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2013-04-10up

雨宮処凛がゆく!

第259回

陳腐な政治手法。の巻

 前回の原稿に書いた、「生活保護や児童扶養手当の受給者がパチンコなどで浪費することを禁じ、市民に情報提供を求める条例」が、3月27日、兵庫県小野市の市議会本会議で可決された。

 条例に反対した市議は共産党一人。

 この条例について、あなたはどう思うだろうか。

  「情報提供を求めるのはちょっとやりすぎかもしれないけど、ギャンブルに貴重な税金が使われるなんてあっちゃいけないこと。だからしょうがないのでは」なんて意見が多いかもしれない。もちろん、私自身も支給された生活保護費などがギャンブルに使われることがいいとはまったく思っていない。

 だけど、こういった条例が賛成多数で可決されてしまう空気に対しては、ちょっと待った、と思うのだ。

 理由はいろいろある。「監視」が促進されるような空気が形成されることへの懸念。生活保護受給者に差別的な視線が向けられることが更に進むという人権の問題。一方、受給者のギャンブルなどを発見したら情報提供するのが「市民の責務」とされていることにも違和を感じるのは私だけではないはずだ。

 また、「パチンコをする」ことは法的には「不正受給」にはあたらないという問題もある。結局、「倫理」とか「モラル」という漠然としたものに回収されていくわけだが、「パチンコ」が許されないとなると、どこまでがOKなのか、その線引きは難しい。「問題とされる行為」の幅が一気に広がる可能性もある。

  「あの人はお酒を買っていた」「煙草を買っていた」「外食していた」「スーパーで肉を買っていた」「生活保護を受けているのに身なりが派手」などなど、文句のつけようはいくらでもあるだろう。しかし例えば、家族の誰かの誕生日などといったイベントの時に、「お酒を飲むこと」はそんなにいけないことだろうか?

 社会の中で、「みんなで監視し、その人の振る舞いに対してあらゆる文句をつけてもいい人」が生み出されること。これってよく考えると、恐ろしいことではないだろうか? なんだか21世紀の話とは思えない。

 この問題に関して一番言いたいのは、明らかに褒められたことじゃない事象や「悪いこと」に対して「悪い」というのは、ものすごく簡単なことだということだ。声高に言えば言うほど、当人は「正しいことをした」という正義感が手軽に得られる。そしてそれは、どんどんエスカレートしていく傾向がある。また、政治家などにとって、「誰から見ても褒められたことじゃない行為」に対してバッシングするという手法は、もっとも手っ取り早く支持率を上げられる行為でもある。有権者は、「確かにそれは悪いことだ。あの人はいいことを言っている、頑張ってる」と思うだろう。「悪い誰か、何か」に対して自らも怒りの声を上げれば、ガス抜きだってできるし正義感も満たせる。それに何か問題があるの? という意見もあるだろう。しかし、そういった、人の負の気持ちを刺激してエネルギーを動員するような政治手法から、私たちは何かひとつでも「得た」ものはあるだろうか?

 郵政民営化を叫んだ小泉政権で深刻化した格差、貧困。公務員バッシングに象徴されるような既得権益批判。そして今は、「生活保護受給者」までもが「既得権益」にカウントされている。そのこと自体が「この社会の底が抜けている」最大の証拠にもかかわらず、「社会全体の底上げ」はマトモに議論されずに「褒められない振る舞いをしている人」を監視して叩き、溜飲を下げるような世の中。こんなのって、明らかに病んでいる。

 陳腐な政治手法。この条例案が出てきた時に、最初に浮かんだ言葉だ。

 少なくとも私は、政治家などが「頑張ってる自分」をアピールするために、もっとも弱い立場の人たちを踏みにじることに、絶対に加担したくない。はっきり言って、そんなことは誰にでもできる。子どもだってできる。地道に福祉の充実などに取り組む政治家より、声高に生活保護受給者をバッシングする政治家の方が目立って支持を得てしまうなら、「マトモな政治家」はどんどん居場所を失っていくだろう。今、起きていることは、そういうことだと思うのだ。

 もうひとつ、ギャンブルやお酒といった問題は、「依存症」とも深くかかわっているという視点が抜け落ちている点も非常に気になる。ヨーロッパなどのホームレス支援、生活困窮者支援では、依存症へのケアが手厚いことは有名だ。しかし、なぜか日本の場合、「だらしない奴だ」の一言で片付けられ、放置されているケースのなんと多いことか。

 前にも書いたと思うが、私自身も条件反射的にバッシングの空気に乗りそうになる時がある。そんな時に心がけているのは、「このバッシングに参加した果てに、どういう事態が想像されるのかを三段階くらい先まで考えて一旦冷静になる」ということだ。

 そうすると、バッシングをしている人たちの様々な思惑も見えてくる。どういう意図があって、何を目指しているのかが、時に驚くほどに鮮明になる。

 政治は時に、人の苛立ちを利用する。

  「どんなに頑張っても報われない人が一定数生み出される社会」である今のこの国には、多くの人の苛立ちが渦巻いている。

 ある意味、「バッシングに参加する人」を非難しても仕方ない。「当たり前に報われる社会」に変えることも大切なことだが、それと同時に人々の苛立ちに寄り添うことからしか、この手の問題の解決の糸口はないような気もする。

 なんだかとても時間がかかりそうな話だが、ひとつの条例から、この国の「歪み」がこれ以上ないほどの形で浮かび上がってきたのだ。

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生活保護バッシング、公務員バッシング…。
雨宮さんは以前、<「誰かが自分より得・楽してるっぽい」問題。の巻>と 題したコラムも書いてくださいましたが、
特定の誰かを「敵」にして叩くことは、
何の問題解決にも、誰の幸せにもつながらないはず。
むしろ、その「ガス抜き」によって得しているのは誰なのか? を考えたい。
きちんと批判しなくてはならないことは、もっと別にあるはずなのです。

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雨宮処凛さんプロフィール

あまみや・かりん1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮処凛のどぶさらい日記」

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