日本はサンフランシスコ講和条約※を受諾して独立を回復しました。だから、その講和条約に先立ついまの憲法、なかんずく9条はアジアや世界に対する日本の国際公約とでも呼ぶべきものなのです。 ※編集部注:「サンフランシスコ講和条約」の正式法令名は「日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan)」。全文はこちら 出典元「日本の法令デジタル録音図書」 戦後60年経ったいま、9条を放棄するということは、「戦争はもう二度としません」というその公約を破る、さらにはサンフランシスコ講和条約をも公然と踏みにじるということです。これは、ちょっと過激に言うと、宣戦布告にも等しい行いですよ。 それでなくても日本はいま、小泉首相の靖国参拝強行でアジアからの信頼を失おうとしています。小泉首相は「二度と戦争をしないと誓うために参拝している」などと言い訳しています。じつに巧妙な言い訳で、近現代史を知らない人ならコロッとだまされかねない。でも小泉首相は、「二度と戦争はしない」と明言しておきながら、その同じ口で一方では「アメリカのイラク侵攻を支持する」と言ってのける。どっちの発言が本当なのか? 一国の政治リーダーとしてはあまりにもことばが軽すぎます。 そんなことだから、「二度と戦争しないために靖国に参拝する」なんていう矛盾したことが平気で言えるのでしょう。 あのコメントの前にあったのは「中国には中国の、韓国には韓国の立場がある。それぞれの国がそれぞれの死者に対してどのように弔おうとも、私は文句は言いません」ということば※でした。被害者が加害者に向かって抗議しているのだという基本がまったく分かっていないのです。 ※(平成16年2月10日第159回衆議院予算委員会 第7号会議録より) 小泉内閣総理大臣 (略)今日の日本の平和と繁栄は多くの戦没者の犠牲の上に成り立っている。こういう、心ならずも戦場に赴いて命を失わなければならなかった方々、こういう方々に哀悼の誠をささげたい、家族を残し、あえて命を失った方々に敬意と感謝をささげたい、そして、二度と戦争を起こしてはいけないという気持ちで靖国神社を参拝しているのであって、私は、日本に死者までむちを打つという感情は余りないのではないか。 中国には中国の立場があります。韓国には韓国の立場があります。しかし、死者を弔うことについて、韓国、中国がどのような対応をとろうとも、私は文句を言うつもりはありません。批判をするつもりはありません。日本の一つの伝統といいますか、歴史を大事にする、二度と戦争を起こしてはいけない、そして戦没者に対する哀悼の誠をささげるというのは、私は人間としても自然な感情ではないかと思います。そういうことについて、よその国から、ああしなさい、こうしなさいと言われて、今までの気持ちを私は変える意思は全くありません。 アジアの人々からすれば、日本がA級戦犯や戦争を主導していった人々ばかりを祀り、戦争に反対して特高警察※に殺された人など、戦争被害者の名誉回復にはまったく無関心でいることも不思議でならない。これでは日本がいくらことばで過去の過ちを謝罪しても、アジアから信用されっこないですよ。 ※編集部注:特別高等警察の略称。戦前の日本で天皇制政府に反対する思想や言論、行動を取り締まることを専門にして秘密警察のこと。 そんな日本にとって、アジアに信頼され、ともに手をつなぎあえる最後の細い糸とでもいうべき存在が9条なんです。9条という歯止めがあるからこそ、アジアは日本がいくら自衛隊を増強しても安心していられたのです。その大切な切り札をいま、日本国民はみずから葬ろうとしている。これはアジアにとっても日本にとっても大きな損失でしょう。どうしてこんなに貴重な9条を捨ててしまいたいのか、本当にもったいないですね。 私は、9条が求める人間像のサンプルは、ペルー公邸人質事件のときの、国際赤十字のミニングさんだと思うんです。ゲリラ側の銃口と、政府側の銃口のあいだを、赤十字のゼッケン1枚だけで何度も行き来し、交渉に当たった。あの姿が、国際社会が日本に望む姿だったと思うんです。でも日本は、一度としてそういう姿勢を具現化したことがありません。 暴力でコントロールするというのは最後の手段で、かつもっとも簡便な手段ですよね。これって一度やってしまうとすごくおいしいんです。人間関係でゴチャゴチャ苦労するより、叩けば済むわけですから、どれほどラクかわからない。今、日本はそのラクな方向にどんどん向かっているのではないでしょうか。