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雨宮処凛がゆく!

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あまみや・かりん北海道生まれ。愛国パンクバンド「維新赤誠塾」ボーカルなどを経て作家に。自伝『生き地獄天国』(太田出版)のほか、『悪の枢軸を訪ねて』(幻冬舎)、『EXIT』(新潮社)、『すごい生き方』(サンクチュアリ出版)、『バンギャル ア ゴーゴー』(講談社)、『生きさせろ!〜難民化する若者たち〜』(太田出版)など、著書多数。現在は新自由主義の中、生活も職も心も不安定さに晒される人々(プレカリアート)の問題に取り組み、取材、執筆、運動中。非正規雇用を考えるアソシエーション「PAFF」会員、フリーター全般労働組合賛助会員、フリーター問題を考えるNPO「POSSE」会員、心身障害者パフォーマンス集団「こわれ者の祭典」名誉会長、ニート・ひきこもり・不登校のための「小説アカデミー」顧問。雨宮処凛公式サイト

雨宮処凛の闘争ダイアリー
雨宮処凛の「生存革命」日記

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「支援」とは何か。の巻

高円寺のデモ。サウンドトラックには「高円寺ロックンロールショー」

 先週末は高円寺で「ざまあみろデモ」に参加してきた。
 昼間から浴びるように酒を飲み、街頭で大騒ぎするライヴ&デモだ。そしてそんな路上パーティーが私は大好きだ。やっぱりデモの両側には警察がダーッとはりついているのだが、今回は新しく「デモにはりつく人たち」がいた。それは「路上喫煙を取り締まる人たち」。なんだか知らないけど警察並みにたくさんの「取り締まり」の人たちがデモ隊にはりついていて、デモ隊の中に煙草を吸っている人を見つけると「消してね、これあげるから」(なんだか腰が低い態度)といちいち「携帯灰皿」をプレゼントしてくれるのだ。試しに私も吸ってみると、すぐにオジサンがすっとんできて携帯灰皿をプレゼントしてくれた。誰かが煙草を吸う→携帯灰皿をプレゼントする→また同じ人が煙草を吸う→携帯灰皿をプレゼントする、って感じで大量に携帯灰皿をもらっている人もいる。デモ隊に新しくはりつく「路上喫煙監視団」。だから一体なんなんだ?? 政権交代後、実感したこととして「デモ警備がゆるくなった」ということがある。高円寺はもともと警察も楽しんでるが、昨年の「反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉」でそれを初めて実感した。しかし、その代わりのように突如として現れた「路上喫煙監視団」。今後もずっとはりついてくるんだったら相当うっとうしいなーと思ったのだった。このように、サウンドデモの現場はある意味「社会の変化」が凝縮して現れる場所でもある。

プラカードには「提供 杉並警察署」

 さて、そんなデモの数日前、「大分KCIA」にインタビューを試みた。大分KCIAとは、このコーナーで連載した「韓国・徴兵制なんて嫌だ!ある若者の闘い」のキム君の友人である。19歳、男性。徴兵検査済み。「大分KCIA」はハンドルネームだ。次号あたりからまた何度かに分けて連載したいと思っている。
 と、そんなことを人に言うと、「雨宮さんはこれからは韓国の徴兵拒否・忌避の人たちの支援をしていくの?」とよく言われるのだが、そのたびに「うーん・・・」と思う。なぜかというと、私にはあまり人を「支援」するつもりもしているつもりもないからだ。とか言いながら「支援」という言葉が便利なのでつい使ってしまうのだが、そのたびに、自分が「支援」と言うなんておこがましいというか、座りの悪さを感じてしまう。少なくとも韓国の徴兵制問題に関しては、「徴兵制」自体がどうこうというよりも、メーデーの飲み会で出会ったキム君が「徴兵に行きたくない」「バンドがやりたい」と悩んでる様子だったから、というだけの動機なのだ。もちろん、そこからいろいろな問題に広がっていくんだけど、最初はただ「会っちゃったから」というだけの理由である。

