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この人に聞きたい

090513up

田村理さんに聞いた

9条を変える、変えないの議論よりも
立憲主義とは何かを知ることがまず大事

TVドラマ、マンガ、スポーツ選手にミュージシャン…
従来の「憲法解説」とは一線を画したユニークな題材を通して、
「立憲主義」を語る憲法学者・田村理さん。
わかったようでいて実はよくわかっていないのかも?
そんな立憲主義の意味と意義について、まずはお聞きしました。

たむら・おさむ
専修大学法学部教授、憲法学者。1965年、新潟県生まれ。明治大学法学部卒業。一橋大学大学院法学研究科博士後期課程修了。福島大学行政社会学部助教授、専修大学法学部助教授を経て、2007年より現職。著書に『僕らの憲法学』(ちくまプリマー新書)、『国家は僕らをまもらない』(朝日新書)、『投票方法と個人主義――フランス革命にみる「投票の秘密」の本質』『フランス革命と財産権』(共に創文社)がある。

メディアを含め立憲主義に関する意識が
極端に欠落している

編集部

  インタビューの依頼をした際、「9条だけの話にはしたくない」というのが田村さんからの要望でしたね。

田村

  日本では憲法と言えば「9条の是非」と「憲法改正の是非」ばかりが話題になっていて、そのことにしか関心が向かない。僕は、そういう憲法の扱い方を批判してきましたので、正直言いますと『マガジン9条』から取材依頼がくるとは思いませんでした。(笑)。『マガジン9条』はあるけれど『マガジン立憲主義』は存在しない。国家=権力と国民の関係をめぐる問題の一つとして9条を位置づけることなどほとんど考えられていない。ここが大問題です。つまり憲法とは何のために存在するのか、という根本的な部分がごそっと抜け落ちているんです。

編集部

  その根本的な部分について、憲法に関心のない人も含めたより多くの人に興味を持ってもらいたいという田村さんの姿勢は、著書などにはっきりと表れていますね。07年に出版した『国家は僕らをまもらない』(朝日新書)には、キムタク、桑田佳祐、イチロー、ゆず、それから漫画の『パタリロ!』ほか、従来の憲法本ではお目にかかれない面々が登場します。

国家は僕らをまもらない―愛と自由の憲法論
国家は僕らをまもらない―愛と自由の憲法論(朝日新書)
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田村

  憲法に興味を持っている人って本当に少ないと思いますが、その理由の一つに憲法学界の「敷居の高さ」があると思います。学界自体が難しい外国の法哲学なんかを展開する人たちの集まりになっていて、一般の人向けに憲法を説くことに関心のある学者は多くない。かつては「運動」に関わることこそ使命だと考えていた大学者がたくさんいましたが、今はそれもとっつきにくい。そんななか、僕が本や授業などで実践してきたのは、敷居が高くてとっつきにくい憲法論をドラマやアニメ、スポーツの話などに織り込むことで、まずはその部分だけでも興味を持ってもらうということ。で、騙して憲法が分かった気にさせてしまう(笑)。専門家のはずの僕にだってよく分からないことも多いのですから。国家=権力と僕たちの間にある問題を感じ取ってくれた人の中からその先に興味を持つ人が出てきてくれれば、憲法はもっとイキイキとするはずなんです。

編集部

  本やインタビューなどで田村さんは、「憲法とは国家=権力に余計なことをさせないための法律だ」「憲法の条文に従うのは国民ではなく国家=権力だ」という、いわゆる立憲主義について「これでもか!」というほど何度も何度も強調されていますね。

田村

  理由は単純。あまりにも立憲主義が今の日本に定着していないからなんです。特に、国家=権力というものが、必要なのだけれどいとも簡単に僕たちの敵になる危険性をはらんでいることについての意識が極端に欠落している。権力批判を使命とするはずのマスメディアにおいてさえ、です。
 僕は、授業や講演をするときに「憲法は何のための法律ですか?」といったアンケートをとっているんですね。もう4000通ぐらい回答が集まったのですが、そのなかで「憲法は公権力をコントロールして国民の人権を守るためのもの」と答えたのはたった2人です。1人は大学時代に憲法の勉強をしていた高校の政経の先生、もう1人はその先生のもとで教育実習を受けていたある大学の法学部の学生だった(笑)。
 アンケートには「国民は憲法を守る義務を負いますか?」という設問もあります。立憲主義の原則からすると、憲法を守る義務を負うのは公権力の担当者である政治家や公務員などになります。だから憲法99条は憲法尊重擁護義務を負う人のリストから国民を意図的に外しています。でも、それを理解している人もほとんどいない。社会科の先生たちの集まりでアンケートをとったところ「憲法とは公権力をコントロールするための法律だ」と答えた方はいたのですけど、「国民は憲法を守る義務を負わない」と答えた人は皆無でした。
 これが僕たちの憲法意識の現状です。

