セルビア・モンテネグロのサポーター (6/12)
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国歌の受難
両手は後ろに組んで口は真一文字に、または右手を左胸に当てて眼差しは遠くへ、あるいは互いに肩を組み高らかに声を上げて――試合前の国歌斉唱で選手たちが見せる姿は様々です。共通しているのは、どの選手からも「選ばれし者」の誇りが感じられることでしょう。
しかし、6月11日、ライプツィヒ・ツェントラル・スタジアムでのC組1次リーグ、対オランダ戦を前にしたセルビア・モンテネグロの選手たちの表情からは、代表としての矜持よりも、居心地の悪さのようなものを感じました。国歌演奏のセレモニーはさっさと終えて、早くキックオフの笛を吹いてくれとでも言いたげな。
そのとき私は、1950年代前半のサラエボを舞台にしたユーゴ映画『パパは、出張中!』を思い出しました。建国間もない当時のユーゴスラビア社会主義共和国連邦(以下、ユーゴ)が、労働者自主管理という独自の社会主義体制をとったことで、社会主義圏の盟主を自認するソ連と厳しく対立していた時代の話です。
映画の終盤、野外結婚式の場でヘルシンキ・オリンピックのサッカー、ユーゴ対ソ連のラジオ実況放送が流れるシーンがあります。アナウンサーは宿敵ソ連に対するユーゴの優勢を興奮して伝えるのですが、それを聞く男たちは歓声を上げることもなく、ただ淡々と聞いているだけ。彼らのナショナルチームに対する冷めた表情が、セルビア・モンテネグロの選手のそれと重なったのです。
オランダとの試合前に流されたのは「ヘイ、スロヴェニィ」(スラブ人たちよ)でした。
1990年代にユーゴを構成する各共和国(スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)が次々と独立を果たすなか、セルビア・モンテネグロは唯一、ユーゴの国際的立場(国連や国際機関の議席など)を継承し、ユーゴ国歌である「ヘイ、スロヴェニィ」も引き継いだのです。
しかし、国歌はブーイングを受けました。
ユーゴスラビア=南スラブ人の国。そこに民族名はありません。それに対するセルビア人、あるいはモンテネグロ人の不満の声が「ヘイ、スロヴェニィ」のリズムをかき消そうとします。しかも、試合の20日前、モンテネグロでは同共和国のセルビア・モンテネグロという国家連合からの離脱の是非を問う国民投票が行われ、賛成票が55%強を獲得しました。それを受けて、6月3日にはモンテネグロ議会が正式に独立を宣言し、人口940万人のセルビア共和国と同62万人のモンテネグロ共和国に分裂。つまり、2006年ドイツW杯のセルビア・モンテネグロの選手たちは、祖国なき代表チームとしてプレーしているのです。 |
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クロアチアのサポーター
(6月20日)
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嵐の予感
私が初めてユーゴ代表の試合を見たのは1990年の第15回W杯イタリア大会でした。当時、東ベルリンで学生生活を送っていた私は、学生寮でテレビ観戦していました。
準々決勝の対アルゼンチン戦。ディエゴ・マラドーナ率いる前回優勝チームに、ユーゴは、FWの足元にピンポイントで届くロングパスや、相手の意表をつくトリッキーなボール回しで対抗します。前半に退場者を出して10対11になったにもかかわらず、ユーゴは、延長戦を含めた120分間、攻め続けました。
結果は0対0。そしてPK戦でユーゴは敗退。ユーゴの試合はこれで見納めかと思うと残念で、ユーゴの他の試合を見ておかなかったことが悔まれました。そのときまで私はW杯でのユーゴの実績を知らなかったのです。
ユーゴが1930年の第1回ウルグアイ大会でヨーロッパ勢最高の4位となったこと、その後イタリア大会までの14回大会のうち8大会に出場し、1982年のスペイン大会を除き、すべてベスト8まで進出したこと、そして、アルゼンチン戦で素晴らしいパスを連発した選手がドラガン・ストイコヴィッチ(後にJリーグの名古屋グランパスで活躍)という名前であり、攻撃的なサッカーを仕掛けたユーゴ代表監督がイビツァ・オシム(現J1ジェフ千葉の監督)という名前であること――すべて後から知りました。そして、アルゼンチンとのPK戦を前にしたユーゴ選手たちがボールを蹴りたがらなかったことも。
木村元彦著『オシムの言葉』(集英社インターナショナル)によると、スコアレスドローによるPK戦が決まった瞬間、ユーゴのゴールキーパーを除く9人(1人はすでに退場)のうち7人が「蹴りたくない」とオシム監督に申し出たというのです。ストイコヴィッチもその場でスパイクを脱いだ1人でした。どうしてか? オシムはこう語っています。
「ほとんど戦争前のあのような状況においては誰もが蹴りたがらないのは当然のことだ。プロパガンダをしたくて仕方がないメディアに、誰が蹴って、誰が外したかが問題にされるからだ。そしてそれが争いの要因とされる」
自分の失敗が、民族紛争の火種がくすぶる祖国ユーゴで、民族主義者の扇動に利用されるのはごめんだ――PKの勝負はボールを蹴る前に決っていました。
1990年夏。イタリア大会はドイツの3回目の優勝で幕を閉じました。後にジェフ市原(現ジェフ千葉)でプレーするリトバルスキや、浦和レッズに来たブッフヴァルト(現浦和レッズ監督)らを擁するドイツがアルゼンチンを破った瞬間、学生寮のなかで「うおおおお!」という地鳴りのような声が響きました。東ドイツの男子学生の雄叫びです。そして外を闊歩する若者たちの「ドイツ、ドイツ、世界に冠たるドイツ」の大合唱。これはドイツ帝国時代から歌われている国歌の1番ですが、ナチスドイツの「ヨーロッパ征服の野望」を連想させるとして、戦後、削除されました。本来の国歌は3番まである歌詞の3番「統一と権利と自由、祖国ドイツのために」なのですが……。
