第二十二回
081112up
アメリカは、史上初の黒人大統領誕生に沸き返っている。いや、アメリカばかりではなく、世界中がアメリカのこれからの行き先を、期待をこめて見つめている。
日本では、相変わらずの政権の迷走が続いている。
究極のバラマキ“給付金”(へんな言い方だ。結局は私たちの税金じゃないか。それを“給付”するなんて)を巡って、政府内部や自民公明の与党の意見がバラバラ。麻生さんのいうことが、ブレ続けているからだ。
田母神前航空幕僚長の問題も、なんだかワケが分からない。自衛隊の広報部が、自衛隊員に向けて、この懸賞論文に応募するように働きかけていたという報道もある。そして、最初は78名が応募したと発表されたが、実は94名もの自衛官が応募したことが明らかになった。
とすれば、これはもはや自衛隊の組織ぐるみの活動というしかない。それも、応募者がこの元幕僚長傘下の航空自衛官ばかりだったという事実は、そこになんらかの意図が働いていたとしか考えられない。
と、ここまで書いてきたところに、友人の編集者から電話が入った。
「いま聞いたばかりなんだけど、筑紫さんがお亡くなりになったって…」
「えっ。ウソだろ。そんな…」
すぐに、ニュース速報をネットで検索した。事実だった。
居間に降りて、テレビをつけた。ちょうどニュース番組。筑紫さんのお顔が大写しになっていた。
今日は、もう書けない…。
11月9日(日)筑紫哲也さんが、お亡くなりになった。
筑紫さんには、ずいぶんとお世話になった。
私が会社を辞めてしばらく経ったころだった。散歩していたら、携帯が鳴った。知らない番号だった。
「あ、鈴木くん? 筑紫だけど」
あの独特の声だった。ちょっと驚いた。なんで私の携帯番号なんか知っているんだろう。教えたことがあったかな?
だいたい、ご自分は携帯嫌いで通していたはずなのに、表示された番号は携帯電話のもの。筑紫さんも、とうとう時代に負けたかな。少し笑いが出てしまった。
「どう、フリーの気分は? いまは何やってるの?」
「あ、はい。ぼちぼち、それなりに、何とか…」
ほとんど答えになっていない。
「ヒマがあったら、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんだけどね」
用件は、もう1冊本を書きたいので、編集を手伝って欲しいということだった。
というわけで数日後、私は集英社新書の編集者K氏とともに、筑紫さんの赤坂の事務所にいた。
自らの肺がんを、テレビの中で明らかにしたあとだった。抗がん剤の影響で髪が抜けていたのだろう。毛糸の帽子を被っていたけれど、でもとてもお元気そうで、私は少し安心したのだった。
2002年に、筑紫さんは『ニュースキャスター』(集英社新書)を出版した。その本の編集を担当したのがご縁で、以来、かなり親しくさせていただいていた。
私も創設に関わった、あるノンフィクション賞の審査委員にも、無理を言って就任していただいた。そんな関係から、ふと私のことを思い出されたのだろう。
仕事の話は、例によって短時間で済んだ。そのあとは、愉しそうに話す筑紫さんのあんなことやこんなことに耳を傾ける時間だった。
だいたいは、赤坂のTBSのティーラウンジでお会いした。仕事についての打ち合わせはごく短かった。そしてそのあとはいつでも、その時々に興味を持たれていることを、愉しそうに話してくれた。だから、筑紫さんにお会いするのは、私にとって、心待ちにする時間だった。
たまの酒席でも、筑紫さんはビールを2,3杯傾けながら、政治や国際情勢についてはもちろん、映画や文学、それに私もかつて少し仕事上で関わったフォークソングなんかのことまで、興味の赴くまま、話が尽きることがなかった。話の間じゅう、タバコを離すことはなかった…。
「あ、もうこんな時間か。そろそろ行かなくちゃ」と、その夜の「ニュース23」のスタジオへと戻っていくのだった。
赤坂の事務所でのお話の中で、とても強く印象に残っていることがある。