編集部

  最近、改憲派の学者や政治家からいわゆる「新しい憲法観」に関する話がよく出ます。簡単に言えば、憲法には国家への縛りだけでなく、「国をまもる責務」など国民の義務なども書き込むべきであり、国家と個人は対立関係にあるものではないというものですが、これは立憲主義と真っ向から対立する考え方ですよね。

田村

  そういう憲法に改めることは理論上可能でしょうが、日本の憲法意識の現状からすればけっして望ましいことではない。逆に「憲法には権力のコントロール以外の役割を持たせてはいけない」ともっともっと強調すべきだと考えます。
 自民党が2005年10月に発表した新憲法草案では、前文で「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有」することが明記されていて、同草案12条には「国民は、これ(編集部注 憲法が国民に保障する自由及び権利)を濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴う」と書かれています。
 現在の憲法第12条も、自由と権利の濫用を禁止し、「公共の福祉」のために自由と権利を用いる責任が国民にあることが書かれています。でも、現憲法の言う「公共の福祉」は自分が享有するのと同じ他の国民個人の権利利益を害さないことを求めるものであるのに対して、自民党の新憲法草案は「帰属する国家」を支える「責務」に反しないように人権は行使されるべきだとしています。結果的には国家=権力を利し、国民に不自由を強いることになりかねません。
 こうした憲法観は、国家=権力と国民の人権は決して対立するものではないという前提に立っているのでしょう。国家=権力と個人の緊張関係への意識が希薄な僕たちには、とても耳触りがよく、受け入れやすいんです。実はこういう考え方は新しくもなんともない。むしろ、日本でずっと受け継がれてきた「古くからの憲法観」と言ったほうがいい。この心地よさに潜む危うさに敏感でいる必要があります。日本にだって国家=権力の濫用や怠慢の例は事欠かないのですから。

国家=権力の危険性を示した
草彅剛さんのケース

編集部

  一般の人にとっては、ふだんの生活の中で国家=権力を意識するような機会は少ないのかもしれませんし、そういった事態に直面しても国家=権力の存在に気づかない人も多いのかもしれません。それが「新しい憲法観」を支える一つの要因になっているのではないでしょうか。

田村

  そうですね。多くの人は、国家=権力は人権を与えてくれて、僕たちをまもってくれる頼もしい「正義の味方」だと思っています。でも、必ずしもそうでないことを、SMAPの草彅剛さんのケースで感じ取った人もいたのではないでしょうか。
 酔って外で裸になることは論外です。でも、それで公然わいせつ罪で逮捕されたうえに家宅捜索までされたことについては、疑問を持たなくてはならない。憲法35条によれば、逮捕された案件に関しては令状なしに家宅捜索ができますから今回のケースも法律的には問題ない。でも、公然わいせつ罪に関して、いったい何を家宅捜索する必要があるのでしょうか。想像の域を出ませんが、捜査当局は薬物使用等の疑いを持っていたのかもしれません。でも、そこで「なるほど」と納得してはダメ。もし想像が正しいとすれば、薬物の有無を確かめるために家宅捜索をするには、別に令状が必要です。だから「薬物を使用しているかもしれないと思ったので家宅捜索をした」と警察がけっして言わないところに注目してほしいんです。

編集部

  逮捕したこと自体、それから家宅捜索に関しても「やりすぎだ」という意見が一般の人も含めては多いようですね。

田村

  全国から抗議の声が殺到したと聞きます。ミーハーでもいいんです。公権力の過剰な行使に対して、多くの人が「それはおかしい」と感じ取り、声をあげたことが大切です。
 「自分には関係のない話」ではないのです。「安心安全という公益」のために警察や検察が頑張り過ぎてしまった結果が、過去の数多くの冤罪事件につながっているのですから。治安という公益を実現するために警察や検察は必要ですが、そのことを常に意識する必要があります。

