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沖縄の米軍基地問題が揺れている。特に、宜野湾市の普天間基地をめぐっては、政府の方針が二転三転。それに乗じて「返還論」「移設論」「現状維持論」などが乱れ飛び、政治家、評論家、ジャーナリスト、学者、さらにはゼネコンなどの利害関係者も乱入して、よく言えば百家争鳴、だがその実状は支離滅裂、混沌混迷の極み。しかも東京の大手メディアが流すのは、「アメリカは怒っている」「合意を守らなければ日米同盟は崩壊する」と、なぜかアメリカ側にとって都合のいい報道ばかり。ほとんどアメリカ広報紙(局)に堕している。
普天間基地「移設論」については、沖縄県名護市の辺野古案、キャンプ・シュワブ内の陸上案、さらにはうるま市のホワイトビーチ沖合い埋め立てという案まで飛び出した。何度も消えては現れる“ゾンビ案”である。それに長崎や佐賀、鹿児島の徳之島などの案も加わって、ほとんど収拾不能の状態。本土で得られる情報はさまざまだが、それぞれの裏に何らかの意図が隠されているような気配が感じられて、どうにももどかしい。本当のところが分からない。ならば、現地で生の声を聞くしかない。私はそう思った。
よく言われることだが、本土と沖縄の温度差というものはどれほどのものなのか。政治の場で発せられる言葉に翻弄され続けてきた沖縄の本音を聞きたい。私たちが東京で接する沖縄情報は事実なのか、現地ではどう受け取られているのか。
ほんの数日の取材で地元の本音など聞けるものか、という批判は承知の上で沖縄へ行くことにした。
まず普天間基地の地元・宜野湾市に向かった。伊波洋一宜野湾市長に話を聞くためだ。1時間の約束だったが、伊波市長は30分以上も時間をオーバーして語ってくれた。
最初にはっきりさせておきたいのは、普天間基地は「返還」であって、決して「移設」ではないということです。
アメリカはすでに、グアムへ沖縄の海兵隊部隊を移すことを決定しています。最初は司令部だけをグアムに移す、という話だったんですが、「統合軍事開発計画」という正式な米側文書によれば、8000名の海兵隊部隊とその家族9000名を沖縄から移すということになっています。沖縄の海兵隊の家族が9000名を超えた年は、1972年に日本に復帰してから今年までにたった3年間しかなかったんです。そのほとんどを今度はグアムへ移そうとしています。もう常駐部隊は沖縄には必要ではなくなった、というのが米側の認識でしょう。
1995年に米兵による少女暴行事件があり、それに対して沖縄県民が激高し、復帰運動以来の大県民集会につながりました。そこで、沖縄の怒りを少しでも鎮めようと、世界で最も危険な軍事基地と言われる普天間基地の返還が決まった。しかし、その代わりの場所が必要ということで、名護市の辺野古案というものが出てきた。それが経緯です。
ところが、米側の計画をよく調べてみれば、普天間の部隊はグアム移転が決まっている。そうなれば、普天間の「代替基地」というのは必要なくなる。当然、辺野古に新しい基地を造る必要はありません。
普天間には今、ほぼ2000名の海兵隊員と36機のヘリがいます。グアムに行く航空部隊も基本的には2000名ぐらいだとされています。つまり、普天間の航空部隊はそっくりグアムに移る予定なのでしょう。実際、グアムのアンダーセン基地には、普天間に配備予定と言われていた垂直離着陸航空機MV-22オスプレイ用の格納庫まで建設され始めているんです。それを考えても、普天間の海兵隊部隊がグアムへ移ることは、米軍再編の流れの中にあることが分かるはずです。
繰り返しますが、普天間基地の海兵隊はグアムへ行くんですよ。普天間は必要なくなります。それなのになぜ代替基地を造らなければならないのか。辺野古でも、キャンプ・シュワブ陸上でも、ホワイトビーチ沖合いでも、そんなものは要らないんです。必要なくなるものの代わりの基地を、なぜまたしても沖縄が背負わなければならないのか。僕にはまったくその理由が分かりませんね。
グアム移転については、米側の資料はたくさんあります。グアムの計画を作成しているのがグアム統合計画室というのですが、そこのホームページにも「グアムへ沖縄から海兵隊を移すのは、西太平洋における安全保障環境を高めるために必要な措置」とはっきり書かれているし、米側が出した環境影響評価書にも、「地球規模の米軍基地見直しを図り、順次海外基地をなくしていく」とも書かれています。普天間基地返還はその一環なのですよ。
