第三十三回
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最初に断っておきますが、私は死刑制度には大きな疑問を抱いている人間です。その理由を述べるのが今回の趣旨ではありませんので、詳しくは触れません。
それなのになぜ死刑制度について書こうと思ったのか。それは、ある新聞記事に目が留まったからです。
毎日新聞が24、25日の両日に実施した全国世論調査(電話)で、5月から始まる裁判員制度について聞いたところ、市民が死刑判決にかかわることに63%の人が「反対」と回答し、「賛成」は28%にとどまった。裁判員に選ばれた場合に「参加する」と答えた人は49%で過半数に届かなかった。制度スタートを前に、極刑を言い渡すこともある制度への抵抗感の強さが浮き彫りになった。(本文記事省略)
(毎日新聞1月28日)
裁判員制度は、司法改革の最も重要な目玉として、今年5月から始まります。「市民感覚を裁判制度にも取り入れるべきだ」というのが、改革の最大の趣旨だそうです。
「市民感覚の導入」については、私も異論はありません。しかし、「市民感覚」というものが、どういう経緯で醸成されるのかを、もっと真剣に考えなければならないと思うのです。
とくに、テレビ報道が(ワイドショーを含めて)、一方的な偏りを見せる傾向の強い状況の中で、「これが市民感覚だ」と言えるものが、ときには間違った形で噴出することがあるという可能性を考えなくてもいいのでしょうか。
「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」という司法裁判の原則が、いともたやすく「犯人憎し」の論調の前に無視されている現状を、そのまま認めてしまっていいのでしょうか。
「容疑者」とは、裁判で罪が確定しないうちは「無罪」を推定される人間です。判決を受けて初めて「有罪(犯人)」と認定されるのです。「容疑者」と「犯人」は、厳密に区別されるべき概念です。それが裁判の絶対的な原則であるはずです。
しかし、現実の世界ではそうはなっていません。
まだ「容疑者」でしかない人間を完全に「犯人」扱いにして、その残虐性や極悪な性格などを、根掘り葉掘り暴きだす。過去にまで遡り容疑者の幼い頃をほじくり返す。さらには、無関係であるはずの家族までも引っ張り出そうとする…。
それが、とくにワイドショーなどの手法です。そのような番組を日常的に観ている視聴者が、ある方向付けされた感想を抱くのは当然でしょう。いわゆる「刷り込み現象」です。
裁判員制度の導入に伴って、これらの報道のあり方についての議論が深まっているとは、私には思えないのです。
日本では、死刑制度に賛成する世論が圧倒的なようです。ほとんどの世論調査では、死刑制度賛成70~80%、反対は20~30%前後という結果が出ています。
裁判員制度で市民参加が始まれば、そんな世論を背景に、一気に死刑判決が増加するのではないか、私はそう思っていたのです。ところが、この毎日新聞の世論調査の結果は、まったく逆でした。
「死刑制度そのものには賛成だが、自分が死刑判決にかかわるのはいやだ」
とても矛盾しているようです(矛盾していて当然です)が、それが多くの人たちの意見だったわけです。
もっと露骨な言葉を使えば、次のようになるはずです。
「悪いヤツを他人(国家)が殺してくれるのはかまわないが、自分の手で悪いヤツの首に縄をかけるのは勘弁してくれ」
露骨すぎて品のない文章になりますが、結局はそういうふうに集約されるのではないでしょうか。
しかしそれがあたり前の感覚でしょう。どんな人であれ、自分がある特定の人間の命を奪うことに加担するなど、平静な気持ちでできるわけがない。
私は以前、このコラムで「あなたは死刑を宣告できますか?」と、読者のみなさんに問いかけたことがあります。少なくとも、私自身には、宣告できる自信などないからです。
