかし、原爆症の新認定基準を国はまだ認めていない。原爆症(後遺症)に苦しむ被災者たちを、なんとか少なく見積もりたいのが、政府厚労省の本音なのだ。

 何度も書くけれど、大地震が近い。
 今回の岩手宮城内陸地震において、経産省(原子力安全保安院)は当初「東北地方の原子力発電所の被害はまったくない」と発表した。けれど、その後、「福島第2原発4号機の使用済み燃料貯蔵プールなど2ヵ所で放射能を含む水19リットルが漏れ出していた」と訂正したのだ。
 このところ、福島原発では、震度5弱の地震で第1原発内で放射能汚染水25リットルが漏れたり(5月8日)、冷却水配管の不具合で緊急停止に追い込まれたりしている(5月25日)。地震に対して万全だとは、とても言えまい。
 それは、中越沖地震(07年7月16日)による柏崎刈羽原発の惨状を考えればよく分かるはずだ。活断層の存在の有無さえろくに判断できない電力会社や経産省に、このまま原発の運転をさせ続けていいのだろうか。
 原子力発電是か非かという議論を、ここでするつもりはない。しかし、大地震による被災が原発に及べば、それは壊滅的打撃を日本列島にもたらすことは間違いない。その兆候は、もう何度も現れているではないか。
 福島原発や柏崎刈羽原発は、東京電力が首都東京への電力供給のために建設したものだ。したがって東京には、これらの原発の安全性を絶対的(!)なものにする責任がある。そのためには、膨大な金がかかる。

 しつこいと言われるかもしれないが、繰り返す。
 東京に、オリンピックなどに注ぎ込む予算があるならば、その金を使わなければならないところは、他にたくさんあるはずだ。

(鈴木 耕)

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