沖縄に新しい基地を建設することになっても、アメリカは1円も出しません。米側の資料には「グアムには移るけれど、日本から財政的支援を受けながら沖縄での長期駐留用基地を保障されるという、最良の環境を日米間の交渉でうまく作り上げることができた」というようなことまで書かれています。日本丸抱えで新基地を建設してもらえる。その上に財政支援まで約束される。アメリカにとって、こんなおいしいことはないでしょう。アメリカが日米合意にこだわるのは当然です。
しかし、代替基地が本当に必要なのか。実はアメリカでは、昔は空軍も海軍も海兵隊も、みんなそれぞれ独自の飛行場を持っていた。ところがもうそんな時代ではなくなって、全部統合されたのです。グアムのアンダーセン基地はかつて空軍基地だったけれど、現在は海軍の管理下に置かれて、海軍、空軍、海兵隊の合同基地になっています。それがいまや米軍にとっては当たり前の話です。だから、海兵隊独自の基地が必要かどうか、アメリカ自体が答えを出しているわけです。
でも、日本の中には(民主党の中にもいるんですが)、海兵隊をとにかく日本に置いておきたい、そして置ける場所は沖縄しかない、そう言って譲らない人たちがいます。それは、海兵隊がいないと日本の安全が守れないという政治家たちの思い込みなのです。でもそれは、まったく間違っていますよ。
普天間返還が日米で合意されてから、もう14年です。自民党が辺野古案を進め、それに対し大田(昌秀)元知事は強硬に反対しました。その後、知事が交代して賛成に回り、名護市長にも賛成派が当選して、辺野古の計画が進むかと思われたんですが、それでもできなかった。それは沖縄県民が一貫して反対しているからです。
どんなにお金をばら撒いても、結果的には進まなかった。お金を貰った人や自治体はあったけれど、それでも基地は造られなかった。民主党は、そこのところを見誤ったらいけない。いくら日米両政府が強引に推し進めようとしても、地元の人たちが頑強に抵抗したら、それは不可能なのですから。
伊波市長は英語の達人でもある。だから、自身で米側の資料を漁り中身を検証する。米軍や米政府のホームページも関係箇所を閲覧しながら、日本政府や防衛省、外務省ですら気づかない情報を入手するのだ。
私たちの前に赤いマーカーでチェックされた英文のコピー書類を広げながら、伊波市長は語り続けた。資料に裏付けられた言葉は、重い説得力を持つ。なぜこれらの言葉が、政府首脳に届かないのか。
普天間基地による具体的な住民被害について伺うために、宜野湾市基地政策部にお邪魔した。
基地被害についての市民からの苦情や相談は、ものすごく多いですよ。24時間の専用電話を設置していますが、深夜でもたくさんかかってきます。協定上は、夜間(午後10時から午前6時まで)は飛行禁止になっているんですが、夜の11時ころまではぼんぼん飛んでいます。真夜中の1時2時なんてことも珍しくない。事前の通告もない。もう、やりたい放題ですよ。
岩国の海兵隊基地からホーネットが飛来することが頻繁にあるんですが、この騒音レベルは嘉手納より大きい。嘉手納のジェット機による騒音数値異常は106デシベルくらいですが、このホーネットは120とか123レベル。もう耳がつん裂けそうで、手で覆わないと我慢できない。あれは物理的暴力ですよ。
※こちらの市役所のホームページから「普天間飛行場騒音被害映像」が見られます。
6年前に沖縄国際大学へのヘリコプター墜落事故がありましたね。あれ以来、墜落の恐怖の訴えが増えました。
「寝ているときに墜落事故があったらどこへ逃げればいいのか。それを考えると眠れなくなる。だからパジャマではなく、普通の服のまま寝ている」とか「携帯を握っていないと眠れない」などの声がある。
不眠の訴えも多いですね。最も深刻なのは、乳幼児を持つお母さんたちからの訴えです。赤ちゃんが爆音に飛び起き、脅えて泣く。精神的不安定状態に陥る。そういうのを聞くと本当に胸が痛いですよ。
かつて宮森小学校ジェット機墜落事故※がありましたが、その恐怖が甦ったんですね。
