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2011-03-30up

中島岳志の「希望は、商店街! 札幌・カフェ・ハチャムの挑戦」

第5回

保守派の私が原発に反対してきた理由

世界は普遍的に「想定外」なもの

 福島第一原発の問題が起こってから、何人かのメディア関係者の方から原発についての取材を受けました。それは、私がこれまでに原発に対して批判的なコメントを行なってきたからです。しかし、一方で私は保守派を自認しています。保守思想に基づいて、物事を考え、自分が保守の立場に立っていることを公言しています。この立場と原発反対の言論が、世の中では奇妙なものに映るようです。

 メディアの皆さんは一様に「なぜ中島さんは、保守派なのに原発を批判してきたのですか?」と質問されます。「原発批判は左派の占有物」という発想からなのか、保守派に原発を批判する人が極めて少ないからなのか、私の姿勢は不可解なものに見えるようです。しかし、私としては「保守思想を重視するがゆえに原発には批判的」なのです。保守主義者として思考すると、どうしても原発に懐疑的にならざるを得ないというのが、私の立場です。

 保守思想は「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします。人間はこれまでも、これからも永遠に不完全な存在で、その人間の理性には決定的な限界があります。どれほど人間が努力しても、永遠に理想社会の構築は難しく、世界の理想的なクライマックスなど出現しないという諦念を保守主義者は共有します。

 保守主義者は理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌めます。だから、保守派は人間の理性を超えた存在に対する関心を抱きます。神のような絶対者、そして歴史的に構成されてきた伝統や慣習、良識。保守派は、多くの人間が蓄積してきた社会的経験知を重視し、漸進的な改革を志向します。革命のような極端な変化を志向する背景には、必ず人間の理性・知性に対する驕り・傲慢が潜んでいるため、保守派はそのような立場を賢明に避けようとします。

 保守派が疑っているのは、設計主義的な合理主義です。一部の人間の合理的な知性によって、完成された社会を設計することができるという発想を根源的に疑います。人間が不完全な存在である以上、人間によって構成される社会は永遠に不完全で、人間の作り出すものにも絶対的な限界が存在します。

 そのため、真の保守主義者は科学技術に対する妄信に冷水をかけようとします。人間が設計するものは普遍的に不完全です。人間の技術と想定には絶対的な限界が存在するため、「100%壊れない」ものなど存在しようがありません。そのようなものは神の領域にのみ存在しうるものです。人間は絶対者ではありません。科学技術の領域で「絶対」を語ることは、人間を絶対者と取り違える危険な思考です。

 世界は想定外のもので満ち溢れています。すべてを理知的に把握し、制御することなどできません。世界は普遍的に想定外の存在です。だからこそ人間は、この世界に夢をもって生きることができます。すべてが想定された世界で、果たして人間は喜びを持って生きることができるでしょうか。すべてが理知的に把握され、完全な存在にのみ囲まれて生きることなどできるでしょうか。

 間違いなく、不可能です。人間が人間である以上、そのような社会に投げ込まれると、精神の変調をきたすでしょう。すべてが理解され、あらゆる事象があらかじめ規定されている世界では、生きることの意味は究極的に剥奪されます。人間はそんな世界に耐えることができません。私たちは「想定外」内存在だからこそ、希望を持って生きることができるのです。少なくとも保守思想に依拠する人間は、そのような世界観を共有します。

「安全な原発」などありえない

 さて、原発です。原発を作るのは、もちろん人間です。そのためあらゆる原発は、未来永劫、不完全な存在です。すべての原発は、「想定外」内存在です。だから今回のような事故は、必ず起こります。普遍的に起こりえます。人間が完全でない以上、完全な原発など存在しようがありません。

 しかし、このような認識に立つと、ありとあらゆる科学技術に対する不信が生まれてきます。この不信にのみ立脚すると、すべての技術は停止され、世界は滞ります。

 重要なのは、事故や故障が起こることを前提に、その利便性とリスクを天秤にかけて利用する英知とバランス感覚です。例えば、自動車は普遍的に事故を起こし続けます。日本だけでも年間約5000人の命が失われ、多数の負傷者が出続けています。また、いくら技術革新が続いても、飛行機事故はなくなりません。飛行機に乗ることは、常に墜落事故のリスクを背負うことになります。しかし、私たちは自動車や飛行機を放棄しません。それは、リスクの存在を前提として、そのリスクよりも利便性のほうが上回るという認識を共有しているからです。

 原発も、同様の前提の下で考える必要があります。原発のリスクと利便性を天秤にかけたとき、どのような判断をするべきかを考える必要があります。

 自動車も飛行機も、確かにリスクのある存在です。しかし、原発のリスクはそれらをはるかに上回ります。一旦事故が起こると(事故の規模にもよりますが)、相当程度の国土が汚染され、人間が中長期間にわたって住むことができなくなります。また、周囲はかなり広範囲にわたって放射能の危険にさらされ続け、水や食品に影響が出続けます。長い年月をかけて構成されてきた歴史的景観、人間の営み、農地の土壌。そういったものを一気に放棄しなければならない事態が生じてしまいます。直接的な被害だけでなく、その不安や精神的圧迫感なども考慮すると、そのリスクはあまりにも大きすぎるというのが実情でしょう。少なくとも、原発事故はこの国土を手間隙かけて整備し、守ってきた無名の先祖に対する冒涜であり、歴史を無礙にする暴挙です。

 「安全な原発には賛成」という専門家がいますが、そのような前提は人間が人間である以上、成り立ちません。原発は事故が起こることを前提に考えなければなりません。その時に、私はリスクの高すぎる原発には批判的にならざるを得ません。人間の不完全性を冷徹に見つめる保守思想に依拠する以上、原発という存在には真っ向から反対するのが、保守主義者のつとめだと思っています。

 もう一度繰り前します。私は保守主義者なのに原発に反対なのではありません。私は保守主義者であるがゆえに原発に反対なのです。保守派はいい加減「アンチ左翼」という思考法から脱却する必要があります。「左派の市民派が原発に反対だから、現実主義的な保守は原発に賛成」なんていう稚拙な思考法を共有する限り、日本における「保守の不在」は継続します。そろそろ日本の保守派は左派への逆説的なパラサイトから脱却して、冷静な思考を取り戻すべきです。

 今こそ保守派は、原発に根源的な批判を向けるべきです。

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人間が必ず過ちを犯す存在である以上、
原発に頼るのはあまりにリスクが高すぎる--。
それは、政治的信条を超えて多くの人が同意できる考え方では? と思うのですが。
この状況になってなお、問題がイデオロギーのみから語られることの無意味さに、
怒りがこみ上げます。

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中島岳志さんプロフィール

中島岳志 なかじま たけし1975年生まれ。北海道大学准教授。専門は、南アジア地域研究、近代政治思想史。著書に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)、『中村屋のボース─インド独立戦争と近代日本のアジア主義』(白水社)、『パール判事─東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)、西部邁との対談『保守問答』(講談社)、姜尚中との対談『日本 根拠地からの問い』(毎日新聞社)など多数。「ビッグイシュー」のサポーターであり、「週刊金曜日」の編集委員を務めるなど、思想を超えて幅広い論者やメディアとの交流を行なっている。近著『朝日平吾の鬱屈』(双書Zero)

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