080910up
「おっ、ひょっとするとひょっとするかも…」という、希望が持てそうな記事を見つけました。少し前の記事ですが、読んでみてください。
東海地震の想定震源域に建つ中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)を巡り、周辺住民らが中電に1~4号機(出力総計361.7万キロワット)の運転差し止めを求めた訴訟で、東京高裁(富越和厚裁判長)は2日、第1回口頭弁論(19日)で双方に和解を打診する方向を示した。和解案は1,2号機の稼動を停止する内容とみられる。裁判で原発の運転が停止された例は過去になく、和解が実現すれば他の原発の安全性を巡る議論にも大きな影響を与えそうだ。
関係者によると、高裁は既に8月、双方に対して非公式に和解を促しており、その際に「想定東海地震が発生し、欠陥がないことが確認されるまで1,2号機の稼動を停止する」とする和解案の概要を提示していた。このため、今後もこの概要を軸に調整を進めるとみられる。
住民側は原発の耐震性に疑問を呈したが、1審・静岡地裁判決(07年10月)は「中電の安全評価に問題はなく、設計上の安全余裕は十分確保されている」と請求を棄却。住民側が控訴している。(以下略)
(毎日新聞9月2日夕刊)
この日記でも何度か書いたと思いますが、日本(に限らず各国)の原発行政は、ほとんど闇のベールに包まれています。事故隠しはもちろんのこと、住民への懐柔に使われている金額も、周辺町村への補助金名目の落し金も、そして肝心の運転不具合や放射能漏れも、ほとんどが秘密。
メカニズムに関する情報開示要求には、「特許に触れるおそれがある」とか「企業秘密に属する分野は開示できない」などとして、墨塗りのペーパーが出されることすらあったのです。
住民側がそれに対し裁判に訴えても、ほとんどの場合、判決は門前払い。建設前の事例についてはそれなりの判決が出たこともありますが、運転開始後の原発の安全性については、裁判所は電力会社や政府行政の追認判決ばかりを繰り返してきたのです。
こと原発に関しては、「司法は当てにならない」というのが住民サイドや市民団体、研究者たちの偽らざる思いでした。
そんな状況に、小さいけれど風穴が開くかもしれません。
東京高裁が、浜岡原発1,2号機の稼動停止を、電力会社、住民側双方に和解提案したというのです。
ただ、これをバンザイと無条件で喜ぶわけにはいきません。「1,2号機の停止」というところが、ミソなのです。
実をいえば、これは電力会社や政府にとって、さほど痛い和解案ではありません。なぜなら、この2基は現在、停止中なのです。この2基、70年代に運転を開始しましたが、1号機は01年の配管破断事故で、2号機は04年に定期検査入りしたまま、どちらも運転が再開されていないのです。
定期検査に4年もかけ、それでもまだ運転再開できないということは、よほどの危険があると考えて間違いないでしょう。だから、こんな老朽化した原発は、もう廃炉にするしか仕方ないのかもしれません。
しかし、同じころに建設された老朽炉はほかにもあります。もしこの浜岡1,2号機を廃炉にするなら、ほかの原発周辺の住民からも、廃炉要求が出てきてもおかしくありません。
電力会社と政府行政は、どうしてもそれだけは避けたいのです。なにせ、政府の原子力安全・保安院は、定期検査期間をこれまでの13ヵ月から24ヵ月へと延長しようとしているくらいなのですから。
廃炉にはしたいが、自分からは言い出したくない。そこへいいタイミングで高裁からの和解勧告。中電がこの和解に乗ろうとしても、おかしくはないのです。
それでは原発反対派には、なんのメリットもないではないかというと、そういうわけでもありません。少なくとも、裁判の場で、老朽化した原発の停止が勧告されたということは、画期的なことだからです。
