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この人に聞きたい
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辻侑子さんに聞いたその2

本当の「今そこにある危機」を見極めよう

“スロー”というコンセプトを提唱、日本にスローライフの
一大ムーブメントを起こした辻信一さん。
文化人類学者で環境活動家である辻さんから見た、憲法9条とは?

tsuziさん
つじ・しんいち
1952年生まれ。文化人類学者、環境活動家。明治学院大学国際学部教授。
学生時代に北米に渡り、様々な職業に従事しながら哲学、文化人類学等を学ぶ。
1999年、環境=文化NGO、ナマケモノ倶楽部を設立。
夏至と冬至の日の夜8時から10時まで「でんきを消して、スローな夜を。」と呼びかける
「100万人のキャンドルナイト」の呼びかけ人代表。
全国の個人、NGO、NPO、企業、自治体が参加する一大ムーブメントとなる。
著書に『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)、『ピースローソク――辻信一対話集』(ゆっくり堂)、『ブラック・ミュージックさえあれば』(青弓社)など。最新刊は『ハチドリのひとしずく―いま、私にできること』(光文社)。
海外に暮らし、海外のことばで語ることで見えてきた9条
編集部

辻さんは「スロー」や「クールダウン」をキーワードとしたさまざまな環境活動をされている中で、憲法9条についても多く語っていらっしゃいますね。9条について着目しだしたきっかけは何ですか?

まずは海外に長く暮らしていたこと。海外に行って日本のことを英語で読んだり議論したときに、日本語で考えたり語ったりするのとは違った、冷静で客観的な目線を持つことで見えてきたものがあったんです。

たとえばベルリンの壁が崩壊したとき、僕はメキシコにいました。冷戦の終わりということで、世界中のメディアが一種のユーフォリア、恍惚状態にあったときに、メキシコはすごく冷めている感じがした。それは冷淡だという感じではなく、むしろ冷静に見ているという視線が、知識人だけじゃなくて一般の人々の中にもあったように感じられたんです。壁の崩壊や冷戦の終結というのはたかだか何十年かの対立の終わりだけれども、彼らはいまだに解決しない対立や暴力や差別の歴史をもう500年ぐらい抱えてきて、それがこれからも続いていく。そういう目線から見ると、彼らにとって壁の崩壊などそんなに興奮して酔いしれるほどのことではないのではないかと、僕には見えた。

また、9.11が起こった時には、僕はエクアドルにいたけれども、現地の人々の反応の中にやはり同じようなことを感じました。もちろん彼らはあの事件に心を痛めているんですが、メディアが紹介したような世界各地の激情とは質の違う、とても落ち着いた態度を示していたんです。

僕は長く海外で暮らしていたせいでしょうか、日本に住んで、日本語で考え行動していると、時として精神的な閉塞状態に落ちこむように感じることがあります。なんか呪縛されたみたいに、視野が狭まっちゃうという感覚なんです。逆に、日本の外に出て、初めてクリアに見えてくるということはよくあります。9条についても、海外の人と海外のことばで語ったりすることで僕のうちに生き生きとし始めたということがありました。ジャン・ユンカーマン監督の『映画 日本国憲法』がまさにそういう効果を発揮する映画です。あれは非常に意識的に、海外からの視点を集めていますね。日本の中だけで9条を考えるときの窮屈な感じと、海外の人が海外のことばで9条を考えたり感じたりするときの透明で風通しのいい感じとのコントラストが、僕の中の9条への興味を沸き立たせてくれたんじゃないかと思います。

もうひとつのきっかけは、教師として学生と付き合うようになったことです。

アメリカから帰ってきてまず、日本の若者たちが9条というものにものすごくアレルギーを持っていると感じました。

彼らは、実際に9条を読んでみれば「えっ、こんなことが書いてあったんだ、かっこいい!」というけれども、そもそも憲法という議論そのものがすごく面倒くさくて近づきにくいし、嫌だと感じている。平和ということばを使うことが第一ダサくてつまらないことで、「ああ平和系ね」で片付けられちゃう。しょうがないから「ピース」と言い換えてみたりしてね。

もちろんそれはおとなたちに大きな責任があると思うけれども、一体この語りにくさはなんなのだろう、この語りにくさこそがまさに問題の核心なのではないかと。そしてそれは、結局は文化ということになるんじゃないかなと思ったわけです。

平和とか戦わないというのは、単なる規則でも法律の中の条文でもないし、博物館の中の陳列物でもない。それは生きていなければならないもの。つまり文化だと思うんです。

思想家の鶴見俊輔さんもおっしゃっていますが、「戦争は文明の母」ということばがあります。科学技術の世界の先端にいる人たちは、戦争を想定すると目的意識が非常にはっきりします。ミサイルや兵器を開発することで科学技術がどんどん進歩していくわけ。それだけ「戦争」というのは、「平和」や「文化」に比べて非常に効率的で明快でわかりやすいんですね。

けれども平和の側に立とうとすれば、文化からもう一度出発しなければいけない。それはそれはスローで悠長な話なんです。近道というものはない。それでもやっぱり歩いていこうと思えば、それは相当の覚悟がいることです。

「どこかの国から攻められたらどうするか」を考える現実主義の非現実性
編集部

しかし今、「平和とか文化とかのんびりしたことを言っている場合ではない」「テロが起こったり、どこかの国から攻められたらどうするのか」などと言われることが多いですよね。

例えば、北朝鮮が攻めてきたらどうなるんだ、というような議論があるでしょう?

