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この人に聞きたい

090520up

田村理さんに聞いた(その2)

最近の護憲論や運動は
「条文至上主義」になっている

9条だって(25条のように)道具として使わないと意味がない。
条文を守るだけの運動には、与したくない。
そう語る田村さんにその真意を詳しくお聞きしました。

たむら・おさむ
専修大学法学部教授、憲法学者。1965年、新潟県生まれ。明治大学法学部卒業。一橋大学大学院法学研究科博士後期課程修了。福島大学行政社会学部助教授、専修大学法学部助教授を経て、2007年より現職。著書に『僕らの憲法学』(ちくまプリマー新書)、『国家は僕らをまもらない』(朝日新書)、『投票方法と個人主義――フランス革命にみる「投票の秘密」の本質』『フランス革命と財産権』(共に創文社)がある。

僕たちが、憲法を道具として
どれだけ使えるかが重要

編集部

 前回、田村さんは「自分は9条を変えないほうがいいという立場だけど、最近の護憲論や運動には与しない」と言われました。その理由として、最近の護憲論や運動が「条文だけ守れば、中身はとりあえずどうでもいい」というようにしか見えないことをあげましたが、もう少し詳しく教えてください。

田村

 僕が批判する護憲派とは「9条の条文が変わらなければいいから、自衛隊や日米安保などと9条の矛盾をどうするかは当面議論しない」という考えの人たち、「中身はどうでもいいから改正しないために大同団結しましょう」と主張する人たちのことです。こう言いますと、多くの人は「自分は違う」と思われるでしょうね(笑)。でも、地方の9条の会等で、後にふれる2007年5月3日付『朝日新聞』の社説を批判すると、「理想はそうだけど、現実はね」という反応を多くもらいます。そんな方々は常識的な人たちですが、僕が批判する護憲派の可能性が高いんです。9条って、これ以上ないぐらい「非常識」なのですから! 何がどう「非常識」なのかは、後で言いますが。

編集部

 んー、これは読者から反論がたくさん来そうですが、言論弾圧するわけにはいきませんので(笑)、続けてください。

田村

 9条に限ったことではないのですが、憲法論議でありがちなのは「条文ではこう書かれている」とか「こういう条文にすべき」というレベルの話で終わってしまうことです。肝心なのは「憲法の条文で定められているとおりに国家=権力を動かせるかどうか」「国家=権力に条文どおりに行動させるにはどうしたらよいか」です。憲法は「使ってなんぼ」なわけで、僕たちが道具としてどれだけ使えるかが重要なんです。
 9条も同じこと。本来ならば、護憲派のほうから、9条の理念と自衛隊が海外に派遣されている矛盾をどうやって解消するのか、自衛隊や日米安保を将来どうするのかといったことについて問題提起をすべきです。ところが、現状(自衛隊や日米安保)を全て肯定しながら、とにかく「素晴らしき9条は変えてはいけない」と言う。こうなると、9条はまるで拝礼の対象です。「教育勅語」がそうであったように。何かを拝み、すがりたい気持ちは分かります。でも、9条を拝んだら国家=権力が日本を平和にしてくれるのでしょうか?

編集部

 条文を変えないことが「目的化」してしまっていると?

田村

 はい。もちろん、これまで条文を変えないことには多大な意味がありました。9条があるからこそ、日米同盟や自衛隊の海外派遣が現状で留まっているのですから。国家=権力に余計なことはさせないという、まさに立憲主義的な歯止めの役割を、9条は果たしてきたわけです。でも、今後も「条文をまもりましょう」というだけの運動を続けていては、9条を歯止めとして使うことのできる国民を育てることはできないでしょう。9条そのものの魅力にすがるのはもうやめるべきです。9条を生かすも殺すも僕たち次第。僕たちは主権者であり憲法制定権者なのですから。だから責任も重いのです。

「現実主義的護憲論」や
「大人の知恵論」には乗れない

編集部

 9条も日米安保も自衛隊も矛盾しない、だから9条は今のままでよいという「現実主義的護憲論」、または「大人の知恵論」とでも言うべき護憲論があります。これについてはどう思いますか。

