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2013-03-20up

映画作家・想田和弘の「観察する日々」

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載がスタート!
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第2回

法律が大の苦手な僕が
改憲問題を論じる必要に
迫られる理由
<その2>ベアテさんの遺言

 去年の12月30日、ベアテ・シロタ・ゴードンさんが亡くなった。89歳だった。奇しくも、改憲を掲げた安倍自民党が衆院選に大勝した2週間後のことである。

 報道によれば、彼女が息を引き取る前に発した最後の言葉は、次のようなものだったという。

 「日本国憲法の平和条項と女性の権利(9条と24条)を守って欲しい」

 訃報を読みながら、僕はおもわず泣いてしまった。

 なぜアメリカ人のベアテさんの遺言が、「日本国憲法を守って欲しい」だったのか?それには理由がある。

 ベアテさんは戦争直後、GHQの民政局の一員としてマッカーサー元帥の命令を受け、日本国憲法の草案執筆を担当したメンバーの一人である。特に「婚姻における両性の本質的平等」を謳った第24条は、ベアテさんが書いた草案がほとんどそのまま憲法の条文になったことで知られている。

 僕が彼女の存在を初めて知ったのは、1999年。まだ駆け出しのテレビ・ディレクターだったころのことだ。アメリカのテレビ番組に「Constitution Writer(憲法執筆者)」という肩書きで出演していたのを観て、僕は心底ビックリした。

 というのも、僕にとって憲法とは、「誰かが書く」ようなものではなく、「神か何かから授かる」もののようなイメージがあったからだ。ベアテさんとの出会いは、旧約聖書か般若心経か何かを書いたという人がいきなり目の前に現れたような、そういう類いの衝撃だった。

 しかもベアテさんは、僕と同じ空の下、ニューヨークに住んでいるという。僕はすぐさまベアテさんを捜し出し、撮影を申し込んだ。そして、『ニューヨーカーズ』というNHK衛星第1の番組で取り上げさせてもらった。

 『ニューヨーカーズ』というのは、20分の軽めのミニ・ドキュメンタリー・シリーズである。日本国憲法の起草のプロセスを扱うのに20分という尺は、いかにも短過ぎる。本来ならば1時間か2時間くらいの特集でやるべき題材だ。それを既存のシリーズ枠に無理矢理押し込んだので、番組的には決して十分なことはできなかった。

 でも、当時の僕は番組製作会社の一社員として、このシリーズを1か月に1本作る担当だったので、ここで取り上げる以外に術がなかったのだ。お陰でNHKとは編集段階で揉めに揉めたが、僕のキャリアにとっても、個人史にとっても、大事な一作となった。

若き日のベアテさん。(映画『ベアテの贈りもの』より)

 ベアテさんの父親は、ユダヤ系ロシア人のレオ・シロタ。世界的なピアニストである。「リストの再来」と呼ばれた彼は、山田耕筰の熱烈な誘いを受けて、1929年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に教授として赴任した。そのため、ベアテさんは5歳から15歳まで、家族と一緒に日本で暮らすようになった。

 ところが1941年、ベアテさんがアメリカの大学に留学中、太平洋戦争が勃発した。ベアテさんと日本にいる両親は音信不通になり、学費や生活費の送金も途絶えた。1945年に戦争が終わると、ベアテさんは行方不明の両親に会いたい一心で、GHQにスタッフとして志願した。当時はそれが唯一、日本に入る手段だったのだ。

 15歳で大学に入り、日本語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ラテン語をマスターし、卒業後は「タイム」誌でリサーチャーとして活躍していた彼女は、すぐにGHQに採用された。そして、1945年のクリスマス、焦土と化した日本の地に再び降り立ったのだ(ご両親とは奇跡的に再会できた)。

 ベアテさんは当初、民政局で公職追放の仕事に携わった。しかし、1946年2月4日、マッカーサーの命令で日本国憲法の草案を書くチームに配属され、人権条項を担当することになる。当時彼女は22歳。唯一の女性。

 彼女は、戦前の日本で女性が虐げられているのを目の当たりにしながら育った。実際、旧民法上の女性の地位は、夫の許可がなければ裁判を起こすことも、財産を相続することもできないほど低かった。もちろん選挙権もなかった。

 ベアテさんは、女性の権利をはっきりと新憲法に盛り込もうと決意した。

 彼女は焼け野原に残っていた図書館から、アメリカの憲法だけでなく、ワイマール憲法、フランス憲法、スカンジナビア憲法、ソビエトの憲法などをかき集めたという。そして、それらを参考にしながら、「母性の保護」や「男女雇用機会の均等」、「非嫡出子の差別の禁止」など、きわめて先進的で詳細な内容を草案に盛り込んだのだ。

