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この人に聞きたい

090318up

中島岳志さんに聞いた-その2-

9条と「絶対平和主義」をどう考えるのか

「保守」「革新」という思想を改めて定義した上で、
ご自身を「保守派」だと位置づける中島さん。
その視点から、憲法論議や9条の意義を、
どのように捉えているのでしょうか?

 

なかじま・たけし
1975年生まれ。北海道大学准教授。専門は、南アジア地域研究、近代政治思想史。著書に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)、『中村屋のボース−インド独立戦争と近代日本のアジア主義』(白水社)、『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)、西部邁との対談『保守問答』(講談社)、姜尚中との対談『日本 根拠地からの問い』(毎日新聞社)など多数。「ビッグイシュー」のサポーターであり、「週刊金曜日」の編集委員を務めるなど、思想を超えて幅広い論者やメディアとの交流を行なっている。

9条の改正は、
日米安保の根本的改正とセット

編集部

 前回、保守とは、革新とはそもそもどういう思想なのか、というお話を伺いました。中島さんはご自身を「保守派」だと定義されてますけれども、その立場からの憲法観、9条観について、まずお聞かせいただけますか?

中島

 まず、憲法というものを考えたときに、保守と革新ではどういう違いがあるのか、ということです。「憲法とは何か」を考えるとき、近代立憲主義では、憲法を「国民による権力への縛り」と見なします。つまり、国民が権力に対して、たとえば「思想を弾圧してはいけませんよ」とか「侵略戦争をしてはいけませんよ」とか、縛りをかけているのが憲法です。この点で、保守と革新は合意します。しかし、革新勢力がそこで考える「国民」は、今生きている国民ですよね。それに対して、保守の考える「国民」は、過去と未来の国民も含むわけです。つまり、そこの国のかたちや歴史が権力を縛ってるんだと、そう考えるわけです。
 英国などは、その考え方を突き詰めるがゆえに成文憲法がない。つまり、ある一時の国民の政治的コンセンサスが、未来の国家を縛っていいのか、それはおこがましいんじゃないか、と考えるわけですね。だから、「この国のかたち」や歴史感覚が政府を縛っている、その大前提がしっかりしていれば、憲法なんて成文化する必要がないというのが英国の発想なんです。
 僕は、それは日本では難しいと思うし、成文憲法はあったほうがいいと思っています。しかし、保守としての立場からは、やはり、過去のある一点において理想的な理念が確立されたとは思えないし、考えない。だから、憲法も漸進的に状況に応じて変化するべきだし、どういう憲法が、今の時代にふさわしいのかというのは、歴史感覚に依拠しつつ、やっぱりその時々の状況判断や国会での討議などを経て、国民規模で考えていくべきだと思います。もちろん、9条についても同様です。
 それは、戦争がしたいからじゃなくて平和を守りたいから。政府に対して「不必要な戦争をするな、俺達を正当性のない戦争に巻き込むな」「とにかくぎりぎりまで外交努力をしてくれ」と言いたいからです。

編集部

 では、その「今の時代にふさわしい」9条とは、どういうものだとお考えですか?

中島

 手放しの形の絶対平和主義というのは、保守の立場からはやっぱりとらないですよね。僕もそれはとっていなくて、主張しているのは「戦略的な9条保持」と言えると思います。
 将来的には、9条で自衛隊を認めるべきだというのが僕の持論です。それは、そのほうが自衛隊が暴走しないシステムをつくれると思うから。ちゃんと自衛隊の存在を明記して、その上で縛りをかける。どういうものが侵略戦争ではない正当な自衛として認められるのかという定義をきちんとする。そうした上での9条が、僕は平和をもたらす要素だと思っているんですね。

編集部

 でもそれは可能でしょうか? “自衛戦争”の定義は、難しいですよね? イラク戦争もテロからの自衛ということで始まりましたし、ほとんどの戦争は“自衛”で始まります。明確に規定できるのか、どうか・・・。