田村

 「つまらない大人にはなりたくない」(「ガラスのジェネレーション」1980年)って佐野元春の歌が頭の中に響きます。『朝日新聞』が2007年5月3日の紙面で21本もの社説を用意して「提言 日本の新戦略」と題した記事を掲載しました。この種の「現実主義的護憲論」は立憲主義を棄て去る棄憲論に陥ります。それでもこれを批判できないのだから、護憲派の敗北宣言と呼ぶにふさわしいと思っています。
 記事では、「過去の朝日新聞の世論調査からは、九条も自衛隊も安保も、ともに受け入れる穏やかな現実主義が浮かび上がる。国民の多くは『憲法か、自衛隊か』と対立的にはとらえていないようだ。国民の間に、基本的なところでのコンセンサスが生まれ、定着してきたと言える」ということを大前提にしています。そして、世界情勢の変化、国民意識の変化、活動の実績を理由に、国連平和維持活動(PKO)を自衛隊の役割にすべきだと主張。さらには、憲法とは別に一般の法律で平和安全保障基本法を制定して、「最小限の防衛力として自衛隊を持つこと」「非核の原則」「PKOに積極的に参加する方針」「文民統制」を明確にすればよいとしています。

編集部

 『朝日』以外でも、9条と自衛隊の整合性をとるために、法律で自衛隊を明記すればよいとう考え方はありますね。

田村

 9条を変えないという点では、僕も『朝日』の主張も同じですが、どうしても支持できない。なぜかといえば立憲主義の視点が皆無だからです。自衛隊という憲法からは読み取れない権力機構を一般の法律で創ってもよいとなれば、立法権への憲法による拘束はなくていいということになります。そうなれば、今の自公政権下でも、憲法をそのままにして自衛隊の位置づけや役割を大きく変える法律が制定できてしまいます。最高法規である憲法はいらないということになるわけですね。憲法も自衛隊もそのままにしておいて、両者の「溝」を法律で埋めようとするのは、憲法を棄て去る行為です。

編集部

 国の根幹に関わる問題は、やはり憲法できっちりと規定すべきということですね。

田村

 また、世界情勢や国民意識の変化を理由に、かつてはあれほど反対していた自衛隊の海外派遣を朝日が認めてしまったことは、「現実主義」というよりは「なし崩しの論理」でしかない。これがまかりとおってしまえば、「世界情勢や国民の意識が変わった」からと、いずれ集団的自衛権の行使も認められてしまうでしょう。
 この種の護憲論には、理想を目指す意志が全く感じられない。憲法は、国家=権力の現実を本来あるべき姿に近づけるためにあるはずなのに。そして、あえて厳しい言葉を使わせてもらえば「卑怯」です。徴兵も行ないません、戦争はしません、だから国民は戦争に巻き込まれません、でも国は僕たちを守ってくれるはずだし、国際貢献は必要だから自衛隊さんは頑張って……。ご都合主義的で、僕たちが負うべきリスクや責任も知らないふりです。この卑怯さには皆が気づいている。だから鼻白む改憲派の批判に正面からこたえられる護憲派は少ない。これこそ護憲派のアキレス腱です。護憲派がなすべきことは、中身を問わない「大同団結」などではなく、9条が目指す理想とは何か、それを実現するために何が必要かについてのコンセンサスを見解の対立の中で鍛え、リスクも含めて国民に誠実に説くことではないでしょうか。

来年5月に法律が施行されれば、
国民投票を阻止することはできない

編集部

 国民投票の話が出ましたが、護憲派の間でも色々な考え方があります。実際、マガジン9条のスタッフの中でも国民投票をどう捉えるかについての意見はさまざまです。

田村

 いま確実に言えることは、来年5月18日の国民投票法施行後は法的にはいつでも国民投票が可能になるということです。もちろん、衆参両院の3分の2以上の賛成によって改正案が発議されなければならないので、そのときの政治状況が大きく関係してきます。また、改正案を審議するための憲法審査会はこの2年間1度も開かれていないし、18もある附帯決議(注)の議論も詰め切れていません。でも、附帯決議がそのまま放置され、憲法議論が盛り上がらなくても、法施行以降は、一定の手続きを踏めば、いつでも国民投票は可能です。

編集部

 例えば、自民党を中心とする改憲勢力が憲法改定案を準備しておいて、国民投票法施行以降で、タイミングを見計らって一気に発議・投票へと進めることも可能なわけですね。

田村

 そうです。僕が想定する最悪のケースは、国民投票法施行により改正が既定路線となり、あっという間に改正案の発議や国民投票という展開になることです。僕たちが立憲主義について学ぶこともなく、考えることもなく投票をむかえるのだけは避けたいのですが……。

編集部

 9条をはじめ国論を二分する問題を国民投票で決めるという考え方は正しいと思いますが、気になる点があるのも事実です。例えば、本当に「決着」がつくのかということです。

田村

 と言いますと?

