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2013-05-22up

雨宮処凛がゆく!

第263回

まっすぐ言っても伝わらないこと。の巻

 大阪の橋下市長による「慰安婦」発言が物議を醸している。

 何かもう、どこから突っ込んでいいのかわからない状態だが、この問題については、5月24日発売の「週刊金曜日」の連載「らんきりゅう」で書いたので読んでほしい。

 原稿のタイトルは、「『性』を扱う難しさ」。

 この原稿を書いて、私の中でいろいろと思うところがあった。書いたのは要約すると以下のようなことだ。

 一連の橋下発言を受けての批判の中には、深く頷くものもあれば、「それはまったくその通りなんですが・・・」という「どうも説得力に欠ける正論」もある。当然、「女性の人権」は大切だし、誰一人として尊厳を踏みにじられていい人などいない。が、たとえば橋下氏が「風俗業の活用」などと言う時に、私はどうしても「今現在、風俗業で働いている人」の立場に立ってしまう。そこから見ると、橋下発言に対して「女性の人権」という「正論を用いた批判」はどのように映るのだろうか?

 前半は、そんな問題提起をした。

 いくら「人権」と言ったところで、今この瞬間も性産業で働く人は山のように存在する。そして彼女たちが橋下氏の言うように、「自由意志」でその仕事に従事しているわけでは決してないことを、多くの人が知っている。特に貧困問題の取材をしていると、「女性の貧困」と「性産業」のあまりにも深い関係に、時々気が遠くなってくる。

 原稿の後半では、自分自身がもの書きとなる十数年前、キャバクラで働いていた時のことを書いた。90年代後半の当時は、マスコミにやたらと「セクハラ」という言葉が登場し始めた頃だった。「働く女性の人権」がメディアで取り上げられるたびに、キャバ嬢である自分は、その「人権が守られる女性」に含まれていないんだな、とぼんやり思った。水商売ではない女性が会社で身体を触られたりしたら「セクハラです!」という言葉は効果を発揮するものの、キャバ嬢がそんなことを言ったところで誰がマトモに取り合ってくれるだろう。だからこそ、当時の私は「女性の権利」とか言う「正論をふりかざす大人」たちに、男女問わず深い反発を覚えていた。そんなのは「建前の綺麗ごと」でしかなくて、そんな「建前」が幅をきかせればきかせるほど、結局自分たちに皺寄せがくるような気がしたからだ。「表の世界」で生きる人たちの権利が守られると、自分の権利が侵害される。そんな認識の中に、私はいた。そしてそれは一面では、真実だった。

 原稿を書いたあとにもいろいろ考えて、気づいた。これって、いろんな問題に繋がっていることではないだろうか。なぜかというと、当時の私が今の橋下発言とそれに対する批判を耳にしたら、もしかしたら橋下氏を支持していたかもしれないと思うからだ。当時の私は「綺麗ごとを言う大人」よりも「酷い現実を認識した上でぶっちゃける橋下氏」の方に、何か信頼に似た感覚を覚えていたかもしれない。

 そんな当時の自分を振り返ると、まったくもって「自分の権利が守られていない」状態だった。自分の権利が守られていない状態にいる時、人は、他人の権利に思いを馳せるような余裕などない。

 さて、橋下発言がメディアを賑わせていた5月17日、「生活保護法改正案」が閣議決定された。改正案は「水際作戦」を合法化し、親族による「扶養義務」を強化させるような内容で、最後のセーフティネットにひっかかるためにはこれまで以上にいくつものハードルを超えなければならないようなひどいものとなっている。が、今国会に提出される予定だ。

 「生活保護の切り崩し」については私も再三訴え、活動を続けてきた。しかし、なかなか大きな声にはならない歯痒さに苛まれてもきた。そんな時に橋下発言を巡る原稿を書き、キャバ嬢だった頃の気持ちを思い出して、なんとなく、理由がわかった気がした。

 「女性の人権」にしても「貧困」にしても「労働問題」にしても、厳しい立場にいればいるほど、「自分の権利が守られる」状況に対して、まったくリアリティが持てない。そして私自身、「人間らしい働き方」「安定した雇用」なんていう大文字のスローガンを訴えれば訴えるほど、当事者の人たちがシラけていくような空気をずっと感じてもきた。そんな人たちからすると、私は「守られた立場にいながら綺麗ごとを言う呑気な偽善者」にしか見えないのかもしれない。実際はただのフリーの物書き、どこにも「守られて」などいないのだが、しかし、今の私はキャバ嬢だったあの頃と違い、「他人の権利に思いを馳せる」だけの余裕がある。そしてその余裕を持つことは、今のこの国ではどれほど難しいことかも知っている。

 「権利」はもちろん大切だ。その大切さを訴えることも、非常に重要なことである。しかし、権利と声高に言えば言うほど、今もっとも「権利」がおかされているかもしれない当事者を遠ざけてしまうような転倒は、確かにある。

 結局、どんなに「人権」などと言ったところで、今実際に多くの人が性産業に望まない形で従事し、安定した働き方をしたいと思いながらも3割以上の人が不安定雇用の立場に置かれ、生活保護が必要な人の多くはそんなセーフティネットに守られることもなくギリギリの状態でなんとか働いて綱渡りの生活を続け、福島第一原発では今も多くの人が被曝しながら収束作業にあたっている。

 私たちは、一定数の人の権利が踏みにじられることを前提とした社会で暮らし、そして「どんなに頑張っても報われない」人が一定数必ず生み出される国で生きている。そして踏みにじられ、報われない人が増えれば増えるほど、何か・誰かを「既得権益」と叩く「祭り」は必要とされる。

 この悪循環をどうすればいいのか。結局、「誰もがそれなりに頑張ればそれなりに報われる社会」が実現しないことには断ち切れないのだろうか。

 って、そんな「解決策」自体が、また「呑気な偽善者」の戯言なのかもしれない。

 そろそろ、本当に、一番届かなければならないところに「届く」言葉が必要とされているのだと、切に感じている。

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いくら語っても「伝わらない」もどかしさ、
正論を言えば言うほど空回りしていく言葉…。
そんな感覚は、誰もが少なからず持ったことがあるのではないでしょうか。
「綺麗事ではなく本音を話している」(ように見える)政治家に、
一定の支持が集まる傾向は、まさにその裏返しなのでしょう。
この「悪循環」をどうすればいいのか。
答えはまだ、見えてきません。

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雨宮処凛さんプロフィール

あまみや・かりん1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮処凛のどぶさらい日記」

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