中島

 ええ、難しいですね。本質的には侵略の定義も自衛の定義も、いまだにできていない。なぜかというと、これは為政者のある種の感覚に委ねられていますから。つまり何が脅威かというのは、極めて感覚的であり主観的なものです。例えば、北朝鮮がミサイルの実験をした、これは日本の国防にとって脅威であると為政者が考えれば、自衛のために武力を発動することも、自衛戦争だという論理が成り立つわけです。これが一番危険なところではあります。脅威の感覚が主観に依拠する以上、どうしても自衛/侵略の客観的な定義は難しい。個別的な主観を定義することは出来ませんからね。
 しかし保守としては、それもまた最終的には、為政者の経験値や常識とかいうものからくる「バランス感覚」によって判断せざるを得ない。そして、その感覚は、歴史の風雪に耐え、国民の良識として培われてきたものと見なければならない。

編集部

 今の政治家たちの面々を思い浮かべると、とても彼らの「バランス感覚」に期待できるはずもないのですが・・。安全保障についての彼らの感覚や主観は、「まずアメリカありき」ではないのでしょうか?

中島

 ですから、現状から言うと、僕は現段階において9条を変えるべきではないと思っています。現在の日米安保のもとで9条を変えてしまうと、日本の主権が侵されてしまう。イラク戦争のときのようにアメリカに従わざるを得ないということが続いてしまう可能性が高い。日本がちゃんとアメリカの軍事的オペレーションへの参加に抵抗できる根拠は、今のところ9条しかないわけですから。
 だから、僕がずっと言い続けているのは、9条の改正は日米安保の抜本的な改正と同時でなければならない、セットでなければ成り立たないということです。今は部分的な発言だけをとらえられがちなので、「なんで保守派なのに9条を守れと言うんだ」とか言われたりするんですけど。

「改憲」「護憲」というマジックワード

編集部

 ここ数年は、9条をめぐっての「改憲」「護憲」の論議も活発な時期がありましたが、それをごらんになっていて、どんなことを感じられましたか。

中島

 まず、一つあるのは、仮に僕が絶対平和主義を支持していたなら、たとえばイラク戦争のときに、「9条を変えろ」という主張をしたんじゃないかな、と思います。戦力の不保持を謳いながら、同時にイラクに戦力を送っている、あんなことが絶対出来ないようにしよう、と。絶対平和主義を本当に保持するためには、そういうことを許さない9条にすればいいんじゃないか、という発想をもったはずです。とにもかくにも現行の9条のもとで、現に自衛隊がイラクに派遣されたわけですから、そういうことが絶対に出来ない9条に「改憲」すべきと主張するのが筋だと思います。9条を守って、平和が侵されているなら、本末転倒ですよね。

 しかし、実際には「平和主義」を掲げる左派からも、そういう声はそれほど上がってこなかった。それは、「改憲」「護憲」というマジックワードにみんな足を引っ張られているからじゃないか、と思います。大切なのは護憲という言葉ではなくて平和を守ることなんですよね。そういう視点から議論がしたいと思います。
 そもそも、同じ「護憲派」でも、本当に自衛隊をなくしたいと考えているのか、今の9条も最小限の国防のための、専守防衛の自衛隊は認められると考えるのかによって、立場は全然違うわけですよね。それが「護憲」という言葉によって、覆い隠されてしまっているのだと思います。