「権力に余計なことをさせない原理」と
「それを実現させる仕組み」

編集部

  立憲主義については、考えなくてはならないのと同時に、それを実現する努力も必要だと思いますが、具体的にはどうすればよいのでしょうか。

田村

  繰り返しますが、立憲主義とは「権力を規制する」「その手段として憲法を定める」という考え方です。でも、それを実現するには権力を使わなくてはならないんですね。そこが難しいところです。僕たちが「使う」というところが大事です。
 憲法が掲げる人権の多くは、表現の自由(21条)を筆頭とした自由権、国民の代表府である国会でも数に物を言わせて少数意見を弾圧してはならないことを求めるものです。憲法は、国民が訴訟を起こせば当該事件の解決を通じてそれを阻止する権限を違憲審査権として裁判所に与えています(81条)。

編集部

  これらの権利を使って、異議申し立てをすることができるということですよね。

田村

  25条の生存権はどうでしょう。生存権はか弱き国民を頼もしい国家がまもってくれる権利ですから、僕たちの「古くからの憲法観」によくマッチする耳触りのいい人権です。でも、国家=権力に余計なことをさせないのではなく、国家=権力に弱者を保護してもらう生存権は立憲主義に矛盾すると理解をする人もいます。
 確かに生存権は特殊な人権です。裁判所による保障は容易ではなく、国民が政治の力を使って国会に働きかけて法律を充実させていかなければならないからです。国家=権力は憲法に規定があれば放っておいても生存権を保障してくれる頼れる味方ではありません。派遣村の活動を支援したり、デモに参加したり、僕たち主権者が国家=権力にアピールしなければならない。

編集部

  雨宮処凛さんや湯浅誠さんたちが、運動をすることで、政治を動かし派遣法の改正につながったことや、今国会で審議されている補正予算に、生活保護にいく手前の人たちに対する、仕事や住まいを失った人への手当など、低所得・貧困対策がかなりの割合で盛り込まれたことなどは、まさに25条を使って、国が怠っていた政策にてこ入れをした、ということですよね。

田村

  誰もがそうした活動に参加できるわけではありません。でも、もっと小さなことでもいいと僕は思います。生存権の保障が問題となった裁判について論じる学生に必ず訊きます。 「それで、この人の生存権を保障するために、君の持っているそのペットボトルのお茶にあといくら消費税かけていい?」 一度自分の財布と相談して真剣に考えたことがあれば、選挙の時に「福祉目的に限定するから消費税率を上げさせてほしい」と主張する人に投票すべきかをもう一度考えることができます。
 「国民にとって必要なことは国家=権力を使って実行させる」ということは、「福祉目的に限定しないなら増税してはいけない」というふうに、「必要なこと以外は国家にさせない」のと同義です。だから、立憲主義とも矛盾しないと僕は考えます。
 このように立憲主義を実現する仕組みを憲法はすでに用意しているわけです。だから、けっして簡単なことではありませんが、「権力に余計なことをさせない原理」と「それを実現させる仕組み」の両方を、僕たちがマスターする以外にないのです。

編集部

  一般の人にそのことを伝えていくのはなかなか難しいことですが、重要なことですね。それで、マガジン9条としては、そろそろ9条の話にも入りたいのですが(笑)。

田村

 あ、そうでしたね(笑)。僕は、9条は変えないほうがいいという立場ですが、「条文だけ守って、中身はどうでもいい」というようにしか見えない最近の護憲論や運動には絶対に与したくないんです。そんな護憲論よりも、改正論のほうが見るべきところが多いとさえ思うこともあります。だから、僕は自分のことを護憲派とは言わないし、言われるのも嫌なんです。

編集部

  おっと、これは腰を据えて聞かなくてはならない展開になってきました。護憲派への批判・提言も含め、次回はじっくりと憲法9条についてお聞きしたいと思います。

その2へつづきます

「9条は変えないほうがいいと思うけれど、
護憲派とは呼ばれたくない」−−田村さんのその言葉の意味は?
次回、「護憲」「改憲」について、9条について、
さらにお話を伺っていきます。

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