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つじ・しんいち
1952年生まれ。文化人類学者、環境活動家。明治学院大学国際学部教授。
学生時代に北米に渡り、様々な職業に従事しながら哲学、文化人類学等を学ぶ。
1999年、環境=文化NGO、ナマケモノ倶楽部を設立。
夏至と冬至の日の夜8時から10時まで「でんきを消して、スローな夜を。」と呼びかける
「100万人のキャンドルナイト」の呼びかけ人代表。
全国の個人、NGO、NPO、企業、自治体が参加する一大ムーブメントとなる。
著書に『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)、『ピースローソク――辻信一対話集』(ゆっくり堂)、『ブラック・ミュージックさえあれば』(青弓社)など。
最新刊は『ハチドリのひとしずく―いま、私にできること』(光文社)。 |
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編集部 |
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今の時代は、経済成長を取るか、平和の文化を取るかの選択に迫られているというお話を前回聞きましたが、経済信仰の裏には、貧しさへの恐怖があるのではないでしょうか。
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辻 |
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重大な問題は、僕らが持っている貧しさというイメージの貧しさです。
貧しいというと惨めで不自由なものだという恐怖がありますね。あるいは貧しいことは、清く正しく、禁欲的なことでなければならない。けれども、貧しいといわれている人々のところに行ってみると、実は結構豊かだったりすることがたくさんあるわけです。
僕は、ミャンマーやエクアドルなどによく行くのだけれども、そういった国で暮らす人たちは物質的には多くは持っていないけれど、僕らがとっくに失ったような安らぎや優美さを持っている。
かたや先進国では、常に恐怖や不安を掻き立ててGNP(gross national product=国民生産量)やGDP(国内総生産)の向上に躍起になっています。ここにあるPというのは、プロダクツ、つまり生産されたモノと、それを商品としてやりとりするお金の量、といった意味です。ぼくたちはそのPの量で社会の豊かさとか、人間の幸せとかが測れるかのような幻想を抱いてきたわけですね。
また一方には、たとえばブータンというヒマラヤの小さな国があって、そこではGNH(国民総幸福)ということを標語にしている。HはhappinessのH。王様が最初に使った言葉ですが、多分、冗談半分で言ったんだと思うんですね、「お金やモノで生きる意味を測れるのか、ブータンにはお金を持っていない人がたくさんいるけど、みんな結構幸せに生きてるよ」と。
僕自身はこのGNHということばを流行らせようと、「GNH研究会」という小さなグループを作ったりしています。でも、そんなふうに僕が言うと「難民をたくさん出している政権を利するのか」なんてすぐ批判が来る。マングローブの植林のお手伝いに行っているミャンマーの村人たちについていいことを言うと、軍事政権を美化するのか、とか。
そりゃあ、世界中のどんな国でも、問題は探せばありますよ。ただ、GNHという言葉は、我々の生き方の痛いところを見事に突いている。その言葉にこめられた第三世界的なウィットを、僕は高く評価したいと思います。ブータンが理想的だとか、そのままモデルになるとは思わないけれど、少なくとも、「GNPはちょっと違うだろう」と国のレベルで言える姿勢は、参考にしていいのではないでしょうか。
他にもブータンは、憲法に国土の60%は森でなくてはならない、という条文を入れようとしていたり、自然にあまりインパクトを与えないヨーロッパ型の水力発電で作った電力を輸出していたりする。ブータンやネパールあたりは、洪水や干ばつが頻発していて、地球温暖化が直撃しているので、とにかく森をしっかりと守らなければ生き残れないという意識が高いんです。そういった点でも日本は学ぶべきことはあると思うんですね。
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編集部 |
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これまでの貧しさへの恐怖から、ここ数年は発想の転換が起こり、スローライフブームが起きていますね。ロハス(LOHAS=life of health and sustainability;健康で持続可能な生活)ということばもあちこちでよく見られるようになりました。その一方で、ロハスな暮らしをできる人は、結局経済的に余裕がある勝ち組じゃないか、といううがった見方もあります。
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辻 |
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その意見は本当によくわかります。僕もロハスという言葉を日本に紹介した者のひとりとして責任があると思うので言いますけど、たしかにロハスには、かつてのヤッピーのようなアメリカの勝ち組のサブカルチャーという一面があるんです。そこには僕も違和感を覚えます。