編集部

 たしかに、「護憲」「改憲」という言葉はやや安易に使われがちですし、そうした指摘はしばしば聞かれますね。

中島

 一方で、右派もおかしいなと思うのは、憲法を「政府が国民を統制する」ものにしようとしていることです。これは本末転倒です。
 近代立憲主義においては、憲法は権力を規制するための国民の側からの縛りなわけですよね。だから、一般国民は憲法に違反できない。憲法99条(*1)に書いてあるように、憲法を守らなくてはならないのは公務員、権力の側なんです。一部の右派の改憲論は、その近代立憲主義の大前提を変えてしまうものなんですよね。
 同じように、「憲法の大前提を変えてしまう」という意味で、もっと危険性が認識されるべきだし、左派の人にも批判されるべきだと思うのは、小沢一郎の発言です。彼は「国連中心主義」と言っていますよね。イラクへの自衛隊派遣は国連の合意がないアメリカの政治判断に基づくものだから認められないけれど、アフガンへの派遣は国連のオペレーションである。そして、日本は国連に加盟していて国連憲章のもとにあるわけだから、国連決議に基づいたところに派遣するのがどうして憲法違反になるのか、と。これは実は、憲法の根源にかかわるところで論理を大きく間違えているんです。

(*1)憲法99条:天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。

編集部

 憲法と国連憲章の関係性という点ですか?

中島

 憲法98条を読んでいただけばすぐに分かると思います。98条(*2)は、第1項で「憲法が国家の最高法規である」と書いています。そして第2項で条約とかはちゃんと守りますよ、と言っていますね。
 これは、憲法と条約や国際法、国際規約のどちらが上かというと、憲法なんだという前提をはっきりと示しているわけですよね。つまり、憲法違反の条約とか国際規約が出てきたときには、主権国家である以上は国家の内部の憲法を優先しますということ。これを崩すと「何でもあり」になってしまいます。憲法よりも日米安保、国連の規定が上だということになれば、日本の主体性はなくなって、他の国に追随しなくてはいけなくなってしまう。国家の主権が失われてしまいます。小沢が言っているのはそういう、憲法の根源を変えること。ただアフガンに行くのがいいか悪いかという問題ではないんですよ。

(*2)憲法98条:この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2)日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

ガンディーの思想と9条が持つ
「非暴力非武装平和主義」の可能性

編集部

 先ほど、中島さんは「絶対的平和主義はとらない」とおっしゃいましたが、非武装の絶対的平和主義としての9条というのは、「非現実的だ」とか「楽観主義すぎる」と批判されるばかりで、これまで実は十分に論議されてこなかったのではないか、という気がします。
 そこでお聞きしたいのですが、中島さんは注目する歴史上の人物としてインドのマハトマ・ガンディーをしばしば取り上げ、単なる「歴史上の偉人」ではなくて、たった60年前に生きて活動した一人の政治家として注目すべきだと主張されていますね。ガンディーはインドの英国からの独立闘争において「非暴力・不服従闘争」を訴えたことで知られていますが、「自分は絶対平和主義はとらない」という中島さんが、あえて彼にこだわるのはなぜなのでしょうか?

中島

 僕は、ガンディーの主張を、本当にこの社会で実現できるとは、一度も思ったことがないんです。にも関わらず、ガンディーが重要だと思うのは、彼自身も「自分の言っていることを完全に実現するのは難しい」なんてことは、よくよく分かっていた。そのことが、彼の書いたものなどをじっくり読むうちに分かってきたからなんです。

編集部

 それはどういうことでしょうか?

中島

 生身のガンディーと、ガンディーが生きようとした理念の間には、ギャップがあるんですね。ガンディーは、ガンディーの理念を生きられなかった人なんです。妻との葛藤や家族の苦しみといった問題もあったし、晩年に至っては、自分に「性欲がない」ことを示すために、西洋人の若い女性を横に裸で寝かせるなんてこともやった。それは、決して悟りを開いてなんていないから。もしかしたら自分にはそういう欲望があるかもしれないという疑念があるが故に、それを乗り越えようと試行錯誤したわけですよね。
 その、マハトマ・ガンディーという「思想」と、ガンディーという「人物」の間には距離があるということが、彼の示そうとしたことだったと思うんです。だから彼は晩年に「My life is my message」と言った。自分のメッセージは観念的で抽象的な思想にあるのではなく、自分の生きてきた道だ、矛盾も葛藤もいろいろあったその人生を見てくれ、ということですよね。