実は、この浜岡原発については、昨年の10月16日に静岡地裁で、とてもひどい判決が出されていました。報道関係者や研究者の間で「少なくとも老朽化の著しい1,2号機は、運転差し止めが認められるのではないか」という観測がなされていました。裁判所が、それまで行わなかった現地調査にまで踏み込んだことも、その観測を裏付けていたのです。
しかし結果は、住民側の全面敗訴。
「設計上の安全余裕は、国の耐震指針に沿って、十分に確認されている」というのが判決理由でした。しかし、その「耐震指針」は、もうすでに古くなっており、新しい指針が作られていました。つまり、旧指針は現状に合わなくなっているというので、新指針が政府によって作られたのです。
その「新基準」を無視し、政府でさえもこれではダメだと認めた「旧基準」には合格しているから、運転してもかまわない、というまったく乱暴な判決でした。
なぜ新指針が作られたのか。それは、旧指針が十分ではなく、安全性を完全には保障できないからでしょう。
それなのに、この静岡地裁判決は「新指針は、旧指針の安全基準をなんら否定したものではない」から、「旧指針に合致すれば運転してもなんら問題はない」としたのです。こんなデタラメな判決も珍しい。さすがに、多くの識者や研究者から批判の声が上がりました。
それを踏まえての、今回の東京高裁の和解勧告になったものだと考えられます。
裁判所自体が、あまりの理不尽な判決に、少しだけ疑問を呈した。そういうことではないかと思うのです。
司法が、運転停止中とはいえ既存の原発に、初めてストップをかけようとしている。
だとすれば、ほんの少しではありますが、希望が持てるのかもしれません。もろ手を挙げて喜ぶところまではいきませんが、それでも少しだけ…。
私の故郷は、秋田県南部の田舎町です。人口4万人にも満たない小さな市だったのですが、いわゆる平成の大合併で、妙に面積だけは広い市になりました。(あの合併は、何か良いことがあったのでしょうか? 故郷で聞いてみても、ひとりも良かったなんて言っている人はいなかったのですが)。
その故郷へ、数日、所用で帰省しました。
帰りがけ、となりの岩手県の知人宅に一晩お邪魔しました。「マガジン9条」で大人気だった「やまねこムラ」の村長さん宅です。村長さん、とてもお元気でしたよ。
焼酎を呑みながら、いろいろとお話しました。とても楽しかったです。
夕方、ふたりで近所を散歩しているときに、偶然、知り合いの農家のお葬式がありました。
「こうして人が減っていくんですよ。私みたいに、ほんとうに稀れに就農してくる人間もいますが、亡くなって跡継ぎもなく、農業を辞めていく家のほうが圧倒的に多い。だから、必然的に農家は減って行きます。ほら、ここにも空き家があるでしょ。
地域で道や学校のグラウンドの草刈のボランティアをやるんですが、その時に集まってくるのは、みんな70、80のじいさんばあさんばっかり。若い人なんてまるでいません。この人たちがいなくなったら、ここの農業は壊滅します。
中国産の食糧がどうだこうだと言う前に、まず、足もとのこういう地域の農業をどうするかを考えるのが、ほんとうの農政だと思うんですけどねえ」
まったくその通りです。
私の故郷でも、このやまねこムラ周辺でも顕著なのは、走っている車に、やたらと「紅葉マーク(通称)」が多いということです。ご存知のように、これは高齢運転者(75歳以上)に表示を義務付けられた標識です。つまり、このマークが目立つということは、75歳以上のドライバーが多いということです。
「この地域でも、もう車がないと生活していけませんね。近くにはほとんど店がない。どうしても車で街へ出かけて買い物せざるを得ないんです。
まあ、食料のほとんどは自給自足できますが、その他のものはやはり買う必要がありますからねえ」と村長さん。
私の田舎には、高規格のバイパスが町外れを走っています。そのバイパス沿いに、巨大なショッピングモールが建ち並んでいます。わが実家のそばの小さな酒屋兼スーパーは、ついに半年ほど前に閉店したということです。品揃えも値段も、そんな巨大店舗にかなうはずもなかったわけです。
