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終戦60周年特別企画 見た・聞いた・体験した「戦争の話し」読者編
戦争があった子どもの頃のこと ●忘れられない父の体験遺言 ●侵略戦争時代に生きた一人として ●和解と希望〜中国人強制連行長野訴訟原告の蒼さんと交流して
戦後、満州での思い出 ●伝えられた戦争のはなしと9条のこと

和解と希望―中国人強制連行長野訴訟 原告の蒼さんと交流して

 「もっと深刻な話で終わるのかと正直思ったけど、まったく違った視点が見えた」
 2005年6月20日、中国人強制連行・長野訴訟の結審があり、裁判所に足を運びました。長野地裁は、判決を来年3月10日と指定、それと同時に「和解勧告」を出しました。結審直後の和解勧告は、異例のことだそうです。翌日、「証言から学ぶ」集いがあり、じっくり話を聞く中で、重い責任とともに、希望も感じることができました。
 冒頭の言葉は、そのとき一緒に参加してくれた友人が言ったもの。そんな2日間の体験をレポートします。

「お国のために戦ってきます」と言い残し、帰ってこなかった先生
 私が学生のとき、1997年からはじまった裁判は、足掛け7年。戦時中、長野県内で水力発電所工事などに強制連行・労働させられた中国人原告7人が、国と熊谷組など4社を相手取り、謝罪と損害賠償などを求めた訴訟です。原告のうちほとんどの方がすでに亡くなっており、家族が代わりに来られた方もありました。原告側から、当時の直接の被害者・蒼欣書さん、張景五さんの弟の張樹海さん、羅海山さんの奥さん・姜淑敏さんの3人の方々が陳述をしました。

左から、張景五さんの弟の張樹海さん、蒼さんの娘さん
3人目・手を上げているのが蒼さん、
その隣は通訳の李さん、羅海山さんの奥さん・姜淑敏さん

●『戦争を掘る』(同書編集委員会編)より要

 日本の侵略戦争がしだいに劣勢になっていた1944年末より、本土空襲が日常化し、戦争に必要な物資の生産が極度に低下していく時期に、強制連行は開始された。
 1942年秋から、山東省で日本軍によるいわゆる「労工狩り」が始まり、翌43年4月に1420名が試験的に連行された。強制連行は敗戦の年の5月まで続き、総数は4万人を超えた。殉難者の数は7千〜8千と言われているが、正確な数字ははっきりしていない。

 働かされる場所はまちまちであるが、長野県内に強制連行された中国人の数は4千数百人、殉難者は、移送途中の死亡も含めると400名近く、10%もの死亡率になる。死亡率の高い場所、平岡、御岳などは死亡率が17%にのぼっている。

●中国人戦争被害者損害賠償訴訟弁護団のひとり、
  毛利正道さんのHPより要約


 各地から集められた中国人は、まず中国各地の強制収容所に収容される。原告らの陳述によると、いずれの収容所も、建物の四方には電流を流した鉄条網が張られており、食事もたいへん粗末な物をわずかしか与えられなかったために下痢や皮膚病になり、1日10人ぐらい、多いときには100人ぐらいが死んだという。また、懲罰や拷問もあり、電気ショックを与えられたり、地面に掘った穴の中に人を閉じ込め、コンクリートの蓋をかぶせて3、4日そのままにしたりしたという。

 彼らはその後、中国の港から貨物船の船底に石炭などと一緒に乗せられて10日間近く、汚物と悪臭と船酔い・空腹に苦しめられながら日本に運ばれた。そのひどい扱いのため、乗船人員3万8935名のうち、合計812名が亡くなっている。
 下関に着くと、素っ裸にされて洗浄消毒され、炭鉱・発電所建設、飛行場・鉄道・港湾・地下工場などの建設その他、全国35企業の135事業場に送り込まれた。

 衣類は中国国内にいるうちに支給された1着だけ。所持品は中国国内で支給された小さく丸められる薄い布団1枚だけであり、事業場では板敷きの上にゴザを敷き、その薄い布団1枚を敷いて横になった。一人当たり1.5畳程度のスペースしかなかった。

 冬季は零下20度近くにもなる長野県下において、暖房設備すらなく、ひどい所は雨が振れば内部が水浸しになり、濡れた布団をかぶって寝なければならなかった。
 食事にいたっては、中国では家畜のえさにするフスマを混ぜた小さなパン(マントウ)1〜3個と塩湯程度しかなく、空腹と下痢に苦しめられる日々であった。それでも病気になるとマントウをもらえず汁だけしか支給されなくなるため、無理をして働くしかなかった。

 さらに監視人が鉄の棒で殴ったり、拳で殴打したりするため、負傷して聾唖(ろうあ)者となったり、結核・失明・皮膚病などになったりする者も多かったが、治療施設などは全くなかった。地域の日本人の死亡率2.6%に対し、中国人は死亡率6.8%であったという。

 原告らの労役は発電所建設工事における石や土砂の運搬といった重労働であり、1日10時間から12時間酷使された。それが1年間前後も続く中、大勢の中国人が死亡し、中国に生還した者も敵国日本に協力した者としてスパイ扱いされたり、病気や怪我の後遺症のために仕事が十分にできなかったりして、苦しくつらい人生を歩まなければならなかった者が多かった。

