第三十五回
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もしかしたら私たちは、とても稀有な芝居を観ているのかもしれない。それこそ“百年に一度の崩壊劇”を。
かつても、政党の崩壊劇は何度かあった。
例えば、日本社会党の無残な没落。
戦後のある時期(1955年)から、自民党の対抗勢力として衆院ではほぼ100議席以上を占め、いわゆる55年体制の一翼を担ってきたのが日本社会党だった。
その社会党は、1993年の細川護煕連立内閣に参加して政権の一翼を担った。94年、自社さ政権(自民・社会・さきがけの連立)の誕生で、社会党委員長の村山富市氏が総理大臣に就任したことで、従来の社会党の政策に決定的なねじれを生じた。その結果、96年の総選挙では歴史的大敗北(獲得議席15)を喫し、ついに55年体制の終焉を迎えることになったのである(この間の経緯は、もっと複雑怪奇なのだが、詳しい事情は省略する)。
この96年総選挙では、日本社会党は社民党と名称を変更して戦ったのだが、もはやかつての力を発揮することはできず、多くの社会党議員たちは、新たに立ち上がった民主党へと鞍替えした。ここで、戦後日本を(良くも悪くも)引っ張ってきた大政党が、ほぼ消滅した。
1997年には“新進党の崩壊”という出来事もあったが、これなどはほとんど日本の政治史に何も残さなかった。
多くの政党の寄り合い所帯だった新進党は、当初から不協和音ばかり、党内抗争の連続であった。その中で批判を浴びた党首・小沢一郎氏(現民主党代表)の「おお、それじゃあ解党しようか」という一言で、党そのものが瓦解するという、なんともお粗末な一幕芝居だったのである。
このような大政党の崩壊現象はあったのだが、それは政権そのものの交代を引き起こすほどのインパクトを持ってはいなかった。なぜなら、戦後日本において政権の座に(ほんのわずかな期間を除いて)居座り続けた自由民主党は、党内抗争は日常茶飯事ながら、なんとか権力の旨味を各派閥に配分することで、政権の座を維持し続けてきたからである。権力こそが、政権維持装置だったのだ。権力さえ握っていれば、生命維持装置は自動的に働く。
ところが、その政権の座がいまや崩壊寸前なのである。自民党内の生命維持装置が、内側からガラガラと音を立てて崩れかけている。肝腎の総理大臣が、それを助長しているのだ。
私たちは、その崩壊過程をいままさにこの眼で見ようとしている。これは、ほとんど日本戦後史に例を見ない形での政治変動劇と言わなければならない。
ところが奇妙なことに、自民党という政権政党を権力の座から引きずりおろそうとしているのは、民主党などの野党でも、ノンを突きつけている国民でもない。自民党そのものである。
それは、麻生太郎という稀代の口先政治家を、多少国民の人気があるという思い込み(実はそんなことはなかったのだ。秋葉原という特別な地域での妙な空気に騙された)だけで、選挙対策の顔として首相に祭り上げてしまった自民党の議員たちの、決定的な過ちだったのである。
政策も何もまともには考えられない。言ったことをすぐに引っくり返す。子どもじみた弁解を繰り返す。
「オレは反対だったけど、仕方なく賛成に回っただけだも〜ん」
シラケ鳥が南の空へ飛んで行く。
そんな人物を総理大臣に引っ張り出したのは、ただ選挙さえ勝ち抜けられれば、また権力の蜜を嘗め続けられると考えた自民党議員たちである。
崩壊は誰のせいでもない。自ら掘った墓穴である。
あの嫌な“自己責任”という言葉は、こんなときに使うべきものだろう。
「笑っちゃうぐらい呆れている」と、麻生首相に痛烈な批判を浴びせて崩壊に止めを刺すのが、やはりこの人、小泉純一郎元首相らしい。しかし、これだけは忘れてはならない。現在の派遣切りや格差拡大、地方の疲弊などの惨状を招いたのは、小泉純一郎その人だったという事実を。
自民党の一部には、この未曾有(!)の危機を乗り切るために、小泉氏再登場を画策している動きもあるという。
「小泉劇場第2幕」など、絶対に許してはならない。
改革という言葉に踊った「小泉劇場」は、メディアが作った巨大な虚構劇であった。そこで踊ったのは小泉チルドレンであり刺客であり抵抗勢力であり、それを何の検証もせずに垂れ流したメディア(特にテレビ)だったのだ。
もしも懲りずにその劇場を、再度メディアがもてはやすようなことがあるならば、そこでこの国は終わるだろう。
“小泉改革”とは何だったのか、郵政改革や規制緩和、新自由主義経済政策、そして自衛隊イラク派遣とは、いったい何だったのか。
再び踊ってはならない。
