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終戦60周年特別企画 見た・聞いた・体験した「戦争の話し」読者編
戦争があった子どもの頃のこと ●忘れられない父の体験遺言 ●侵略戦争時代に生きた一人として ●和解と希望〜中国人強制連行長野訴訟原告の蒼さんと交流して
戦後、満州での思い出 ●伝えられた戦争のはなしと9条のこと

「戦後、満州での思い出」ちえこおばあちゃん

貧しい小作農の家庭に生まれて
 1928年、貧農の次男に生まれました。家族は祖母、父、母、兄、弟、妹3人でした。
 私が母の胎内にいたとき、養蚕に使う七輪の火の不始末で、家が丸焼けになったそうです。それで、農作業の納屋を譲り受けて住まいにしていましたので、友達や先生が家に来られたとき、とても恥ずかしい思いをしたものです。
 小学3年生頃から、休日や夏休みには親と田んぼへ出ていました。耕作、草取り、田植え、稲刈り、乾燥(架がけ)、脱穀調整作業などをすべて手作業でやり、一生懸命働かされました。でも、ごく当たり前の親孝行だと思っていました。
 汗を流して帰ると、昼食は馬鈴薯(ジャガイモ)、また夕食は甘藷(サツマイモ)で済ますことも度々あって、農家でありながらご飯を毎食食べられなかったことに悲しい思いもしました。
 秋には、収穫した米(60kg入り俵)を4、5俵、金輪の荷車に積み、後ろから押して村の主の家まで運びましたが、なぜ苦労して作った米を持っていくのか、不思議でした。後年になって、小作人として地主に「年貢米」を収めたのだと知りました。
 冬休みは「素麺を束ねる細い藁縄」を一日中、手で縫うことが日課でした。その縄を売って、小学生服、下着、ゴム長靴などを買ってもらい、すごく喜んだものです。
 小学校の授業で一番好きだったのは、「書き方」(習字)でした。母に「筆が駄目になったから新しいのを買ってくれ」と言っても、「金はない」と叱られました。仕方なく隣の生徒の筆を失敬して使っているところを先生に見つかり、教室の後ろに半日立たされ、泣きながら帰ったことはいまも忘れません。

戦争の話を聞いてもらえると、辛い経験が少しずつ癒される
 尋常高等小学校を修了した後は、親に無理をさせて中等学校に進みました。
  戦争中であり、学校教育の重点は「神聖な戦争」にありました。
  中国や東南アジアには豊富な石油、鉄鉱石、農産物があり、これらを日本の生命線として確保しなければならないと教わり、「お国のために、天皇陛下の御為に戦争に行け、内地にいる者はクズだ!」と叩き込まれました。
  私は戦争に行くことを決心し、16歳のとき海軍飛行予科練習生に志願し、滋賀海軍航空隊に入隊しました。「七つボタンに桜と錨……」という軍歌に憧れていたのです。


出発のときに駅舎の影で泣きむせんでいた母
 田舎の集落でも、働き盛りで家庭の大黒柱である夫や息子が、看護婦の母や娘が、「赤紙」一枚で「名誉の出征」ということで戦争に駆り出されました。
 「徴用」と称して、お寺の鐘は兵器用に、農耕馬は戦場の荷役用に送られました。
 「徴兵検査」(男子20歳になると兵隊検査といった)の合格によって赤紙が来れば、役場、小学校、集落をあげて祝い、「祝入営。出征兵士○○○君」というのぼり旗が立ちました。
 戦死となれば、白紙一枚と白布に包まれた木箱(中は骨もなくカラッポ)で、名誉の戦死です、と知らされました。
 家族の悲しみは言語に尽くせるものではありませんでした。

 私の入隊と同じ頃、4歳上の兄は陸軍に入隊し、中国戦線へ送られました。鉄砲代わりに「もうそう竹」をかついで、船で渡ったそうです。船が沈没すれば浮輪がわりにするために……。
 兄は戦後、無事に戻ってきましたが、中国戦線の話は一切口にしないまま、41歳で交通事故死しました。きっと現地では、口に出来ないほどつらい思いをしてきたのだと思います。
  親は、「貧乏ながらも家族揃って生活できないのか、一度に息子二人を戦争に出さねばならないのか、もし戦死でもしたら……」と家の中では号泣し、外では名誉の出征だからと、作り笑顔でいたそうです。
 出征の日は駅で見送られましたが、「いまから行きます」と言い、「いまから行って来ます」とは言えませんでした。
 なぜかと言いますと、「行って来ます」というのは「帰ってくる」ことを前提として言う言葉だからです。「戦争は嫌だ」と疑われるような言葉は、すべて禁句でした。戦争に反対する者は国賊として、鬼のような憲兵隊(軍事警察を扱う兵隊)に引っ張られました。
 町・村の警察なども国民の言動を見張っていました。お上に反対するようなことは絶対にさせず、自由も民主主義もない暗黒政治で、国民生活を束縛していたからです。
 いよいよ出発となり、駅舎の影で泣きむせんでいた母の姿を思い起こすと、今でも涙が出てきます。映画『二十四の瞳』そのものでした。
 航空隊での日々の訓練や教官のしごきは、大変なものでした。誰かが不始末をすると、班員全員(40人ぐらい)が順々に青竹や角棒などで尻や腿を3、4回叩かれたり、兵舎の周りの砂利通路をホフク前進(腹ばいになりヒジを立てて体を前に進める)する罰を受けたりしましたが、軍人として泣くことは許されませんでした。
 半年経って通信隊に編入され、京都府峰山航空隊に配属されました。しかし、ここでは通信訓練どころか、毎日滑走路づくりをさせられました。米軍機の機銃掃射を受け、逃げまどうこともしばしばありました。
 星空の北斗七星の方角をあおぎながら、家族はどうしているかなあと望郷の念にかられたものでした。 1945年8月15日に敗戦となり、隊員は「よかったなあ、これで親元へ帰れる」と胸をなで下ろしたものです。私と同郷の友は、航空隊から逃げるようにして帰ることができました。


戦争の話を聞いてもらえると、辛い経験が少しずつ癒される
 終戦後は、半年間農作業を手伝いながら兄の帰りを待って、次の春に農林省の出先機関へ就職しました。
 かつての軍国少年は、労働者として目覚めながら、豊かな農村づくりの政治を進めるためにはどうしたらよいのか、働く者の生活と権利が保障されるためにはどうしたらよいのかを日々考え続けました。労働組合の役員にもなり、平和と民主主義を高らかに叫んできました。
 1988年に退職し、現在は金沢市のとある特別養護老人ホームを育てる会の会長として、悩みも多いこのごろです。

 貧乏で子沢山の家庭で、苦しい生活に耐えながら、わが子に素直に育ってほしいと強い愛情で育ててくれた親に感謝しております。いま私には50歳と47歳の子、そして23歳を始めに5人の孫がいますが、親から受けた愛情を、子と孫に引き継いでいます。そして「戦争は嫌」を原点に、「九条の会」の活動を広げるために頑張っています。
  このような国民が苦しめられた時代であったのは、すべて戦争のためです。
  戦争は国民の滅亡です。
  戦争はもう嫌です。
  中国〜東南アジアへの侵略戦争時代に生きた一人として、いま憲法を変えて再び戦争をする国にしようとしている政治を阻止し、戦争により国民がどれだけ悲惨な目にあわされたか、二度と戦争をしないためにどうしたらよいか、それをみんなで考えたいと思っています。

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