駅から続く古くからの商店街は、壊滅状態。ほとんどシャッター街の様相です。したがって、買い物はすべて、そのショッピングモールまで出かけなければならないことになりました。町外れのバイパス沿い、高齢者にはとても歩いて行ける距離ではありません。車なしでは、高齢者は生きていくことさえ困難になりつつあるということです。
近所同士で助け合って車を出し、買い物ツアーを組んでいる、なんて話も聞きました。
さらに追い討ちをかけるように、不必要とも思える新しい道路が完成し、そこにもっと巨大なモールが建設中です。ここにはシネコンプレックスまでできるそうです。
かくして、今度はショッピングモール同士の熾烈な争いが始まります。
なにしろ合併しようがどうしようが、地域人口の絶対数は減り続けているのです。つまり、買い物をする客の絶対数は増えていない。そこへ巨大な店がどんどんオープンする。小さな個人商店など、象の足もとの蟻にも及ばない。買い物をする老人の利便性など、まったく歯牙にもかけられない。
それが、この国の地方の、どこにでも見られる現実です。
後期高齢者医療制度や老人保険、年金だけの問題ではありません。農業も、地域での生活も、ほんとうに追いつめられているのです。「地域で支えあって生きる高齢者」などというのは、単なるお題目であり、もはや絵に描いた餅です。
75歳を過ぎた老人が運転する車が、紅葉マークとともに今日もトコトコと道を走っていきます。
「危ないからもう運転をやめなさい」というのは簡単です。しかし、それに代わる交通手段や買い物への利便性を提示もせずに、そんなことを言うのは酷すぎます。
政治が、泣いています。
降って湧いたような突然の辞任騒ぎと、それに続く後継者選びに、世の中、けっこう“やかましい”。
危惧していたように、メディアは、「麻生か小池か与謝野か、はたまた石原か」などと政策なんかそっちのけの報道ぶり。
たしかに、これらの人たち、テレビに出ずっぱりになれば人気も高まるでしょう。メディア嫌いでぶっきらぼう、笑顔などほとんど見せたことのない小沢一郎民主党党首と比べれば、この人たち、明るいし、美しいし、政策通らしいし、若いし、小沢氏よりも華があると言えます。
ほかにも立候補しそうな方が、続々と名乗りを上げています。石破茂氏、山本一太氏、棚橋泰文氏…。
その中では、山本氏と棚橋氏は、20名の推薦人を集めることができずに退場、となったようですが、なんだか自民小学校のクラス会の級長選びみたいな様相を呈してきました。
この人たちで大丈夫なのか、日本は?
夏の盛りを過ぎた蝉の、最後の大合唱のようにも聞こえます。
無風三選で小沢氏に決まった民主党党首選に比べ、これらの人たちが、連日のようにテレビに顔を出せば、少なくとも、メディア上での勝負はついたも同然。その気配は、ワイドショーなどを観る限り、かなり濃厚です。
そしてまた、私たちは、あの小泉旋風の轍を踏むことになるのでしょうか。
前項で書いたように、地方の生活は、ほんとうに破綻に瀕しているのです。それらをよそに「小泉改革の継承を」などと唱える候補者には、吐き気すら覚えます。これほどの地方の疲弊をもたらした大きな原因のひとつは、紛れもなく「小泉改革」だったではありませんか。
それをもっと拡大しようというのでしょうか。
政治家は、特に総裁候補に立候補しようというほどの人物ならば、ほんとうの田舎町で、少なくとも1週間ほどは、ひとりで暮らしてみてから「政策」を作り上げてほしい。そうでなければ信用なんか出来ません。
でも、1晩で200万円もの豪遊を、銀座などでしていると報じられた麻生氏には、そんな地方の痛みなど分かるはずもないでしょう。ほかの候補者たちはどうなのでしょうか。
少し、気が重くなっています。
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