・張景五氏の場合
 1944年2月1日に、当時20歳で妻子を含めた8人で暮らしていた彼は連行された。石家荘の収容所で日本人に殴られ、電気ショックの拷問を受けた。鹿島の事業場ではたいへんな寒さで足を痛め、風呂も入れず、水を飲んで飢えをしのぎ、毎日泣いていたという。給料はまったくもらっていない。
 帰国後、文化大革命のときには「壊分子」として村人の前で批判の的になり、「日本で何をしていたのか、スパイではないのか」と追及された。そのため、同じように働いても8割の労賃しかもらえなかった。

・羅海山氏の場合
 国民党軍につかまり、日本に連行された彼は、石をかごに入れて運ぶ仕事をさせられた。あまりに重いため胸が地面につくほどとなり、鼻が地面にぶつかって顔が血だらけになった。中国に帰ってからも、右足の歩行障害を抱え、体中にたくさんの傷を残していた。

 1958年に、原告である姜淑敏と結婚したが、彼女に対し「日本で世の中すべてのひどいことを体験した」と語った。また、周囲と底に有刺鉄線がついている、深さ3メートルの水牢に入れられたことがあるとも話していたという。
 彼女の話によると、彼は帰国してから「小日本」(軽蔑の意味)と呼ばれており、体の具合がとても悪く、時には30日間も仕事を休んだため他の人の半分程度しか稼ぐことができなかった。生活が非常に苦しいまま、結婚して8年後、生まれたばかりの子どもを残して亡くなった。

 こうした本当に辛い経験を聞くことは、正直いたたまれない思いにおそわれることでもあります。 そんな中で、蒼欣書さんが、裁判を終えたあとの記者会見で語った思いがけない言葉が、大きな印象を残しました。
「私たちは水力発電ダムをつくりました。いまそれが長野のみなさんの幸せに資するものとなっていることを信じています」
  さらには、
「支えて下さったみなさん、そしてマスコミのみなさん、また日本の市民のみなさんに本当に感謝します」

  そして中国語の「感謝(ガンシェ)」と何度も繰り返していたのです。「感謝(ガンシェ)」は、「謝謝(シェシェ)」をさらに強めていう「本当にありがとう」という意味です。
 60年前、賃金も払われず、多数の仲間が死傷した過酷な強制労働の記憶は、いまだ鮮明なはずです。それでも、あれほど自信をもって堂々と語る姿に、正直おどろきました。

 そのあとの「証言から学ぶ」集いで蒼さんの話を聞き、集会が終わった後、勇気を出して中国語で話しかけてみました。握手をしてもらって、思いっきりの笑顔で私の名前を呼んでくれる蒼さん。裁判という闘いを通じて、支えてくれる日本人、話を聞いてくれる日本人に出会う中での蒼さんの心からの思いが、先の言葉だったのではないかと思えました。人間性とは何か、和解とは何かということを教えてもらったような気がしています。

和解と希望、9条
 中国と日本との関係は、深刻な行き詰まりに直面しています。しかし、同時に今回の経験を通じて、こうした民間レベルで、連帯と和解の心が少しずつだけれど育っているということを確信しました。

 もちろん、きちんとした和解へ向けて、闘いはまだ続きます。

原告は、
(1)個別の謝罪と賠償を求めるということ
(2)国の責任で基金を設けるなどして強制連行問題の全面解決

ということの2段階の解決を求めています。

 この解決は、不可能ではありません。企業にとって和解に応じて責任をきちんと認めることは、投資や貿易でますます経済関係が密接になる中国に対し、企業としての信頼感を高めることになるはずです。

 逆にいえば、過去の問題を抱える被告企業は、謝罪なしには中国へ進出することは不可能です。 また、国レベルで考えれば、これは現在の情勢の中で本当に大きな意味を持ちます。日中関係改善への具体的で前向きなメッセージとなり、北東アジアにおける平和的な環境づくりへも少なくない影響を及ぼすはずです。

 ドイツでは、強制労働の補償のための「記憶・責任・未来」基金を作り、解決を大きく進めました。そこには未来志向型プロジェクト(「未来ファンド」)というものが含まれています。基金から一定の予算を確保して、各国の被害者とドイツの青少年との交流に充てるとのこと。補償を終えた後もこれは続きます。今回の「証言から学ぶ」集いのような交流を、多くのドイツ青年がしているでしょうし、日本とアジアでも、こういうことができたらどんなにか関係が変わるだろうと思います。

 和解の努力をする先には、希望が生まれます。日本国憲法9条の心は、まさにこうした和解と連帯の心の支えではないかと思うのです。
 蒼さんのような、人生を無残にも目茶苦茶にされた人々が、なぜ理性ある呼びかけを私たち日本人にしてくれるのか。
 それは直接には語られないけれども、二度と「武力は持たない」「戦争はしない」ことを明記した9条があるからこそ生まれる、アジアと向き合う日本人の真摯な姿勢への信頼ではなかったかと思うのです。

 裁判を支えた市民のみなさんや原告弁護団のみなさんの真剣な姿を目の当たりにして、そのことを実感しました。この裁判の勝利和解が実現するよう、微力ながらできることからサポートしていきたいと考えています。

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