政治とは、理であると同時に情を兼ね備えなければならない。すなわち、理(法理)を踏まえつつ、そこに情(人間の感情)がなければならない。国家は法律で人を縛る権力を持つがゆえに、その法律に情が生かされていなければ、政治は単なる支配機構に成り下がる。それでは真の法治国家とは言えない。
いいニュースになど、さっぱりお目にかかれない近頃だけれど、その中でもこんなに切ないニュースは滅多にない。
13日、在留特別許可を求めていた埼玉県在住のフィリピン人親子に「不許可」の裁決が下ったという。両親はふたりともフィリピン人で不法滞在状態だった。そしてその子が、カルデロンのり子さん(13歳)という中学1年生。
のり子さんは日本で生まれ日本で育った。当然、日本語以外の言葉はできない。学校では、とても人気のある生徒だという。合唱部に所属し、昨年はNHK全国合唱コンクールにも出場した。同級生たちや近所の人たちが「のり子親子が日本で暮らせるように」と、在留許可を願う署名活動まで行っていた。
両親にしても、すでに15年以上も日本で暮らし、もちろん(不法滞在を除いては)、犯罪に手を染めてなどいない。それなりの仕事に従事し、生活基盤を日本に築いていた。
しかし、この親子の願いは聞き届けられなかった。森英介法相は「在留特別許可は与えない」として、「2週間以内に国外へ退去せよ」と言い渡したのだ。
この親子の生活実態をきちんと調べれば、日本に在留していても、別段の危険や犯罪の恐れはないことが分かるだろう。
むろん、すべての不法滞在外国人に在留許可を与えろ、などと私も言うつもりはない。
「このケースを許せば、不法滞在外国人が激増する。法にしたがって厳しく対処すべきだ」という意見も根強い。
しかし、生活実態を調べ問題がないと判明した人には、在留許可を与えてもいいではないか。それが、法律の「情の部分」の運用というものだろう。在留許可に「特別」という枠があるのは、そういう情の部分を含んでいるからだ。しかし今回、森法相はこの「情の部分」をあっさりと切り捨てた。
日本語しか話せない幼い少女を、彼女にとっては異国でしかない国へ、なぜ強制送還しなければならないのか。日本に滞在することで、国家の安全が脅かされるとでも言うのか。
「のり子さんにだけなら在留許可を与えてもいい」との判断もあるという。つまり、両親は強制退去処分にして、のり子さんだけは日本に在留していいということ。しかし13歳の少女に、たったひとりでどうやって生きていけと言うのだろう。
こういうケースにこそ、「特別枠」を発動して然るべきではないのか。
「人道を考える」とか「人権外交」などと、政治家はよく口にする。しかし、たったひとりの少女を救えなくて(救わなくて)、何が人道か、人権外交か。
“法匪”という言葉が浮かんだ。
「おほっ!?」っと我が目を疑った。今朝(14日)の毎日新聞の記事だ。考えようによっては、これほど皮肉な記事もない。
<改憲派・石原知事も「世界に貢献」
唐突な「平和」強調
東京五輪招致 今後の位置づけ不透明>
見出しだけ読むと何のことやら?である。けれど記事の中身は、そうとうに辛辣だ。
<都庁で立候補ファイルの発表会見に臨んだ石原知事は、報道陣のカメラのフラッシュに目をしばたたかせながら「平和」を強調した。(中略)国際オリンピック委員会(IOC)のロゲ会長への書簡でも「私の祖国日本は、第二次大戦の後、自ら招いた戦争への反省のもと、戦争放棄をうたった憲法を採択し、世界の中で唯一、今日までいかなる大きな惨禍に巻き込まれることなく過ごしてきました」と記した。(中略)
ファイル発表後の会見では「日本の平和をもっと確かなものにするために、今の憲法を変えたほうがいいと思っている。ただ、その憲法の効果もあって平和でこれたのは歴史の事実として大したもの」と言及。(後略)>
うーん、「憲法の効果もあって、日本が今まで平和でこれたのは大したもの」と言うのであれば、なぜ改憲なのか?という疑問はさておき、改憲派の親玉のひとりである石原慎太郎氏までが「日本国憲法の平和への貢献という歴史的価値を認めた」という事実は、かなり重い。
「戦争の世紀」といわれた20世紀が終わり、平和の幕開けを期待された21世紀が、「ブッシュの戦争」で血にまみれ、それに世界中のどの国の指導者よりも素早く「賛成」を表明してしまったのが、我が小泉純一郎元首相であった。
そういう世界情勢の中で、石原知事もようやく「日本国憲法の持つ特異性と現実性」に気づいたのだろうか。事実、同じ記事の中で、次のようにも述べている。
<「平和」については「新鮮でもない、さんざん言い尽くされた言葉」としたうえで「世界で眺めれば、あんまり実現されていない。だからこそ改めて使った」と強調した>