その土俵に一度引きずりこまれてしまうと、その対応に追われてしまうことになる。でも考えてみてください、「もしも北朝鮮が攻めてきたらどうなるのか?」というのは結構すごい想像力です。そんな立派な想像力を持った人が、たとえば「もしも老朽化した原発に大地震がきたらどうなるの?」とか、「全部が海辺にある原発に津波が来たらどうなるの?」と考えてみるだけの想像力を持てないでしょう。こういう場合の「現実主義」というのは、ものすごく偏っている。実は非常に非現実主義的なわけですよ。

僕にとっては「そんなことを言っている場合じゃない」という話で言えば、今は、対テロ戦争なんて言っている場合じゃないんですね。

というのは、僕らはもう、いろいろなとんでもない危機の只中を生きているわけです。気候の急激な変化、大規模になるばかりのさまざまな災害、生物界に起こっている様々な異変……。人類の存続の危機というのは、何千年も先の話ではなくて「今そこにある危機」です。戦争も、自然環境の劣悪化に規定されている部分は大きくて、人々は土地や水や石油などの資源をめぐって争いを続けている。こんな大問題をさておいて、北朝鮮が攻めてきたらどうするか、と考えることが、あたかも現実的であるかのように議論されている。僕は、今そこにある“本当の”危機に、話を引き戻していかなければいけないなと思うんです。

経済成長の呪縛が、戦争をもたらす

今、ますます世界中の格差が拡大し、戦争の危機が高まり、世界がより暴力的になっているのは事実です。その危機を引き起こしているものは何かというと、それは経済成長神話でしょう。

社会思想家で評論家のイヴァン・イリイチのことばに「パックス・エコノミカ」というのがあります。人が経済システムによる支配の下に従属することによって可能になる「平和(パックス)」のことですが、まさに日本の戦後はそういう時代でした。

戦後の日本において、憲法が支持されている時期は好景気にあるときだったというデータがあります。経済がどんどん成長して、所得が増えて豊かになっていくと、「戦争なんかしないで、平和に繁栄を楽しもうよ」という気持ちでいられる。「平和」が経済の中にすっぽりはまりこんでいたんですね。9条と経済成長が背中合わせになっていた、と言えるかもしれない。

経済成長神話はすでに破綻している。しかしそれに執着する人たちが、日本も「平和ボケ」からぬけ出して、自分の軍隊をもつ「普通の国」になっていかなくてはいけないんじゃないか、といいだした。言い換えればもう9条に頼っている時代じゃないでしょ、というわけです。

アメリカの主導するグローバリズムの流れの中で、日本は今のところはまだグローバル経済の勝ち組の方にいますからね。そこにしがみついていようという人たちが政権を握っていますし、まだ相当の支持を受けてもいる。その基本的な考え方は、「環境破壊はしないにこしたことはないが、しかし経済成長のためにはある程度は仕方がない」です。しかし、自分たちの生存の基盤である生態系との平和も保てないで、一体何が平和なんでしょう?

グローバル経済が進んでいく先にあるのは、破壊され劣悪化した自然環境の中に残された資源をめぐる生き残りのための戦争です。二者択一を迫るような言い方はなるべくしたくないんだけど、やっぱり、経済成長神話にしがみつくのか、平和の文化をとるのかという重大な選択をする時期に、今来ているのではないかと思います。9条を、今度は経済成長とセットになっていない、裸の9条として選び直す覚悟が僕たちにあるかどうか、です。

本当にやらなければならないのは、9条を守るなんていうケチなことではない
編集部

経済を取るか、平和を取るかというところが、なかなかリアルに感じられないというところが あると思うんですが。

そこに気づく、それを感じることができるというのは、文化の力でしかないと思う。いくら条文を読まされても、学校で習ってもダメなんですよ。

どんな文化だって、生きていくというのはどういうことなのかという実感に支えられて続いてきたわけですよね。けれども今や、文化は経済のために片隅に追いやられ、文化の力がどんどん弱まっている。

「カネで買えないものはない」ということばを発する人たちが、ヒーローのように語られますが、でも、「勝ち組負け組」なんて文化としたら下劣でしょ。10人のうち一人の人が勝てばいいなんていう文化がありますか? そんな文化があったとしたら、すぐに滅びてますよ。持続可能性ゼロでしょう。

今、近代とか、資本主義とか、西洋文明とか、いろんな物語が一緒くたに終わりに来ている時代だと思うんです。そういう大変な時代に僕らは生きています。

やはり9条というのは、命を大切にすることでしょう。

僕が環境運動をやっていて感じるのは、命を大切にするというのは、人間中心主義を超えているものだということ。だから、僕らがやらなければならないのは、単に「9条を守る」とかそんなケチなことじゃない。9条はソリューション(解決)でも結論でもなくて、あくまでインスピレーションであり、ヒントであり、始まりなんです。もう来るところまで来てしまったこれまでの物語、終わってしまった物語に替わる新しい物語を紡ぎ出す。そういう大きな事業にぼくたちはとりかからなければならないと思うんです。

つづく・・・

人は、経済にとらわれるあまりに、地球、自然、命という
マクロな視点を失い、 目先の利益をめぐる競争に
心を奪われてしまうのではないでしょうか。
「経済成長とセットになっていない裸の9条を
選び直す覚悟があるかどうか」と辻さんは問いかけています

次回は、私たちは日々の生活をどのように生きていけばいいのか。
そのヒントを語っていただきます。お楽しみに!

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