きな臭いニオイがする、とこのコラムで何回か書いてきました。しかし、とうとうここまで来てしまったかという思いです。
ニオイの元を辿っていくと、そこについにブスブスと煙が見えた、ということです。その下には、多分、小さな火が見えるでしょう。それが大きくなってしまってからでは、もう消しようがない。
戦前に「国家総動員法」という法律がありました。国民のすべての力と資源とそして人的資産とを、根こそぎ戦争遂行のために「動員」しようというものでした。
それを実現するために、当時の政府は行政のあらゆる機関を、それこそ手足として使いました。市町村などの地方末端行政組織は、お国のため、というスローガンのもと、徹底的に戦争遂行のために利用されたのです。
そのとき、先頭に立たされて国民を縛る役目を担ったのは、市町村などの地方行政組織であり警察であり消防であり、そして軍隊でした。
似ていませんか?
戦争という煙などどこにも見えないこの国で、なぜ単なる「精神論」にすぎないようなマニュアル(などと横文字にするところが胡散臭いのですが)を作らなければならないのでしょうか。
そういう疑問を呈すると、即座に「有事のときの備えは必要ないと言うのかっ!」という威丈高な反論が飛んできます。
しかし、こんな精神論マニュアルが役立つとはとても思えない。ミサイルが発射されてから、着弾予測地域に最大音量のサイレンを鳴り響かせてどうなるのでしょう。「屋内への避難を呼び掛け」た後は、屋内でミサイルの爆発をじっと待て、とでも言うのですか?
これが有効な対策だと、このマニュアル作成者たちは本気で思い込んでいるのでしょうか。
それにしても不気味な状況。ウオォ〜ン、ウオォ〜ンと不吉な音が夜空に響く。人々は、灯火管制の闇の中を逃げ惑う。
幸いなことにツッコミ人は、映画や小説の中でしかそんな場面を知りません。しかし、こんなマニュアルを読んで暗い記憶を掻き起こされる年配の方たちは、いったいどう思うことでしょう。
「現地調整所」とは、戦闘の際の指令所です。もし本当に戦闘が起きたとき、国民保護などという概念は必然的に後回しにされます。
軍隊は、国民を守ってなどくれないのです。旧満州での関東軍や沖縄での日本軍の行為が、そのことを証明しているではありませんか。
そんな有事を起こさせないようにするのが、政府に課された役割なのです。危機的事態に陥らないように、近隣諸国との軋轢を生まないような外交を展開するのが政治というべきでしょう。
北朝鮮とはもちろんのこと、中国や韓国ともギクシャクしたまま。尻尾を振り続けたアメリカにさえ、国連安保理常任委の問題ではあっさりとヒジテツ。片思いさえ実らなかった。ほかの諸国にも見放され、国連総会で赤っ恥をかいたのは、どなただったでしょうか。
さらに、沖縄の米軍基地に関しては、小泉総統はほとんど興味なし。だから外務省・防衛庁の迷走は止まらない。だって、ボスがしっかりした方針を立ててくれないのだから、現場は交渉のやりようがない。失敗して怒鳴られるよりは、なーんにもせんほうがいいもんね、とばかり洞ヶ峠を決め込む。
戦略のないところに戦法なんかあるわけがない。だから、沖縄は自国の領土内であるはずなのに、アメリカから「移転先の基地は、ここはイヤ、あっちがイイ」などと勝手放題を言われても、なす術がないのです。竹島などの領有権を言う前に、まず沖縄の領有権を確立して欲しいものです。
つまり、こんな状況にある日本国政府が言い出した「国民保護」なるものを、額面どおりに受け取るわけにはいかないのです。その裏側に、なんらかの思惑があると、勘ぐらざるを得ないのです。
なんでもできる現在の国会状況の中で、とりあえず懸案となっているものは今のうちに全部片付けてしまおう、という意図が見え隠れしている。そう感じるのはツッコミ人だけでしょうか。
でなければ、稀代の悪法とも言うべき「共謀罪」が、今頃突然、国会に提出されようとする理由が分かりません。
共謀罪もそうなのですが、とにかく国民を縛りつけ自由を奪おうという政策が、「自由嫌いの自由民主党」筋からやたら出てくる。
最後の総仕上げが、やはり憲法9条の改定なのでしょう。
そこへ至る種が、与党によって蒔かれ続けています。ひとつずつほじくり返して陽の目にさらし、枯れさせていかなくては。
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