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文化大革命の時代、19世紀のフランス文学によって目覚めた
農村の娘と青年たちの行く末は?
第7回は、フランス在住の中国人監督による
自伝的小説『小さな中国のお針子』
(2002・フランス 監督 ダイ・シージエ)です。
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藤岡啓介(ふじおか けいすけ)翻訳家。1934年生まれ
長年、雑誌・書籍・辞書の翻訳、編集者として活躍中。 著書に『翻訳は文化である』(丸善ライブラリー)、
訳書に『ボスのスケッチ短編小説篇 上下』ディケンズ著(岩波文庫)など多数。 |
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ビデオ&DVD、レンタル・発売中 |
発売元: |
アルバトロス/パンド |
税込価格: |
DVD 4,935円 |
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VHS 16,800円 |
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表紙に印刷されたフローベールの肖像画をみて、髭があるからスターリンか、頭が禿げているからレーニンかと、田舎の農夫たちが一冊の本を見てわいわいやっている。こりゃ痛烈な皮肉だな、と映画を見ながら思わず喝采してしまった。
1966年に始まった中国の文化大革命の最中に、中国共産党が都市のインテリどもを鍛え直そうと農村に送り込んだ。それもひどい山奥に。一人はバイオリンを弾く音楽家の卵で、もう一人は歯科医の息子で文学好き。文字の読めない人たちの暮らす村で、近代的な唯一の機械であるミシンをもって、村々を歩いては服を仕立てている老人とその孫娘が、この二人のインテリ青年の前に現れる。物語はこれだ。背景は山水画のような深山幽谷。語られるのは『モンテ・クリスト伯』、スタンダールやトルストイ。
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この映画を見直したのには理由があった。一つは翻訳家のこと。孫娘がバイオリン青年の子を身ごもり、文学青年がそれを助けようと街に出で医者にあったときのこと。医者を説得するため西洋小説を提供することになる。このとき医者が、訳文を読みながらこれはフーレイ*の翻訳だ、文章で分かる、と感激する。日本の翻訳文化についてはいくらか理解はしているが、中国の外国文学翻訳にはなんの知識ももっていなかったので、ひどくこれが堪えた。そうか、山奥で米川正夫訳のドストエフスキーを見せられたのと同じだな、明け方まで『罪と罰』を寝床の中で反転しながら読んでいたあの興奮を、中国の青年たちも味わっていたんだ――これは発見だった。安心もした。
町に映画が巡ってくる。都市青年が選ばれて映画を見にいき、それを村人たちに語っている。この場面も印象的だし、老人にモンテ・クリスト伯を読んでいて、「革命的」な村長に咎められたとき、“(本の主人公の)エドモン・ダンテスは革命的下層階級の船乗りだ”、といって煙に巻こうとする。こうしたエピソードに痛烈な体制批判がこめられていて面白い(現在の中国でこの映画はまだ上演されていないという)。そうした中で、孫娘は文字が読めるようになり、文学青年の子供を孕むだけでない、バルザックを読んでいるうちに、女性の美しさ、自由、恋の概念を「孕む」ようになり、やがて独りで村を去って都会に出て行く。おや、バルザックの小説の何を読んでのことか? フローベールの『ボヴァリー夫人』じゃなかったのかな――これも見直した理由だった。
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原題は戴思傑(ダイ・シージエ)がつくった“Balzac
et La Petite Tailleuse Chinoise”でフランス映画だ。正確に訳せば『バルザックと中国の可愛いお針子』だろう。petiteは「可愛い」としないで「チビちゃん」のニュアンスが出ればいいのだが。いずれにせよ、間違いなくバルザックを読んで孫娘が自己に目覚める話。話が古いが、われらが日本でも山村工作隊とかいって、学生たちを農村に送り込み農村の革命化を夢想した政党があった。文革とは違って、農民を階級意識に目覚めさせようということだったが、心身ともにぼろぼろになった学生が、学園に戻ったはいいが自殺してしまった。政策の無謀、学生の未熟が今なお悲しく思い出される。彼ら、バルザックを読んでいたのかな。
バルザックはほとんど読んでいるけど、この映画で、はて何を読んでいたのか、『モデスト・ミニョン』だったのか。これが未だに分からないでいる。ま、いいや。19世紀の文学はけっして古くはない、ぼくらはこれから19世紀を迎えるのだ、といってもいい。もう一度出直しだ、魂の鍛え直しだ。
(*フーレイ:傳雷、バルザックやロマン・ロランの翻訳で名高い。文革の犠牲者。息子さんの傳聡は、東洋人としてショパンコンクールで初めて優勝したという。傳家は中国の代表的な芸術一家。藤岡記)
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19世紀は、国民主権・人権尊重を旨とする
民主主義が広く普及した時代。
戦争の世紀、20世紀を経た今こそ
真の民主主義について、考える時かもしれません。
もう一度、映画と共に19世紀の文学を読み返してみたくなりますね。
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