編集部

 「自衛軍を保持して集団的自衛権も認める」という改憲案が国民投票で過半数の支持を得れば、軍備が拡大され、自衛軍はどんどん海外に行くことになるでしょう。これは分かりやすい決着です。では逆に、その改憲案が国民投票で否定された場合はどうかと言えば、「現状維持」となる可能性が高い。つまり、自衛隊も日米安保も今のまま。これでは、護憲派にとって国民投票はリスクばかりで、やる意味がないという考えです。

田村

 そのとおりですね。でも、そういう「決着」のあり方は護憲派のあり方と対応するのではないでしょうか。何しろ現在は、護憲派から9条の理念を実現するための積極的な提言をできるような状況には全くないですよね。自衛隊や日米安保をどうするのかといった具体的な議論も提言も護憲派側が放棄しているのですから、国民投票で改憲案が否定されても、現状維持や解釈改憲が進んでしまうのは仕方がないことです。だからこそ、それは「戦争の放棄」ではなく「立憲主義の放棄」だと批判せざるを得ないのです。

9条と現実の矛盾を認めたうえで、
理想に近づける努力をしていくべき

編集部

 では最後に、「現実主義的護憲論」でもなく「大人の知恵論」でもない、田村さんの9条護憲論をお聞かせください。

田村

 9条は立憲主義を考えるうえで、とてもいい題材です。例えば、他国が軍事力で攻めてきたとき「国家が国民を守るのは当たり前だ」という考え方には説得力があります。だけど、国家にどう守らせるかは国民が憲法で決めるのが立憲主義です。9条は「戦争をしません」という守らせ方を選んでいるのです。国家=権力が行なう国防とは、国民を使って国をまもる行為であり、そのために何百万人もの国民が犠牲になった歴史がある。そういう形で国民の命を犠牲にさせないというのが9条です。

編集部

 そうなると、9条を持つ限り、「自衛権」も「自衛のための戦争」も認められないことになりますね。

田村

 他国からの武力による攻撃を武力で防ぐことが自衛権なのだから、憲法9条が「戦力を持たない」と言っている以上、自衛権を持つことも、自衛のための戦争も認められない。国際法上、主権国家である日本に自衛権があることは間違いありません。だから、他の国が日本に「反撃するな」などいうことはできません。でもそのことと、9条が国家=権力に自衛目的であれば戦争を行なう権限を授けているかどうかは別問題です。9条ってそれほど「非常識」。だから価値があるのです。
 僕が9条改正も現実主義的護憲論も支持しない理由は、「戦争のない世界」という青臭い理想をどうしても捨てられないということに尽きます。とても非常識なことはしっかり自覚しています。それでも、自衛のための戦力を持ったまま「戦争はやめましょう」と言っても説得力があるとは思えません。だから、自衛隊は憲法違反だから縮小する努力をコツコツとやっていく、戦争をなくすためにもっともっとタフな外交能力を身につける、これしかないと思うのです。もちろん、9条の目指す日本は、万が一他国から攻められても抵抗しない国家なのですから、国民の命が犠牲になることも覚悟しなければなりません。
 「それでは不安だ」「だから軍隊を持とう」というのが主権者国民の意思ならば、9条を改正して、どのような権限を国家=権力に授けるかをしっかり憲法に定めればいい。それもまた立憲主義のあるべき姿です。
 一市民として僕は改正に反対します。でも、そんなことは取るに足らないことです。「国家=権力に必要な権限を授け、それ以外のことはさせない制限を課すことのできる能力をもった国民」を創出することの方がずっとずっと大切だと考えます。
 そして、今その能力を示すべきなのは護憲派の方々です。

主権者である国民が、
「国防をどのような形にするか、国にどのように国民を守らせるか」を決めて
それを守るよう縛りをかけているのが、9条なのです。
そのような立憲主義の立場から、9条の問題や運動についても、
改めて国民ひとり一人が考える時期にきています。

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