でも、ロハスの元になったカルチャー・クリエイティブ(文化的創造者たち――近代主義とも伝統主義とも違う価値観をもつ第三の潮流)はもっともっと裾野が広くて、1980年代にイタリアの片田舎で生まれたスローフード運動や第三世界の反グローバリズムの流れにも通じるものです。日本のスロームーブメントもそうです。庶民の文化の中からでてきたこういうキーワードを、僕は大事にしたいですね。
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辻 |
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僕はいろんな運動をやっていて、「こりゃ、とてもかなわないなあ」と思うことがある。メディアが完全に大企業に握られて、いつでも、どこに行っても我々はその情報の爆撃にさらされるでしょ。それに対抗するのはすごく難しいですよ。
難しいけれども、僕らはやっぱり対抗する技術を自分たちの中から育てていくしかない。
たとえばカナダのバンクーバーに拠点をおく「アドバスターズ」という集団がいて、世界中で大企業の宣伝に対抗する運動をやっている。デザインやウィットで勝負しようというんです。
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編集部 |
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今回の選挙でも、自民党に入れた人の多くはテレビをたくさん見ていた人だというデータがあったりしました。
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辻 |
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僕の家ではテレビを基本的には見ないようにしているんだけど、子どもたちは最初は不安を感じましたよね。テレビそのものに未練があるというより、テレビを見ないと周りの話題についていけなくなるんじゃないか、と。でも今では子どもたちはかえって喜んでいますよ。2年目以降はは子どもたちに選択させて、週末は見てもいいことにしたんだけれども、でも結局週末もほとんど見ない。友だちの方でも、テレビの話題なしで付き合う術を覚えてくれるんですね。
それは大人にも言えることですよね。テレビを見ないと生きていけないんじゃないかとそれほどの根拠もなく思っている。同じように「これがないと生きていけない」と思い込まされているモノをたくさん抱え込んでいる。
プラグを抜く=アンプラギングする、というと、何かマイナスなイメージがあって、反・何とか運動をしているように思われるけども、違うんですよ。プラグを抜いた途端に、実はパーッと世界が広がる。豊かな時間が帰ってくる。オルタナティブ(代わるべきもの)というのは必ずそこにあるものなんです。
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辻 |
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これまで僕たちが「○○しない」「反○○」というとき、文がそこで終わってしまっていた。○○しない。○○反対。これをいうだけでは、その先が提示されないんです。
そこで僕たちは「ズーニー運動」を呼びかけることになった。「○○せずに□□する」の「ずに」をとって「ズーニー」とか「ZOONY」と書く。ズーニーにはちゃんと先があって、そこにオルタナティブが提示される。自動販売機を使わ「ズーニー」、水筒を持ち歩く、というように。そのうち、ディズニーランドならぬズーニーランドっていう店を作って、そこでいろんなことをせずに済む道具や、環境破壊せ「ズーニー」すませるためのグッズを売ったら面白いんじゃないか、なんて思ってみたりする。そういう、○○せ「ズーニー」済ませることで手にする豊かさを示すような、ゲリラ戦を展開したいんですね。
プラグを抜くことで生まれる楽しさ、ゆたかさ、安らぎ、おいしさを示していく、そういう文化運動をしていきたい。
これまで環境運動にしても平和運動にしても、たとえそれが清く正しくはあっても、なんとなくダサいし、楽しくなさそうだし、おいしそうじゃないし、なんかいらいらしていて安らぎもなさそう、ということが多かったんじゃないでしょうか。そして、その運動を担っている人たちもいつの間にかそういうモードに入ってしまっていた。「清く貧しく生きるんだ」みたいなね。でもそれじゃあ全然魅力がない。僕は環境運動や平和運動に関心を持ってあちこち足を運んでいる女性に出会ったことがあるんだけれども、その女性はラテン系な感じですごくおしゃれなんです。でもそういった運動に行くときには地味にするようにしているという。派手な格好をしていくと「なんか浮ついてるんじゃないか?」と怒られちゃうというんですね。これは非常によくないですよ。
僕らは若い人たちや子どもたちに、ほんとは環境や平和の側に立つことの楽しさを示さなければならないと思います。こっちに来てごらん、もっと楽しいから、おいしいから、美しいからって。そういうものを示せなかったら、とてもかないませんよ。
