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あまみや・かりん北海道生まれ。愛国パンクバンド「維新赤誠塾」ボーカルなどを経て作家に。自伝『生き地獄天国』(太田出版)のほか、『悪の枢軸を訪ねて』(幻冬舎)、『EXIT』(新潮社)、『すごい生き方』(サンクチュアリ出版)、『バンギャル ア ゴーゴー』(講談社)、『生きさせろ!〜難民化する若者たち〜』(太田出版)など、著書多数。現在は新自由主義の中、生活も職も心も不安定さに晒される人々(プレカリアート)の問題に取り組み、取材、執筆、運動中。非正規雇用を考えるアソシエーション「PAFF」会員、フリーター全般労働組合賛助会員、フリーター問題を考えるNPO「POSSE」会員、心身障害者パフォーマンス集団「こわれ者の祭典」名誉会長、ニート・ひきこもり・不登校のための「小説アカデミー」顧問。雨宮処凛公式サイト
この間、NHKクローズアップ現代の「“助けて”と言えない〜共鳴する30代〜」を見た。
10月に放送された「“助けて”と言えない いま30代に何が」の第2弾だ。第1弾はちょっとしか見ていないが、昨年北九州市で餓死したと見られる39歳の男性の件に触れていた。そして今回、「こうなったのは全部自分が悪い」と言い切る32歳の路上生活者の男性にスポットがあてられた。
「助けて」と言えない30代。
何か、同じ30代としてものすごく身につまされる。私自身、もし仕事も住む場所も失ったとしたら、誰かに「助けて」とSOSを発信できるだろうか、という思いがあるからだ。なんだかこれまで書いてきたことと矛盾するようだが、その一言を発するハードルは、私にとってもものすごく高い。
現在、30代の失業者は80万人近くにのぼるという。その事実を裏付けるように、公設派遣村にも30代らしき人の姿は多く見られたし、30代のホームレスは既に珍しい話ではない。そんな人たちと多く会ってきたが、ほとんどの人から私は「社会への怒り」的な言葉を聞いたことがない。みんながみんな、「自分が悪い」「こうなったのは自分の努力が足りなかったからだ」と口を揃える。30代の心に強固に埋め込まれている「自己責任」という思い。これに関して、いろいろと考えた。
現在34歳の私の心にも、プレカリアート運動・反貧困運動にかかわるまで、この言葉は強烈に埋め込まれていた。私の場合は特に強固だったと思う。それは自分の経歴にもよるだろう。北海道の高校を出て上京、フリーターを経て25歳でもの書きとして生計を立て始めたという経歴だ。よく貧乏人から這い上がってちょっとした会社の社長なんかになったオジサンとかに限ってタチの悪い自己責任論をふりかざすものだが、運動にかかわるまで、私の場合もそれに近いメンタリティを持っていたと思う。もちろん、人に対して自己責任論をふりかざすなんてことはしなかったが、心の中でひっそりとそんな思いを抱えていた。
一体、私の中に刻みつけられていたあの「自己責任論」はどこから来たのだろう・・・。そう思っていろいろ考え、突き当たったのは「教育」だ。私が小学生から高校までの間、世の中は景気が良かった。特に高校時代なんてバブルだ。今と一番違うのは「頑張れば頑張っただけ報われる社会」であることを誰もが当たり前に信じていた時代であったことだろう。頑張った人が報われる社会は、別にいい。だけどそれがあまりにも信じ込まれてしまうと、「結果が出ていない人」「報われていない人」は「頑張っていない人」ということになってしまう。今でこそ、頑張るには様々な「頑張れるだけの前提」が必要なのだと理解され始めてはいるが、当時は違った。日本は平等で自由で身分制度のようなものもないのだから、本人の努力次第ではどんなことだってできるしどんな夢だって本気で頑張れば叶えられる。そうできないのは本人の努力不足以外の何者でもない。だからとにかく頑張れ。
振り返れば、私は小学校から高校まで、ずーっとそんなことを言われてきた気がする。学校だけじゃない。家でもそうだし、世の中の空気全体からもそんなメッセージを感じ取っていた。報われていない人すべてを、社会的な背景などまったく考慮せずに「努力不足」と断じる考え方。いわば、ずーっと「励まし」みたいな形で「究極の自己責任論」を吹き込まれてきたのである。そうして気がつけば、それが自分の考えのような気になっていた。
そんな空気の中で育った30代が社会に出る頃にはバブルが崩壊。長い長い就職氷河期が始まり、世の中は「いくら頑張っても報われない人が一定数生み出される社会」になっていた。しかし、そんな時代の変化に気づいても、完全に内面化されている「自己責任論」はどうしたって拭い去れない。だからこそ、彼らは今も「自分が悪い」と言い続けているのではないだろうか。
こういう話をすると、「どうして怒らないのか」という意見を必ず耳にする。最近も、同じ番組を見たというバブル世代の自称ワープア男性にそう言われた。給料も安くてすぐに使い捨てにされてホームレスになってしまうような状況だったら自分は世の中に対して怒りまくるのに、と。だけど、私が「自分が悪い」と同じくらいに聞いてきた言葉が「社会のせいにしたくない」だった。「社会のせい」にしてしまった途端に、自分が「格差社会の犠牲者」「弱者」になってしまう。だから嫌なのだ、社会のせいにしないのが最後の最後のプライドなのだ、と正直に話してくれた人もいる。そしてもうひとつ、バブル世代の彼が「怒れる」のは、「マトモに扱われた」という経験があるからではないだろうか。今はワープアだとしても、その男性は仕事において非常に「いい目」を見た経験がある。それは「やりがい」もそうだし収入においても。一度そういう経験があれば、ものすごい安いお金で仕事を押し付けられたりした時に怒ることができるだろう。しかし、私は「一度も仕事においてマトモに扱われたことがない」人に多く会ってきた。最初から使い捨て前提の不安定雇用をずーっと繰り返してきた人たちだ。そんな生活を10年以上続けてきた30代の人たちは、「この仕事はおかしい」と感じる「マトモな比較対象」すらない。経験として、知らない。知らなければ、怒れない。こんなものだという諦めしかない。
30代に限らず、「どうしてこんな状況に怒らないのか」という声を今まで多く、聞いてきた。上の世代の人たちからだ。だけど、そのたびに少しの違和感も感じてきた。仕事とかに限らず、人が「怒る」には、「自分はこんな不当な目に遭っていい人間ではない」という自己肯定感が不可欠だ。だけど、「自分はこんな目に遭って仕方ないダメ人間なのだ」と思っていたらどうだろう。そこに怒りは生まれない。そして現在、多くの人は、そんな最低限の自分への肯定感さえ奪われているように感じる。だから、多くの人は怒らないし、諦めているし、じっとただ我慢している。自分への肯定感がなければ、もちろん助けを求めることもできない。こんな自分が助けを求めたら「迷惑」なのでは、という思いが先に立ってしまう。
「怒る」にも「助けを求める」にも、ある程度の「溜め」が必要で、だからこそ「なんで怒らないのだ」という前に、「あなたはそんな目にあっていい人間ではない」というメッセージを送ることこそが必要なのだと思う。
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追いつめられても「助けて」とさえ言えずに、
「自分のせい」だと抱え込んでしまう人たちの多さ。
その一方での「甘えている」というバッシング。
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