 貧困問題、プレカリアート問題に関してもそうだ。たまたま周りで困ってる人が結構いた、とか、みんな貧乏でいろいろ大変とか。なんだか大きな社会問題に取り組んでいるように思われるのだが、結局私の視界はずーっと半径5メートルくらいで変わっていない気がするのだ。

 そんなふうに「支援」ということについて考えていて、私の「支援デビュー」を思い出した。当時は「支援」だともなんとも思っていなくて「友達が困ってるから」というだけの理由でいろいろやってたのだが、今思うとあれはなかなかあり得ない支援活動でないかと思うのだ。それは私が物書きデビューする前後、20代なかばの頃の話である。
 誰の「支援」にかかわっていたのかというと、北朝鮮のよど号グループの子どもたちである。団塊世代のよど号グループの子どもたちは私と同世代。23歳で初めての海外旅行で北朝鮮に行き、出会ったのだが、私よりちょっと年下の女の子たちとはすぐに仲良くなり、以後、「友人に会いに行く」感覚で北朝鮮に通うようになった。北朝鮮で生まれ育った彼女たちは向こうでは外国人なので就職なんかもできないということで、日本に「帰国」したがっていた。だけど外務省が一時渡航書をなかなか出してくれず、どうなるかわからない状態が続いていたのだ。で、「不安だから会いに来てほしい」と言われ、のこのこ北朝鮮に通っていたのである。01年頃には無事渡航書が発行されることになり、日本に初めての「帰国」。その時はピョンヤンまで迎えに行って一緒に帰ってきた。で、帰国してからはしばらく私の家に滞在していたりしてたのだ。

 当時、そんなことを人に話すと「すごい支援活動をしてる」と言われたりしたのだが、それには違和感を感じた。いや、支援とかじゃなくて友達なんですけど・・・という感じだったのだ。しかし、「北朝鮮のよど号グループの子どもの支援をしている」ということで、バッシングを受けることもあった。当時の私は今の百倍くらい頭が悪かったので、そういう批判があることをまったく予想もしていなかった。私としては「ただ友人が困ってるから」というだけの動機だったのに、なんだかいろんな人がいろんなことを言ってくる。「友達が困ってるから」だけじゃ通用しないことが世の中にはあるのだ、と痛感したのだった。その上、警察からはガサ入れまで入った。

 彼女たちと接していて、「親がハイジャック犯」の上「国際指名手配犯」だと子どもはいろいろ大変なのだ、と痛感した。その上北朝鮮生まれの北朝鮮育ちでは日本で生活していくのも大変だ。よど号グループの子ども、ということで差別もある。だけど、子どもは何も悪くない。しかし、そんなことさえも通用しない空気をあの頃、ひしひしと感じた。結局、私の「支援」はとても中途半端な形で終わってしまった。

 と、ここまで書いて「支援」という言葉への違和感の正体がわかった。「支援」は「する人」と「される人」という役割分担があるからだ。なんか、そういう関係は嫌だし、違う。例えばよど号グループの子どもたちは私の家にいる時はすごい「家事」をしてくれたから物書きになりたてだった私は非常に助かってたし、最近のことで言えば、キム君は韓国社会のことを教えてくれるから勉強になる。また、ネットカフェからSOSをくれたA君は現在、生活保護の問題点などについていろいろ教えてくれるエキスパートとして私がとてもお世話になっている。

 と、そんなふうに「する人」と「される人」じゃない感じの「たすけあい」って、実はみんな普通に実践してるよなー、と今さらながら思ったのだった。

路上ライヴで盛り上がる

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近くにいる人、自分の知っている人を、
助けたい、支えたいと思う。
なんだかオオゴトにも聞こえる「支援」は、
きっと誰にでも経験のある、
そんな思いから始まるのです。

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