それが国民の義務だといくら言われたとしても、私は死刑を宣告できない。多くの人たちが同じ気持ちを抱いていることに、私はホッとしました。
多分、同じことは「戦争」についても言えるのではないでしょうか。
「お国のために」とか「民族を守るために」などと言われて、言葉では理解したつもりでも、しかし、自らの手で敵を殺すことには躊躇する。「国や家族や民族を守るための戦争なら仕方ない」とは思っていても、「それでも、戦争はしたくない」「戦争をしてはならない」。
これがあたり前の感情ではないでしょうか。
ある人々は言います。
「自衛のための戦争は否定するべきではない」
「そのためには軍隊が必要だ」
「かつて、日本は自衛のために戦争をしたのだ。あれは侵略戦争などではなかった」
「他国から攻め込まれても戦わないのか」
しかし、それでも…。
「必要ではあっても、人を殺すのはマッピラだ」
「追いつめられても、戦争だけはしたくない」
「どんな理由をつけようが、いい戦争なんてありえない」
大いなる矛盾の論理ですが、その矛盾を止揚すること、つまり、戦争を起こさせない状況を創ることこそが政治の役割だと、私は強く思います。
矛盾を孕まない政治などないのです。
ここまで書いてきたときに、またしても「4名の死刑が執行された」というニュース。現在の森英介法務大臣になってから2度目の執行です。
安倍内閣の長勢甚遠法相、鳩山邦夫法相以来、死刑執行の頻度は急速に早まり、ほぼ2ヵ月おきのペースになっています。知人のジャーナリストによれば、「未執行の死刑確定囚を100人以下にする」というのが、法務省の考え方だといいます。
実際、長勢法相時代の06年12月の執行以来、長勢法相時代10人、鳩山法相時代13人、保岡法相時代3人、そして今回の森法相時代6人と、ほぼ2年1ヵ月の間に計32人の死刑囚が執行されたことになります。
これで現在の未執行死刑囚は、95人にまで減りました。これまでに例を見ないスピードです。
死刑囚とはいえ人間です。それを数合わせのために(?)、死刑執行の判断をする。
私にはやはり、死刑宣告はできません。
1月31日(土)くもり
ちょっと嬉しくなるような記事を見つけました。とても愉快な物言いで人気(?)の、ノーベル物理学賞受賞者の益川敏英さんのインタビュー記事です。
朝日新聞1月31日夕刊に掲載されていました。
記事(抜粋)
(筆者注・名古屋大学理学部で益川氏の先生だったのは、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士の弟子であった坂田昌一教授だった)
坂田先生は「素粒子論の研究も平和運動も同じレベルで大事だ」と語り、反核平和運動に熱心に取り組んでいた。科学そのものは中立でも、物理学の支えなしに核兵器開発ができないように、政治が悪ければ研究成果は人々を殺傷することに利用される。「科学的な成果は平和に貢献しなければならず、原水爆はあるべきでない」と熱っぽく語られた。私たち学生も「そうだそうだ」ということで全国の科学者に反核を訴える声明文や手紙を出すお手伝いをした。(略)
とにかく戦争で殺されるのも殺す側になるのも嫌だという思いだった。ぼくのやるべき仕事は物理学や素粒子論の発展で、平和運動の先頭に立って旗振りすることじゃない。でも研究者であると同時に一市民であり、運動の末席に身を置きたいと考えていた。
(略)
日本を「戦争のできる国」に戻したい人たちが改憲の動きを強めているのに、ほっとけない。色んな理由をつけて自衛隊がイラクへ派遣されたが、海外協力は自衛隊でなくてもできるはず。まだおしりに火がついている状態とは思わないが、本当に9条が危ないという状況になれば軸足を研究から運動の方に移す。(後略)
どうです、嬉しくなったでしょ?
