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鈴木邦男の愛国問答

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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男さんの連載コラム。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて展開する「愛国問答」。隔週連載です。

すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」

『失敗の愛国心』(理論社)

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88才の読書術

 宣言する。私も88才になったら、同じ題名の本を書こう。『老人読書日記』だ。そして、章立ても同じにする。つまり、同じ本を読んで、その時、自分はどう考えるか。それを書いてみる。「参考文献」も同じにする。画期的な本になるだろう。

 4月13日(火)に『鈴木邦男の読書術』(彩流社)という本を出した。326頁もあるし、値段も1800円と高い。「読書術」は今まで5冊ほど出している。その集大成かもしれない。だって、その5冊の中からいい所を取り出し、さらに最近のものを加え、書き下ろしも大量に加えて作ったのだ。一冊書き下ろすよりも、かえって疲れた。その努力が分かってもらえたら嬉しい。
 本のサブタイトルには<言論派「右」翼の原点>と書かれている。彩流社の編集者が付けてくれたのだ。「右」翼か。面白い。右翼でも「右翼」でもない。ちょっと違う。じゃ、「右」翼としちゃおう。そんな配慮や苦労が感じられた。誉め言葉として受けとった。
 しかし、どう規定し、どう表現したらいいか困るんだろうな、この人は。「右翼」「民族派」と書くと、「どこが右翼だ、こんな奴!」と、当の右翼の人から反撥される。「じゃ、いっそ、『私の左翼宣言』を書きませんか」と、ある出版社に言われた。しかし、そんな確固とした思想的な転向ではない。「左右を超えた!」と、この人は偉そうに言ってるが、本当は、人間が怠惰で、ただ、右翼からずり落ちただけじゃないか。そんな気もする。
 最近、安田浩一さんの『JALの翼が危ない』(金曜日)を読んだ。現在のJALの状況を予告している。金曜日からは、佐高信さんとの対談『左翼・右翼がわかる!』を出したが、今度は『日本の翼が危ない』を出してもらおう。JALの話か、左翼・右翼の話か分からなくて、皆、間違って買うだろう。でも、「左翼・右翼が危ない」と言っても、一般の人には関係がないかもしれない。じゃ、タイトルを変える。
 『日本の翼が危ない。それがどうした!』
 ダメかな。

 『鈴木邦男の読書術』は6冊目の読書術だし、決定版だ。もう読書術について書くことはない。と思っていた。ところが、いや、7冊目を書こう。、と思った。それも同じタイトルで。と刺激を受けたのが、新藤兼人の『老人読書日記』(岩波新書)だ。2000年に、88才の時に書いた本だ。だから今は98才か。凄い。
 でも、ちょっと、タイトルがよくないな。若い人は躊躇する。老人になってから読む本だな、俺達には関係ないや、と思ってしまう。お寺の話や、戒名の話、介護の話、遺言、遺産分けの話。…などが書かれてると思う。そう誤解される。しかし、違う。そんな話は一切ない。文学、政治、思想の話ばかりだ。実に若々しい。人生と闘う書だ。これには驚いた。
 実は、この本は前にも読んだ。二度目だ。でも、全く違う本だった。そう感じた。とすれば、これから22年後、私も88才になったら、同じ本を読み、同じタイトルで書いてみたら面白いのではないか。そう思ったのだ。この本の目次を紹介しよう。

 はじめに
 西田幾多郎からシェイクスピアへ
 ラスコーリニコフ
 荷風の断腸亭日乗
 漱石と子規の「私」
 テネシー・ウィリアムズの「私」
 チェーホフの「私」
 ゲイリー・ギルモアの「私」
 棄民たちの「私」
 あとがき

 実に若いし、瑞々しい。問題意識も新鮮だ。西田やシェイクスピアやドストエフスキー、荷風などは何度も何度も読んだことだろう。そして、88才になって分かったこともあるだろう。もしかしたら、20才や40才で読んだ時の「感想」よりも、88歳の「感想」の方が若く、過激かもしれない。だったら、何冊かの代表的な本を20年単位で読み通し、書いてみて、それを本にしてもいい。うん、これも画期的な本になる。新藤のこの本から、少し引用してみよう。

 <『罪と罰』が『ロシア報知』に連載されるや、モスクワ市民を興奮の渦に巻き込み、なかには殺人現場の描写に圧倒されて病気になった人もいるという騒ぎ。
 わたしはドラマライターらしく考察するとすれば、ドストエフスキーが流刑されなかったらこの小説は生まれなかったのではあるまいか。彼はここで豚扱いにされ、すさまじい人間というか、生きものというか、礼節もプライドも放り捨てた人間を見た。見ると同じに自分もそれになった。人間とは何だ、わたしとは何だ、ということを見せつけられた>

 たしかにこれは言えるだろう。とことん思いつめる。そして極端な結論にも走る。それを作品の中の人物に語らせる。『罪と罰』で、ラスコーリニコフが安料理屋で食事をしていると、隣の席で、大学生と士官が議論をしている。学生は言う。金がないばかりに虚しく失われていく若い、新鮮な力がある。無数にある。その一方に金を貯めこんでいる愚劣で、因業な婆あがいる。学生は言う。
 <君はどう思うかね、一個の細小なる犯罪が、数千の善事でつぐなえないものだろうか? わずか一つの生命のために──数千の生命が腐敗と堕落から救われるんだぜ。一つの死が百の生にかわるんだ、──これは一個簡単な数学問題じゃないか!>

