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2011-2-9up

雨宮処凛がゆく!

第176回

エジプトのデモと永田洋子の死。の巻

エジプト大使館前で。

 2月5日、私はエジプト大使館前にいた。とにかくすごいことになっているエジプトの様子をテレビなどで見ていていてもたってもいられなくなり、急遽開催された「ムバラク政権打倒」を訴える民衆への弾圧を許さない、という緊急行動に参加したのだ。この行動には日本に住むチュニジアの人も参加し、ムバラク退陣を訴え、エジプトで立ち上がった人々に「連帯」をアピール。また、同日同時刻には日本に留学中のエジプト人学生たちがデモを開催。恵比寿〜渋谷のコースで開催されたデモには、200人ほどが集まったという。

 そんな2月5日、「政治の季節」を代表するような人が生涯を終えた。それは連合赤軍の永田洋子死刑囚。65歳。

 この連載を読んでいる中に、連合赤軍について詳しく知っているという人はどれくらいいるだろう。75年生まれの私も、72年に起きた連合赤軍事件について当然リアルタイムでは知りようがない。しかし、14人が犠牲となったこの事件には以前から関心があり、昨年末も「週刊金曜日」に「70年代の光と影 連合赤軍事件 社会への回路が閉じられて『生きづらさ』につながった」というタイトルの長い原稿を書いた。

 連合赤軍がこの国に存在したのは71〜72年。「革命」を目指した若者たちが「あさま山荘」に立てこもり、10日間にわたって警官と銃撃戦を繰り広げた様子を「昭和を振り返る」系のテレビなどで見た人も多いだろう。そんな連合赤軍は、あさま山荘に立てこもる前、山岳地帯にアジトを作り、「総括」の名のもとに仲間に自己批判を迫ってリンチを加え、次々と殺害。逮捕後に続々と死体が掘り起こされ、世間を震撼させた。そんな連合赤軍の委員長の森恒夫は拘置所で自殺。そして13人の殺人罪、1人の傷害致死罪に問われた副委員長こそが5日に亡くなった永田洋子なのである。

 永田洋子が亡くなる3日前の2月2日、はからずも私は連合赤軍について語っていた。それは東京新聞からエジプトのデモについて取材を受けた時のこと(東京新聞11/2/3)。取材のテーマは、なぜ、チュニジアやエジプトのみならず、フランスでは年金制度改革に対して若者が立ち上がって百万人規模のデモになったり、イギリスでは学費値上げに対して学生たちが立ち上がっているのに、日本ではそのような状況は見られないのか、というようなことだった。

 その時にまず頭に浮かんだのが、連合赤軍事件のことだった。というか、エジプトのデモに限らず「なぜ、今の日本の若者たちが立ち上がらないのか」という質問を投げかけられるたび、必ず頭に浮かぶのはあの陰惨な「同志殺し」事件である。「革命戦士としての自覚が足りない」とか、そんな理由で次々と壮絶なリンチに遭い、仲間と信じた相手に殺されていった40年前の若者たち。殺された中には妊娠中の女性もいたし、兄弟や恋人への殺害に加担するという状況もあった。そんな同志殺し事件は、世間が「政治運動」にドン引きするには十分すぎるインパクトを与えたはずだし、運動には壊滅的な打撃を与えただろう。

 そんな連合赤軍事件後に私は生まれた。「政治の季節」は去り、世の中が「消費」一色に染まっていく中で育った私は、常にうっすらと「若者に政治が禁止される」ような空気を感じてもいた。何か、「若者が政治的なことを考えたりやらかしたりするとロクなことにならない」というような拒絶感。そんな空気は確実に漂っていたし、今もある。

 そんな「大人」たちによる拒絶感は、日本社会があの事件のトラウマから立ち直っていない証なのかもしれない。しかし、事件後に生まれた私には、なぜ「若者に政治が禁止」されているような空気が存在するのかわからなかった。どうして「社会」や「政治」に疑問を感じて口に出しただけで「危険人物」扱いされるのかわからなかった。そのことを説明してくれる人などいなかった。

同じく。

 そうして20代の頃、連合赤軍事件について詳しく知った。その時、私は自分が感じてきた「空気」の理由がやっとわかった気がした。同時に、自身が長らく感じてきた「生きづらさ」の理由もほんの少し、わかった気がした。

 一見唐突だが、私は連合赤軍事件を、今に続く「生きづらさ」に直結する問題として捉えている。

 その理由は、「政治が禁止される」ような空気の中で育った連合赤軍後の世代の多くは、あらかじめ社会への回路を切断されているからだ。

 そんな中で、何が起こるか。

 自らの身に起きる不条理は、それがどんな背景があるにせよ、すべてごくごく個人的な問題となる。最初から社会と関連づけて考えることが禁じられ、「社会のせいにするな」と言われているので、すべての矛盾は自らの責任だ。「自己責任」なんて言葉が登場するずっと前から、運動アレルギーの空気が常態となった世の中で育った「連赤後」世代は、負えない責任まで自らの責任として背負わされてきた。それが当たり前のことだった。

 学校でいじめに遭えば自らを責め、競争に勝てなければ努力が足りないのだと猛省し、就職戦線で勝ち残れなければ自らの不甲斐なさに心を病み。その背景にある「社会」の問題に迫る回路が切断されているのだから責めるべきは自分しかいない。無責任な「大人」は「若者はもっと怒れ」などとけしかけるものの、社会や政治から切り離された若者たちは怒れば怒るほど、その矛先を自分に向けるしかない。怒りが自分に向いた結果が、長期にわたるひきこもりであり、自傷行為であり、身近な親に怒りを向ける家庭内暴力であり、最悪の場合は自殺だろう。

 あらかじめ「社会」と分断されているのだからデモなど起こりようがない。連合赤軍事件など知らなくたって、若者の多くはこの国を覆う空気には恐ろしく敏感だ。もちろん、それでも行動を起こしている若者はいる。しかし、やはり今のところ少数だ。

 連合赤軍事件は、14人の命を奪った。

 しかし、社会への回路を閉ざされ、自らを責めるしかない現代の若者たちの心のあり方と関連づけて考えると、犠牲者の数は遥かにそれを上回るかもしれない、と言ったら言い過ぎだろうか。

 08年、韓国では若者たちによって「キャンドルデモ」が盛り上がった。なぜ、韓国の若者たちは日本の若者と違って立ち上がれるのか。そう聞いた私に韓国の40代くらいの男性はこう言った。

 「韓国では、連合赤軍のような悲惨な事件がなかったので、運動に対するアレルギーが日本に比べればずっと少ないからでしょう」

 韓国の人にそこを指摘されると思わなかったので驚きつつも、納得した。

 そんな連合赤軍の象徴、永田洋子の死。あの事件を通して考えるべきことは、あまりにもたくさんある。

同じく。

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広場に集うエジプトの人々の映像を見ながら、
「なぜ、日本では--」と考え込んだ人はきっと多いはず。
40年前の事件が日本社会に残した傷痕は、
あまりに大きく、深いのかもしれません。

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雨宮処凛さんプロフィール

あまみや・かりん1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮処凛のどぶさらい日記」

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