益川さんは「九条の会」の設立に賛同して、05年3月に「『九条の会』のアピールを広げる科学者・研究者の会」が発足したときには、呼びかけ人のおひとりになったといいます。
意志の固さはそうとうなものです。だって、ノーベル賞という世界最高の学術的名誉を受けた学者が、
「もし9条が危なくなったら、研究を捨てて平和運動をやる」と、はっきり宣言なさっているのですよ。
「研究こそ私の命です」なんてことを言う学者は多いけれど、そんな人たちよりも、「研究よりも平和が大事」と言い切った益川さんの決意のほうが、本物の学問とは何かを教えてくれているような気がするのです。
オバマ米大統領は理由はともあれ、「核兵器削減」という政策を明らかにしています。ノーベル物理学賞受賞者の反核への強いアピールは、「核廃絶」への追い風になることでしょう。
そして、9条の精神を大切にするという益川さんの強固な意見表明。日本国憲法9条は、またひとり、強い味方を得たわけです。
なんだか朝青龍バッシングが盛んです。テレビもスポーツ紙も、朝青龍の「横綱の品格」とやらを、やたらうるさく取り上げています。
でも、なんかヘンだなあ。
初場所前にあれだけ叩かれて、「もう引退か」とまで書き立てられた朝青龍が、踏ん張って頑張ってついに優勝。
涙ぐみながら「朝青龍は帰ってきましたぁーっ!」と、ガッツポーズをしたことが、そんなに悪いことなのでしょうか。あれだけの逆境に耐えて15日間を頑張りとおした若者(ベテランには見えますが、じつはまだ28歳です)が、感極まって腕を高く差し上げた行為が、それほど批判されなければならないことなのでしょうか。
私にはどうしても、そうは思えない。
嬉しさのあまりの笑顔と涙、そして両腕を高く挙げてのガッツポーズ。若者としての、ごく普通の反応じゃないですか。
小泉元首相ではないけれど、
「逆境に耐えてよく頑張った! 感動したっ!」とでも、麻生首相も土俵上で叫べばよかったのです。(そうすりゃ少しは支持率がアップしたかもしれないのに)。
朝青龍バッシングで盛り上がっているワイドショーに、またまた美味しいネタです。今度は、日本人力士(!)の若麒麟が、大麻吸引の疑いで逮捕されました。相撲協会は、あっという間に若麒麟を解雇処分にしました。とても素早い。
これまでの力士たちの大麻問題や品格等について、相撲協会は「一部外国人力士の不行跡であり、日本人力士には関係ない」という態度を貫き通してきました。しかし、どう言葉を変えても、今後はその言い逃れは通らないと考えたのでしょう。
なんでも「一部外国人力士」のせいにしてきたこと、その一端としての朝青龍叩きではなかったか。むろん、そうでなければいいのですが、そんな気配がまったくなかったと、はたして言切れるでしょうか。
相撲は「国技」とされていますが、日本的様式美に飾られた興行、あるいは伝統儀式的ショーの一種と見ることも可能でしょう。そういう伝統的様式美の中に外国人を招きいれたときに、すでに今回のことは予測できたはずです。
外国人力士に対し、「なぜ日本的儀式のよさが分からないのか!」と責め立てたところで、なかなか理解できないでしょう。日本的様式美に固執するのなら、最初から相撲界に外国人力士など入れなければよかったのです。
人気取りのためにいろんな国の人たちを相撲界へ導入しておきながら、「お前はなぜ日本的伝統儀礼を理解しないのか」とバッシングするのは、どうも理不尽な気がして仕方ない。
だいたい、相撲協会も高砂親方も、朝青龍(を筆頭とする外国人力士たち)にそんな儀礼も伝統も、きちんと教えた形跡などないじゃありませんか。
では、日本人の若い力士たちには、日本的伝統儀礼が理解されていたか。
残念ながらそういう伝統儀礼(というより、単純な社会常識さえも)が、外国人力士のみならず、日本人力士にさえ、ほとんど理解されていなかったことが、今回の若麒麟逮捕ではっきりしてしまいました。
彼らもまた、形だけは習っても、「伝統の中身」については何も教えられていなかったのではないでしょうか。もっとも、教えるべき立場の相撲協会幹部にしたって、「伝統儀式の真の意味」をどれだけ理解しているのかよく分かりませんが。
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