 そうか、数学問題なのか。でも「数学」は冷たい。人間的温かさがない。ここを読んで、日本の戦前の血盟団事件を思った。「一人一殺」と言った。さらに、「一殺多生」と言った。一人の悪徳政治家、財界人を殺すことによって、多くの生命を救えると言った。テロやクーデター、いや、戦争だってそうだ。殺人を肯定し、合理化するものは皆、<数学>だ。<数字>だ。多くの人間を生かす為には、少数の人間に死んでもらう。問題は、「少数」をどこまで「極少」化出来るか。それだけになる。死刑を存置する理屈もそうだ。「数字」が人間を殺している。その「数字の理屈」を独占しているのが国家だ。故に、国家こそが「最大のテロリストだ」。そういう結論になる。国家に比べたら、左右のテロなんてものの数ではない。とまで思う。いや、これも「数字」の魔術にたぶらかされているのだろうか。88才の私は、この問題に一体どういう結論を出すのか。読んでみたい。

 話を変える。荷風は『断腸亭日乗』で、書く。<藝術の制作慾は肉慾と同じきものゝ如し。肉慾老年に及びて薄弱となるに従ひ藝術の慾もまたさめ行くは當然の事ならむ>
 これを読んで、新藤は書く。

 <性は生命の根源だから、性を失ってしまえば植物になるほかはない。荷風はこの後、『勲章』『浮沈』『踊子』『来訪者』『問はずがたり』(いずれも戦後発表)を書くが、もはや峠を越えた感じで『ぼく(さんずいに墨)東綺譚』を越えるものはない>

 エッ! 「植物」なのか、と驚いた。老人になっても、まだ人間だと思っていたのに、「植物」なのか。では、88才の新藤は、どうやってこの本を書く力を得たのだろうか。
 その前に、新藤がチェーホフについて書いた文を紹介する。

 <小説家としての彼の名は次第に人に知られるようになった。
 だが、軽妙作家としての及び腰の自分に対し、本格的作家のドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイ、といった偉大な作家の前では微細な存在だと思っていた。
 「ともかく僕の本妻は医学ですが、愛人もいて、それが文学です。ですが、そのことを僕は云々するつもりはありません。違法に生きる者は違法に滅びる、といいますからね」
 いうなれば、「愛人」の方が、「本妻」を凌ぐ満足を与えていたというわけだ>

 そうか。少しずつ分かってきた。新藤はこの『老人読書日記』を書いた時は88才。それに愛妻・乙羽信子が死んで6年目だ。「はじめに」で書いている。
 <わたしは赤坂の小さなマンションに住んでいる。妻(女優乙羽信子)とともにながく住んできたマンションだ。妻が死んで六年になるが、わたしは独りで住んでいる。食卓もベッドも本棚もそのままだ。思い出がいっぱいつまっているような気もするが、ときには底なしの洞窟ともなる>

 絶望的な孤独だ。まるで「植物」か。あるいは「鉱物」か。それまで、シナリオを書いて、「孤独」という言葉はずいぶん使った。実に安易に。
 <その罰が当ったかのように、いま、わたしは本物の孤独に襲われている。こいつは姿なき怪物だから、たたかいは容易ではない。何をもってたたかうか>

 どうやって生きるか。それが問題だ。いや、生きるだけではない。気力をふりしぼって、本を書くのだ。その力はどこから来るのか。何をもってたたかうのか。それを考えるヒントが本の扉にあった。同じような疑問を持った編集者が書いたのだろう。この本の「紹介」だが、新藤の「秘密」にも迫っている。

 <八十八歳の映画監督の夜にしのびよるすさまじい孤独、ひとときの救いは一冊の本だ。新しい本には秘密の扉を開くときめきがある。古い本もまたいい。そのときどきの自分の生きた時代に出会える。そのむかし、心を揺り動かしたものが、いまどんな姿をしているだろうか。別れた恋人に出会うような気持である。スーパー独居老人の読書三昧>

 そうか、チェーホフの言うように、「愛人」を持っていたのか。でも、こんな「愛人」ならば妻も許してくれるだろう。「別れた恋人」たちに会い、懐かしみ、語り合い、抱擁したのだろう。そう思えば、なんとも艶っぽい読書日記だ。
 さて、私のことだ。22年後、新藤と同じタイトル、同じ章立てで本を書く。私も、スーパー独居老人だ。環境も同じ方がいい。私も、6年前に愛妻を失くしている。じゃ、死んでもらわなくてはならない。淋しい。孤独だ。底なしの孤独だ。底なしの洞窟だ。
 ここで、ハッと気がついた。じゃ、「愛妻」をまず、入手しなくてはならない。それも、底なしの孤独を得るために。そんなことは不可能だ。それに女性の方が長生きだ。じゃ、<文学>のために死んでもらうか。これじゃ、ラスコーリニコフになってしまう。困った。どうしよう。

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88歳の鈴木さんの『老人読書日記』、
果たして実現するのか、否か?
なんてことを思いつつ、
まずは今の鈴木さんの「決定版」読書術を。
マガ9コラムでおなじみ、雨宮処凛さんの話なども登場、の模様です。

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