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編集部 |
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清く正しく運動するにしても、楽しく運動するにしても、今の世の中の巨大なシステムの中に生きている限りは所詮何をやってもムダじゃないか、という声が聞こえてきそうですが。
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辻 |
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だれでもついそう思ってしまいますよね。ひとりの力は小さいものだから、どんな行為にも「こんなことやって何になるの」という問いが付きまとうものです
そこで、南米に伝わる短い神話をご紹介しましょう。エクアドルの先住民族キチュアの友人に教えてもらったんです。
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「私にできること」
森が燃えていました
森の生きものたちは
われ先にと逃げていきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは
いったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをしていったい何になるんだ」
といって笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」
出典:『ハチドリのひとしずく――いま、私にできること』
(辻信一監修、光文社)
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僕らは今まで、自分にできないことをできないからといっては自分を責め、できることができるというすごさを、あまりにもおとしめてきたんじゃないでしょうか。
どんなに巨大に見える問題――例えば地球温暖化だって、僕ら一人ひとりが関与して作りだしてきた問題でしょう。どんな平和だって、ぼくたち一人ひとりが関わってつくり出すものです。だからやはり、人とのコミュニケーションをとるとか、心が通じるとか、ともに生きているという実感がないと、ね。そういう文化的背景があってこそ9条を活かすこともまた可能になる。
僕はこのハチドリの物語の「わたしにできること」精神を呼びかけているうちに、ふと昔の「小さな親切運動」みたいだな、と思えてちょっと照れくさいんです。昔はああいうのをバカにしていたから。
イタリア人の友人の影響があると思う。彼と現地で会うと感動しますよ。ちょっと外に出ると、いろんな人にいたるところで話しかけるから、目的地になかなか着かない。ちょっとカフェに寄っては、隣の人と話す、バーテンダーと話す。道端でもどこでも話しかけ、立ち話。でもそれがとてもいいなあと思えて、うらやましくもあり、「よし、日本に帰ったら僕も……」と。で、よく乗る東海道線がボックスになってるから、そこで話しかけようと思って勢い込んで乗ったんだけど……。乗ったとたんにくじけた、これは絶対無理だ、と(笑)。いやあ、日本じゃなかなか難しい。ひとりひとりがすごいバリアーを築いている。それでも僕は、学生たちに言うんですよ。声かけようよ、あいさつしようよ、と。
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編集部 |
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小中学校でやっている「あいさつ運動」みたいですね(笑)。
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辻 |
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まさにそう。僕は昔、ああいうの嫌だなと思っていたんだけど、でももしかしたら、ああいうことがいちばん大切なのかな、と最近思うようになった。ほら、あのホワイトバンドのキャンペーンと同じで、「ほっとけない」。英語でいうと、“I care”ということなんです。
今の電車の中って、ほんとにみんなが「I don't care!」、われ一切関知せず、という拒絶のメッセージを身体中から発信しているわけでしょ。
人のことなんか思いやったりする暇なんかなくて、どうやってお金を作るかばかり考えている社会っていうのは、その程度のものになってしまうんですよ。
だから、そんな社会の中にあっても、確かに一人では大きなことはできないかもしれないけれど、でも少なくとも“I still care”と、自分の思いを発してみる。何かが始まるとしたら、そんな気持ちからじゃないでしょうか。
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戦争を生み出す社会を作っているのは人間です。
しかし平和も、私たち一人ひとりが関わって意識的につくり出すものです。
まずは身近な人と話し、平和や本当にゆたかな生活や9条について、
考えてみることから始めてみませんか。
辻さん、ありがとうございました!
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