※宮森小学校ジェット機墜落事故
1959年6月30日、石川市(=現うるま市)の宮森小学校に米軍のF100Dジェット機が墜落、死者17名重軽傷者210名を出した大事故。
僕がとても怒っているのは、そういう基地被害の実態をどんなに訴えても、防衛省がまったく検証してくれないことです。「日米で飛行訓練規制には合意しているのだから違反はないはず」の一点張り。先日も防衛省の職員がこちらに来ていたから、どうか検証してくれ、と言ったんです。でも、「米軍の言うとおりだから」と言うだけで自分たちは何もしようとしない。
「ふざけるな!」と僕は怒ったんですけどね。それで「騒音防止協定の合意はできている」なんてマスコミには発表する。それをそのまま本土のマスコミは報道する。だから本土の人たちは「協定が結ばれているのだから、そんなひどい被害はないだろう」と思ってしまう。これ、犯罪的だと思いませんか? 市長と一緒に外務省へ行って「住宅密集地の上をこんなに飛び回っている」と説明しても「協定があるじゃないか」というのが外務省の答えです。
現地の状況をきちんと把握しないで、普天間の代替地を辺野古へとかキャンプ・シュワブへとか言うのを聞いていると、本当に腹立たしい。普天間返還と新基地建設をわざと混同させている。普天間は「返還」なんですよ。よそへ移設するというのは、論理のすり替えです。
僕は団塊の世代、もうすぐ定年です。沖縄の祖国復帰運動もやったし労働運動にも参加した。そして今はこうして普天間返還と、その後の跡地開発事業計画に携わっています。返還を実現させて基地の跡地利用の特別立法を作り、それで僕は卒業です。そういう意味では、僕の半生は戦後の沖縄の歩みそのものでした。悔いのない人生だったといえますね。
山内さんの話に出てきた沖縄国際大学への米軍ヘリコプター墜落事故は、2004年8月13日のことである。市街地の真ん中にある基地の恐怖を、あらためて人々に知らせる事故であった。
普天間基地に隣接する沖国大へ向かった。キャンパスは春休みに入っていて人影もまばらだったが、フリーペーパーの編集をしているという沖国大生の中村晋一朗くんに案内してもらい、広報課を訪ねた。
米軍ヘリが墜落したのは8月で、ちょうど大学は夏休みでした。だからあれほどの大事故にもかかわらず、死傷者がでなかったんです。運がよかった、としか言えないですけど。当時私は、会計課という部署に所属しており、そのときは、家族旅行中で大学にはおりませんでした。帰ってきてから会計課の部屋へ入ったら、私の机の上にはガラス破片が散乱、出張中だった上司の席では、そばのガラスは割れ、天井が焼け焦げていました。たまたま席にいなかったからよかったようなものの、もし通常の執務中だったら、最低でもガラス破片を浴びて怪我をしていたでしょうし、上司は大火傷を負っていたに違いありません。
怖いですよ。それまでは爆音馴れしていて、うるさいなと思う程度だったんですが、今はヘリの爆音を聞くと身の竦むような恐怖を感じてしまうんです。
事故が起こった直後、墜落現場の本館周辺は騒然としていたそうです。大学と基地とは金網のフェンス1枚で仕切られているだけなんですが、米兵たちはそのフェンスを乗り越えてキャンパス内に殺到、大学の教職員も学生たちもすべて本館周辺から追い出されたんです。自分の大学からですよ。そしてそれから数日間、沖国大は事実上、アメリカ軍によって占領されたんです。地位協定も何もあったもんじゃありません。
事故後、ヘリが激突した本館校舎は建て替えられました。ただ、事故を忘れないために、新本館前には激突した跡が残る壁と焼け焦げた樹木を残して展示し、図書館には資料コーナーを常設してあります。また事故後には、「基地をめぐる法と政治」という公開講座を実施したり、大学講義に普天間基地をテーマにした科目を開設するなどして、基地問題について考え続けています。
それにしても、フェンス1枚で基地と共存しなければならない大学。どう考えても異常です。はやく普天間基地が返還されるように、私たちは全学をあげて訴え続けていきます。
ガラスが割れ、炎が吹き込む 写真提供/沖縄国際大学 | ガラスの破片が飛び散るデスク |
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