「世界であまり実現されていない『平和』を日本で実現できてきたのは、実に『平和憲法』である」と石原知事は語っているのである。画期的なことだろう。ある意味で、石原慎太郎氏の「転向宣言」とも受け取れる。
いま、1冊の本がベストセラーとなり話題になっている。
竹中平蔵氏(元金融大臣、慶応大学教授)とともに、新自由主義経済政策の日本における強固な推進論者であった中谷巌氏(一橋大学名誉教授)の『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)という本だ。
中谷氏はそこで「自分たちが推進してきた新自由主義経済学は悪魔の思想であり、それに伴って実施されてきた構造改革は根本から間違っていた」と、それまでの考え方をほぼ全否定。言ってみれば完全なる「転向宣言」である。
「転向」がある種の流行なのか。
この際、石原知事もすっきりと「転向宣言」を出してみたらいかがだろうか。去り際としては、とてもカッコいいと思うのだが。
なんとも情けない。
今度は中川昭一財務大臣が、ローマで開かれていたG7(先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議)後の記者会見(14日)で、とてつもない醜態を晒した。
その様子は、APなどの通信社を通じて世界に配信された。酔っ払いの繰言。ほんとうに酷い会見だった。まさに“世界規模”での醜態。とうぜん、激しい批判が巻き起こった。
そしてとうとう、17日には辞任に追い込まれた。さすがに抵抗し切れなかった。麻生首相も、ついに思想を同じくする同志を守りきれなかったわけだ。
こんな“辞めて欲しい人たち”にはすぐにでも辞めていただきたいが、一方で“辞めて欲しくない人”も辞めてしまう。
愛川欽也さん ラジオ番組中に降板宣言 15日に放送された文化放送(東京)のラジオ番組「キンキンのサンデー・ラジオ」の中で、看板パーソナリティーを努める俳優の愛川欽也さん(74)が、突然番組終了を宣言し、打ち切られることになった。 番組の中で愛川さんは、今年1月からメーンスポンサーが撤退したことを明らかにした。そのうえで「4月から新番組が始まることを僕が知ってしまった以上、お通夜のような番組をやることはできない」などと理由を説明した。(毎日新聞2月16日)
この記事では、どうもいまひとつ事情がはっきりしない。首をひねっていたところ、愛川さんとごく親しいジャーナリストからメールが届いた。次のように書かれていた。
「新聞各紙の論評どおり不自然でした。放送の中で、愛川さんはこれまでも、しきりに憲法のことや、ポケットにはいつも自分は憲法の小冊子を入れていること、憲法を守る人たちとの交流を大事にしていることなどを話していました。この番組中にも、九条の会とかネットの会などの方たちからの電話があり、愛川さんがそのことも話されて番組は終了したのですが、そういうことも影響していたのかもしれません。選挙が近くなるにつれ、放送界にも規制の風が忍び寄っているようです。お互いに脇を引き締める必要がありそうです。」
このメールに付け加えることはない。メディアの真っ只中にいるジャーナリストの言葉だけに、的を射ていると思われる。
愛川さんは、CS放送の朝日ニュースターの番組「愛川欽也のパックインジャーナル」などでも、はっきりと憲法9条の素晴らしさを力説している方だ。
所属事務所(いわゆる芸能プロダクション)の意向とやらで(というよりテレビ局の意向を恐れて)、政治的な発言(憲法を守ることが政治的だなんて妙な話だが)は一切しないという芸能界の風潮の中で、愛川さんは自分の意見を隠さずに語る、数少ない芸能人のおひとりだ。
そんな彼が、ラジオで「憲法の話」さえ自由にできなくなってしまう。多分「憲法9条を守るというのは、政治的に偏っている」などと局に抗議してくる人もいるのだろう。
ラジオ局は(テレビ局はもっと)圧力に弱い。すぐに“自主規制”という名の自己保身に走る。
2001年のNHKの“「戦時下の性暴力」番組改編問題”を思い起こせば、よく分かるはずだ。
そう言えば、05年に事態が政治問題化したときに、涙ながらに政治家の圧力を訴えたNHKの番組担当プロデューサーは、ついにこのほどNHKを退職したという。左遷されてほとんど仕事も与えられなかった結果だと聞く。
もうひとつのそう言えばだが、あのとき圧力をかけた政治家のひとりが、今回の中川“酩酊”大臣(もうひとりは当時の自民党幹事長・安倍晋三氏)だったのは偶然か?
なにはともあれ、メディアが、妙な風向きに流されなければいいのだが。 そして、愛川さんのより一層のご健闘を祈りたい。
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