まずは海外に長く暮らしていたこと。海外に行って日本のことを英語で読んだり議論したときに、日本語で考えたり語ったりするのとは違った、冷静で客観的な目線を持つことで見えてきたものがあったんです。
たとえばベルリンの壁が崩壊したとき、僕はメキシコにいました。冷戦の終わりということで、世界中のメディアが一種のユーフォリア、恍惚状態にあったときに、メキシコはすごく冷めている感じがした。それは冷淡だという感じではなく、むしろ冷静に見ているという視線が、知識人だけじゃなくて一般の人々の中にもあったように感じられたんです。壁の崩壊や冷戦の終結というのはたかだか何十年かの対立の終わりだけれども、彼らはいまだに解決しない対立や暴力や差別の歴史をもう500年ぐらい抱えてきて、それがこれからも続いていく。そういう目線から見ると、彼らにとって壁の崩壊などそんなに興奮して酔いしれるほどのことではないのではないかと、僕には見えた。
また、9.11が起こった時には、僕はエクアドルにいたけれども、現地の人々の反応の中にやはり同じようなことを感じました。もちろん彼らはあの事件に心を痛めているんですが、メディアが紹介したような世界各地の激情とは質の違う、とても落ち着いた態度を示していたんです。
僕は長く海外で暮らしていたせいでしょうか、日本に住んで、日本語で考え行動していると、時として精神的な閉塞状態に落ちこむように感じることがあります。なんか呪縛されたみたいに、視野が狭まっちゃうという感覚なんです。逆に、日本の外に出て、初めてクリアに見えてくるということはよくあります。9条についても、海外の人と海外のことばで語ったりすることで僕のうちに生き生きとし始めたということがありました。ジャン・ユンカーマン監督の『映画 日本国憲法』がまさにそういう効果を発揮する映画です。あれは非常に意識的に、海外からの視点を集めていますね。日本の中だけで9条を考えるときの窮屈な感じと、海外の人が海外のことばで9条を考えたり感じたりするときの透明で風通しのいい感じとのコントラストが、僕の中の9条への興味を沸き立たせてくれたんじゃないかと思います。
もうひとつのきっかけは、教師として学生と付き合うようになったことです。
アメリカから帰ってきてまず、日本の若者たちが9条というものにものすごくアレルギーを持っていると感じました。
彼らは、実際に9条を読んでみれば「えっ、こんなことが書いてあったんだ、かっこいい!」というけれども、そもそも憲法という議論そのものがすごく面倒くさくて近づきにくいし、嫌だと感じている。平和ということばを使うことが第一ダサくてつまらないことで、「ああ平和系ね」で片付けられちゃう。しょうがないから「ピース」と言い換えてみたりしてね。
もちろんそれはおとなたちに大きな責任があると思うけれども、一体この語りにくさはなんなのだろう、この語りにくさこそがまさに問題の核心なのではないかと。そしてそれは、結局は文化ということになるんじゃないかなと思ったわけです。
平和とか戦わないというのは、単なる規則でも法律の中の条文でもないし、博物館の中の陳列物でもない。それは生きていなければならないもの。つまり文化だと思うんです。
思想家の鶴見俊輔さんもおっしゃっていますが、「戦争は文明の母」ということばがあります。科学技術の世界の先端にいる人たちは、戦争を想定すると目的意識が非常にはっきりします。ミサイルや兵器を開発することで科学技術がどんどん進歩していくわけ。それだけ「戦争」というのは、「平和」や「文化」に比べて非常に効率的で明快でわかりやすいんですね。
けれども平和の側に立とうとすれば、文化からもう一度出発しなければいけない。それはそれはスローで悠長な話なんです。近道というものはない。それでもやっぱり歩いていこうと思えば、それは相当の覚悟がいることです。