 それに、ガンディーは彼が考えたような人間社会の理想が一気に実現するなんて、まったく考えていなかった。彼が何度も言っていた言葉に「良いものはかたつむりのように進むのです」というものがあります。つまり、急進的な革命なんかよりも、漸進的な改革をせよということで、ある種の保守主義的な部分がある。同時に、「私ができることは自分の手で触れるものの範囲です」とも言っていて、だから村落社会の中で、自分でチャルカ(糸紡ぎ車)を回すことにこだわった。理念というものは、自分の生きている身近な世界で、一つ一つの物事と具体的に関わる中で、諸価値の葛藤の間からこそ生まれてくるんじゃないか。それが、ガンディーという人の根本にあった発想なんです。
ですから、ガンディーは、人間の限界、能力の限界、理性の限界を深く理解していたのです。そして、その限界を謙虚に受け入れた上で、人智を超えた神や歴史的伝統に依拠して、漸進的な改革をしていこうとした。具体的な共同体を重要視し、国家と個人の間にある中間団体での人間交際を重要視した。
 そして、ガンディーはものすごい葛藤と苦しみと矛盾を抱え込みながら生きようとした人でした。欲望を完全に捨て去るなんてことは不可能だと分かっていて、しかしそれに届くような人間の努力は必要なんじゃないのか、と考えていた。物質文明におぼれ、快楽を全面的に肯定するというのはあまりにも野蛮ではないか、メタレベルの理想を掲げた上で、それに少しでも近づこうとする挑戦は続けるべきなのではないかと考え、行動した人物なんです。

 やはり、人間というのはある種のメタ的な理念を持つものです。そして、そこに至らない自己を反省する。福田恆存は「戦後左派は絶対者のいない絶対主義だ」と批判しましたけど、絶対者を置くということは、それに至らない自己の不完全性を謙虚に見つめるという行為です。ガンディーは、そのことを深いレベルで理解していた。

編集部

 私は、昨年末ごろ、中島さんが解説をしていたNHKの番組「マハトマ・ガンディー 現代への挑戦状(知るを楽しむ/私のこだわり人物伝)」を興味深く拝見していました。人間ガンディーとしては、家庭では暴君だったんですね。しかしガンディーが主張し、政治的な手法として使った「非暴力・不服従」による抵抗は、決して「無抵抗」ではなく、「積極的な抵抗運動」として効果があったから、ガンディーの様々な手法の中でもとりわけ強いインパクトを持ち、インド独立のシンボルとなったのだと。そしてガンディーが掲げた「暴力もカーストも宗教対立もない」理想社会は、結局インドにおいて実現しなかったけれども、「究極の理想」を掲げて挑戦し続ける「意志」を持つことは意味があるし、だからこそ「前進」したこともあるのではないか、そう改めて思ったのです。

中村屋のボース
私のこだわり人物伝 2008年12-2009年1月
(中島 岳志 (著))
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中島

 絶対平和主義、あるいは今の形の9条において、可能性があるとしたら、メタレベルにおいてだと僕は思います。つまり、カントの言葉でいう「統整的理念」です。絶対に実現しないけれども普遍的なある理念を掲げることで、そこから自分と自分たちの社会を逆照射し、それに近づこうとする意志を持つことができる。実現不可能な究極の目標みたいなものですよね。カントはその統整的理念と、一般的な理念(=構成的理念)を区別したわけです。それで言えば、平和を守るためにはこうすべきだというベタな理念と、絶対平和主義というメタの理念は違う、ということです。
 柄谷行人さんと議論したときにも、「9条がベタなレベルでの理念として実現できるとは思ってもいない」という話になりました。しかし、それを統整的理念として掲げることによって、現実を批判し続けるための指標にできるのではないか、と。そのような方向に向けて、永遠に努力し続ける営為こそが重要なのではないか、ということです。それがおそらく今の9条の持つ可能性であり、意義かもしれません。
 ただし、私はそれを憲法の条文とすることには、疑問があります。憲法は、あくまでも「国民が権力に縛りをかけるもの」です。だから、現実に存在する自衛隊をしっかりと規定することは、極めて重要です。
 9条は「憲法」ではなく、中沢新一さんが言うように「世界遺産」などのほうがいいんじゃないでしょうか。人類が永遠に獲得できない理想として、メタレベルに据えるのがふさわしい。しかし、先程話したとおり、現状では日本の国家主権を守るために、9条を保守したほうが、戦略的にいい。本来は、非対称的で不平等な条約である日米安保を大幅に改正した上で9条を改正し、自衛隊を明記するのがベストだと思いますが。