<ベアテ草案>
妊婦と幼児の保育にあたっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。非嫡出子(法律上の婚姻関係にない男女に生まれた子)は法的に差別を受けず、法的に認められた嫡出子同様に身体的、知的、社会的に成長することにおいて権利を持つ。

養子にする場合には、夫と妻の合意なしに家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような特別扱いをしてはならない。長子(長男)の単独相続権は廃止する。

すべての子供は、生まれた環境にかかわらず均等にチャンスが与えられる。そのために、無料で万人共通の義務教育を、八年制の公立小学校を通じて与えられる。中級、それ以上の教育は、資質のある生徒は全員無料で受けることができる。学用品は無料である。国は援助を必要とし、またそれに値する生徒に対して援助することができる。

公立・私立を問わず、児童には、医療・歯科・眼科の治療を無料で受けさせなければならない。また、適正な休暇と娯楽を与え、成長に適合した運動の機会が与えなければならない。

学齢の児童、並びに子供は、賃金のためにフルタイムの雇用をすることはできない。児童の搾取は、いかなる形であれ、これを禁止する。国際連合ならびに国際労働機関の基準によって、日本は最低賃金を満たさなければならない。

すべての日本の成人は、生活のために仕事につく権利がある。その人にあった仕事がなければ、その人の生活に必要な最低の生活保護が与えられる。女性は専門職業および公職を含むどのような職業にもつく権利を持つ。その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける権利がある。

 ユダヤ人のベアテさんは、ヨーロッパに残っていた親戚の多くを、アウシュヴィッツ強制収容所で亡くしていた。人権がないがしろにされることがいかに恐ろしいことなのか、彼女は肌身で理解していたのである。

 しかし、これらの条文のほとんどは、上司のケーディス大佐から「憲法に盛り込むには詳細すぎる」と指摘され、削除されてしまう。ベアテさんは、「詳しく憲法に明記しておかなければ、日本の政治家や官僚が作る民法でこれらの権利が保障されるわけがない」と泣きながら反論したが、認められなかった。

 男女雇用機会均等法がやっと作られたのが1972年であることを考えれば、日本社会を知るベアテさんが抱いた懸念は、正しかったといえる。非嫡出子の差別等は、いまでも解決されていない問題である。

 削除されたベアテ条項の理念は、生存権を定めた第25条や、勤労の権利と義務を定めた第27条に活かされたので、決して無駄になったわけではない。しかし、結局、ベアテさんが書いた文章がほとんどそのまま残ったのは、現行憲法の第14条の1項と第24条だけだった。

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 しかし、この第24条も、憲法として成立する過程で削除の危機に晒された。

 GHQ草案は1つ1つ日本側と協議され、ベアテさんはその協議に通訳として臨んだ。その協議の席で、第24条については、日本側から「日本文化に合わない」と激しい抵抗を受けたのだ。ベアテさんいわく、それは天皇制についての議論と同じくらいの激しさだったという。

 紛糾の末、最後はケーディス大佐が「この条文はベアテが書いた。彼女に免じて受け入れないか?」と日本側に提案した。ベアテさんを単なる通訳だと思っていた日本側は、目を丸くして一斉にベアテさんの方を振り向いたという。

 結局はそのひと言が決め手になって、日本側も受け入れたそうだ。両性の本質的平等という概念は、当時の合衆国憲法にもない、極めて先進的なアイデアであった。

 近年、自民党などの改憲派は、「日本国憲法はアメリカに押し付けられた憲法だから改憲が必要だ」という主張を強めている。

 日本国憲法の成立過程を調べると、たしかに当時の日本政府はGHQによって、新憲法を半ば押し付けられたのだと思う。そして、GHQの圧倒的な力の前では、日本政府は大人しく受け入れるしかなかったのだろう。

 しかし、ここで改めて問うべきは、「押し付けられたのは誰か」という問題である。

 例えば、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という第14条を、「押し付けられたので拒否したい」という民衆はいるだろうか。

 あるいは、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」という第24条について、「私は夫と同等の権利を持ちたくない」と拒否する女性はいるだろうか。

 第14条を「押し付けられた」と感じる人がいるとすれば、それは「社会的身分又は門地により」特権を享受してきた人であろう。そして、第24条を拒否したい人がいるとすれば、それは男尊女卑の社会で威張っていた男たちなのである。