実は、筑紫さんは、2003年の都知事選(石原慎太郎氏が都知事に再選された選挙)の際、いろいろな方たちから都知事選への出馬要請を強く受け、自らも、一旦は出馬に傾いたことがあった、というのだ。
「でもねえ、そうは思ったんだけど、どうも体が“うん”と言ってくれなかったんだ。考えてみれば、あのころからがんは僕の体に棲みついていたようだね」
私はそれを聞いたとき、とっさにふたつの感想を持った。
<なんで出馬してくれなかったんだろう。筑紫さんならば、きっと勝てただろう。そうすれば東京の、いや、“この国の形”さえ、少しは変わっていたかもしれない>
<いや、出馬しなくてよかったんだ。もし出ていたら、こんなにお元気でお会いできなかっただろう。きっともっと早く、病に倒れることになっただろう。出馬しなくてよかったんだ>
そのときは、筑紫さんは笑いながらこう話してくれた。
「がんは、ほぼ撃退できたね。だけど、こいつはそうとうしつこいヤツでね、さっぱりと出て行ってはくれないんだ。だから、陰のほうでおとなしく飼っておくしかないみたいだね。ま、おとなしくしていてくれれば、それなりに可愛いヤツという気もするから」
だから、こんなに早く逝ってしまうとは…。
さて、本の話である。
200枚(400字詰め原稿用紙)以上の原稿を書き下ろすのはシンドイから、どこかに1年ほど連載をして、それをまとめようか、ということになった。これは、前著『ニュースキャスター』でとった方式と同じものだ。
テーマは「若い人たちへのメッセージ」。
『朝日ジャーナル』編集長時代や、大学の教師、そして番組の中でいろいろな若者たちと接しながら抱いた筑紫さんなりの想いを、できるだけやさしい言葉で伝えたい、ということだった。
打ち合わせの中で、タイトルは『若き友人への手紙』と決まった。いま思えば、それは筑紫さんが若者へこの国を託すための、心からの“遺言”だったのかもしれない。
鈍い私には分からなかったけれど、筑紫さんはご自分の最後の夢を、大人たちが理解しようとしない若者たちへの呼びかけ、という形で遺したかったのかもしれない。
連載は、集英社のPR誌「青春と読書」の2008年8月号から始まった。しかし、続かなかった。
体調を崩し、9月号は休載。
そして、10月号の「第二回」が、結局最後になった。多分、これが筑紫さんの活字に残した“絶筆”だろう。
最後の部分を、ここに書き写させていただく。
<実は、今月私が書こうと思っていたのは、流行語にロクなものがないとはいえ、なかでも世に現れたもののなかで最悪と私が思っているひとつの流行語のことでした。
KYがそれです。「空気が読めない」の略なんだそうです。
流行語にセンスがないのは今に始まったことではないのですが、なかでもひどいですね。頭文字を取った略称だと言うのなら、「空気が読める」と読むことだって可能です。
そんなことより何より気に入らないのは、この言葉の脅迫的なことです。
空気を読め、さもないとお前は時代遅れだぞ、仲間外れだぞ、とおどしている。そうでなくとも「命令型」でよかった日本語を「懇願型」の婉曲話法に変えていくほど心優しい若者たちが、この同調努力にどう耐えられるのだろうか――と私はまたお節介な心配をしています。
それどころか、この国の歴史のなかで、何を残し、何を捨ててもよいから、これだけはあなたたちに引き継いで欲しくないと私が思い続けて来たもの、それが「KY」に凝縮している思考なのです。
言うまでもなく、この国の歴史のなかでの最大、最悪の国家的失敗(破滅)は1945年8月15日に決着しました。なんでそんなことになったのかを辿るとやはり「KY」に行き着くのです。その話をもっときちんとできる「手紙」を書かないといけませんね。ではまた。(第二回 了)>
もっときちんと話を聞きたかった。第三回目の「手紙」を読みたかったですよ、筑紫さん…。
登録してある筑紫さんの携帯電話の番号を、どうしても消せないのです…。
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