社会の中の「重層的な居場所」を
つくり直そう

編集部

 さて、最後に、中島さんが今取り組まれている活動についてお聞きしたいのですが。札幌で、商店街活性化の取り組みに関わっていらっしゃるとか?

中島

 大手スーパーの進出でシャッター街になっちゃった商店街をなんとかしよう、というので。僕なりに、一応思想的に抵抗しようと思ってやっています。保守としては、やはり住民の潜在力を引き出し、これまで培われてきた商店街の機能を活かすことも重要だと思うので、商店街の人たちと一緒にカフェをつくって。毎週土曜日はそこでいろんなイベントをやっています。

編集部

 それは中島さんが中心になってやってらっしゃるんですか?

中島

 僕は、あくまでも最初の提案とサポートです。今は商店街の人たちのテンションが高くなって、商店街振興組合が中心となって動いています。いっしょにやっていて、ほんとに面白いですよ。
 地域社会って、「空間で切る」面白さがあるんですよ。たとえば労働運動でも何でも、集まってくるのはある程度同質的な同世代だったりして、それでは多様な価値観に触れられない。ところが地域社会は単に空間で切っちゃうわけだから恐ろしいんです(笑)。いろんな人がいますよ。だからこそ、そこに入って物事をまとめあげていく作業が重要なわけで。ああでもない、こうでもないと、合意形成をしながら経験値を積み上げて、よりまともな社会をつくっていく。そのプロセスが熟議デモクラシーを鍛えるんだと思います。
 いろんなことをやって、それによってまた面白い人が来て、シャッターが閉まってた場所で店を開くとかになっていけばいいな、と。そうして自然発生的に生まれてくる人のつながり、自生的にできあがってくる共同性みたいなものによって、巨大な資本による新自由主義をひっくり返せないかなと思っているんです。

編集部

 お話を伺っていると、松本哉さんがやっている「素人の乱」にとても近いような…。

中島

 近いと思いますよ。僕は極めて保守的な論理から、彼は左でアナーキズム的なところからそこにたどり着いているわけですけど。コミュニティが重要で、対面型のものがデモクラシーを支えると考えている点では同じところがあるんですよね。「素人の乱」には、敬意を持っています。
 今の日本って、ある一つの場所からはじかれたら世界が終わっちゃう、という社会ですよね。学校でいじめられたら世界が終わる、みたいな。そうじゃなくて、Aという場所が駄目ならBがある、そういう人の居場所が複数多様に存在する社会こそが強い社会なんだと思うんですよ。
 今は、国家と個人とが一対一の関係になりすぎているけど、そうじゃなくて、その中間的な部分社会、中間共同体を鍛える。労働組合でも読書サークルでもいいから、人の居場所が重層的に社会の中にある、そういう社会をちゃんとつくり直すことが今、必要なんだと思っています。そこに「保守」も「革新」も関係ありません。

一見対極的?とも思えそうな中島さんと「素人の乱」の、
意外な共通点など、「保守」や「革新」の根底に流れる思想を知り、議論することで、
立場の違いに関係なく大切なことや、打破しなければいけない問題が、
よりはっきりと見えてくる、そんな気がします。
中島さん、ありがとうございました!

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中村屋のボース
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