 もっと言うと、日本国憲法を押し付けられたのは、大日本帝国憲法によって特権を享受してきた日本政府と支配者層であり、日本国民ではない。それに、GHQ草案は日本政府の案として帝国議会に提出され、改良を施され、圧倒的多数で可決されたわけで、最終的には曲がりなりにも日本人が自分たちで定めたのである。

 いずれにせよ、僕自身はGHQ草案が日本の支配者層に押し付けられて、本当に良かったと思っている。少なくとも「婚姻における両性の本質的平等」は無理にでもネジ込んでもらって良かった。あれがなかったら、日本の女性が今よりも不利な立場に置かれたことは間違いない。

 そもそも、GHQが草案を書くことになったのも、最初に日本側が出して来た憲法改定案が、大日本帝国憲法にほんの少し手を加えたものにすぎない代物だったからだ。GHQが日本の改定案をそのまま受け入れていたら、主権は国民ではなく天皇にあったし、そもそも「国民」という呼び名ではなく、「臣民(天皇の臣下)」であった。信教の自由や表現の自由などの基本的人権も制限され、治安維持法も合憲になるような内容だった。つまり、戦後の日本人が民主主義を享受することは不可能だったのである。

 もちろん、GHQから圧力を受けず、最初から日本政府が自主的に民主的な憲法を書けたのなら、それほど素晴らしいことはなかっただろう。だが、支配層に押し付けられた日本国憲法と、支配層が自主的に書いた「大日本帝国憲法モドキ」では、いったいどちらが望ましいというのだろうか。

 「日本国憲法はアメリカに押し付けられた憲法だから改憲が必要だ」と言う人々は、彼らがそう叫ぶ「言論の自由」さえも、日本国憲法の恩恵であることを認識すべきである。

 ベアテさんはGHQでの任務を終えた後、ニューヨークに移り住んだ。

 そして、ジャパン・ソサエティのパフォーミングアーツ部門の初代ディレクターに就任し、日本の一流の芸術をアメリカに紹介する仕事に従事した。

 優れた芸術ほど、その国の人々の生活や思想、文化を力強く伝えるものはない。ベアテさんの仕事は、敵国だった日本のイメージを変化させ、多くのアメリカ人にとって記号にしかすぎなかった「日本人」に、人間の顔をつけていく作業だったのではないだろうか。

 日本人である僕がいまアメリカに住み、当たり前のように受け入れられている背景には、ベアテさんたち先人の努力があったことを決して忘れてはならないと思う。

 「日本国憲法に盛り込まれた平和条項と、女性の権利を守ってほしい」

 ベアテさんは、最後まで日本のことを気に掛けつつ、この世を去って行った。5歳から15歳という多感なときを日本で過ごしたベアテさんにとって、故郷といえば日本だったのである。

 歴史の証言者としての彼女に1週間ほど密着し、ドキュメンタリーまで撮らせてもらう幸運に恵まれた僕には、ベアテさんの遺志を引き継いでいく責任があると思っている。

1999年、『ニューヨーカーズ』撮影時に映したスナップ。左から、伝説的舞踏家の大野一雄さん、ベアテ・シロタ・ゴードンさん、そして僕。大野さんをニューヨークのダンス界に最初に紹介したのは、ベアテさんだった。番組の撮影期間中に、ちょうど大野さんがニューヨークに公演でこられていたので、お二人の再会の場面を撮れた。他界したベアテさんのお母さんのために、大野さんが踊ってくださった。今考えると奇跡的な番組である。

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ベアテさんについては、やはり生前に親交のあった鈴木邦男さんも、
コラムを書いてくださっています。
「押しつけ憲法」だというけれど、「押しつけられた」のは誰なのか。
その「押しつけ」がなかったら、どうなっていたのか…。
ベアテさんが守ってくれた権利を、今度は私たち自身の手で、
私たち自身のために守っていかなくてはなりません。

生前のベアテさんも含め国内外の識者が、
日本国憲法誕生の経緯やその意義について語る
インタビュー映画『日本国憲法』が、
4月末より東京・ポレポレ東中野にて再上映されます。
ベアテさん、そして戦後日本の女性たちの歩みを描いたドキュメンタリー
『ベアテの贈りもの』も同時上映。
お近くの方はぜひ!

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想田和弘さんプロフィール

そうだ・かずひろ映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を40本以上手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞。最新作『選挙2』(同第5弾)は13年夏の参院選にぶつけて劇場公開予定。著書に『精神病とモザイク』(中央法規出版)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs. 映画』(岩波書店)がある。
→公式サイト

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