前年のベルリンの壁崩壊が民族主義というパンドラの箱を開けたかのような夜でした。 |
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民族紛争は不可避だったのか
イタリアW杯から約1年後の1991年6月25日、ユーゴを構成する共和国、スロベニアとクロアチアが、国民投票の結果を受けて独立を宣言しました。それを阻止しようと出動したユーゴ中央政府下の連邦軍がスロベニア軍、クロアチア軍と衝突。ユーゴ紛争の始まりです。さらに1992年2月29日と3月1日には、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国でも独立の是非を問う国民投票が行われ、有権者の3分の2が参加、うち賛成票が99%を占めました。しかし、共和国を構成する主な民族――ムスリム人(イスラム教徒)44%、セルビア人31%、クロアチア人17%――のうち、独立に反対のセルビア人が選挙をボイコットしたにもかかわらず、ムスリム人主導のボスニア政府が独立を宣言したため、セルビア人武装勢力がムスリム人に攻撃を仕掛け、各民族間の戦闘が勃発します。ボスニア内戦が終結する1995年までに、約20万人の命が失われ、250万人が難民となりました。
ユーゴが解体した理由として、その複雑な民族構成が挙げられます。6つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア)、5つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、アルバニア人)、4つの言語(スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)、3つの宗教(セルビア正教、ローマ・カトリック、イスラム教)、2つの文字(キリル文字、ラテン文字)――これらを1つの国(ユーゴ)としてまとめるのは不可能だったというわけです。でも、本当にそうだったのか?
クロアチアにブコヴァルという古い町があります。ドナウ川を挟んでセルビアと接するブコヴァルには、セルビア系住民が多かったため、クロアチア人とセルビア人の間で凄惨な戦闘が繰り広げられました。
この内戦を描いた映画『ブコヴァルに手紙は届かない』の主人公、セルビア人の夫トーマがクロアチア人の妻アナにこう言います。
「血の混じる家族にはクリスマスも復活祭も二度来たのに……」
クリスマスはカトリック(クロアチア人)、復活祭は正教(セルビア人)の慣習です。違う民族同士が結婚することはユーゴ時代には当たり前でした。そして、生まれた子供は「ユーゴスラビア人」を名乗ることもできたのです。しかし、民族主義者たちは「敵を撃たないのであれば、お前はおれたちの敵だ」と迫ってきます。 |
サラエボの町並み・白いのはお墓 サラエボ内戦による犠牲者が増加したため、 急遽、新しい墓地がつくられた
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エクアドルのサポーター
(6/20) |
勝敗さえも超えるサッカー
「新聞記者は戦争を始めることができる。意図をもてば世の中を危険な方向へ導けるのだから。ユーゴの戦争だってそこから始まった部分がある」とオシムは言います。ユーゴ内戦では、メディアが民族間の憎悪を煽る役割を果たしました。
オシムはサラエボ生まれ。北はオーストリア・ハンガリー帝国、南はオスマントルコからの歴史的、文化的影響を受けたため、カトリック教会の鐘を聞きながら、カフェでトルココーヒーを飲むのが当たり前の町で育ったオシムは、ユーゴ代表監督時代、各民族を代表する政治家やマスメディアから「○○人の○○を起用せよ」といった圧力がかかっても、決して耳を傾けなかったといいます。偏狭な民族主義への抵抗だけではありません。そうした声は勝利を妨げるものでしかないことがわかっていたからです。
しかも、オシムはただ勝てばいいとは考えていませんでした。観客を魅惑するプレーを展開すること。彼には常に観客やサポーターの目もあり、監督としてのオシムは、その視線をも満足させる試合(攻撃的サッカー)を目指したのです。
『オシムの言葉』には記載されていませんが、オシム語録には次のようものもあります。
「選手がどんな肌の色であろうと、どんな信仰をもっていようと、サッカーには関係ない。私は“サッカー自体が小さな宗教”だと思っている」
美しいサッカーは、国籍や民族、そして勝敗さえも超える――ユーゴ代表は、このような哲学に支えられていたのではないか。それは「(W杯優勝に手の届かなかったユーゴの)もろさ」と言えるかもしれません。しかし、もし選手や監督から観客の視線が一切、消えてしまったらどうでしょう? W杯は単なる国家間の代理戦争になってしまわないでしょうか? それはサッカーの神様に見放された自殺行為でしかありません。
そして、サッカーを代理戦争にしてしまうか、しまわないかは、私たち観客次第とも思うのです。
(文・芳地隆之 写真・富田那渚) |
芳地隆之●ほうち たかゆき
1962年東京生まれ。 大学卒業後、会社勤めを経て、東ベルリン(当時)に留学。東欧の激変、ベルリンの壁崩壊、ソ連解体などに遭遇する。ベルリンの日本大使館勤務を経て、現在はシンクタンクの調査マン。著書に『ぼくたちは革命の中にいた』(朝日新聞社)『ハルビン学院と満洲国』(新潮社)など。
富田那渚●とみた なお
神戸市出身、現在、ベルリン自由大学で環境問題を専攻。日独通訳の資格も取得し、学業と仕事の二束のわらじ生活。ベルリン市公認の「2006年ワールドカップ日本人アテンドスタッフ」として、ベルリンを奔走するなか、相手の懐にすっと入っていくキャラクターで、各国の人々の表情や街角に残る歴史の断片をカメラに収めてくれました。 |
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