「《憲法というのはその国の広告だ》と私たちは考えたのです」。
7年前の2006年6月、「マガ9」が、天野祐吉さんにインタビューをした際、天野さんが語った言葉です。
「9条なんて最大の広告ですよ。だって、日本ってどういう国ですか、と外国の人に聞かれたときに、昔は『フジヤマ・ゲイシャの国』だったのかもしれないけど、富士山はともかく、もう『ゲイシャ』を売りにする時代でもないでしょう。『戦争を放棄した憲法を持つ国です』というのが一番わかりやすいんですよ。特に前文は、日本という国はこういう国ですということを端的に広告する、見事なコピーになっている」
広告を批評するというジャンルを生み出し、長年その仕事に携わってきた天野さんらしい視点に、私たちはハッとしたものです。
さてそのように考えた時、今安倍政権がやろうとしている、解釈改憲で集団的自衛権の行使を可能にしたり、武器輸出三原則を緩和したりといった行為は、どうみても「広告に偽りあり」ということになるのではないでしょうか。長らく「平和憲法」という広告を掲げて、その広告のおかげで様々な恩恵も受け、経済発展も遂げてきた日本ですが、同じ広告を掲げながら、まったく違う中身の国になってしまうことには、大きな違和感を持ってしまいます。そういえば、広告主は主権者である私たち国民ではないのか? その意見も聞かずして…という疑問も湧いてきます。
インタビューの最後を天野さんは、次のような言葉で締めくくりました。「僕にとっては、9条はある意味で自分の、日本人としてのアイデンティティみたいなもの。これが失われてしまったら、どこで日本人としての心の居場所を見つければいいんだろうと思う。9条を変えようとする動きに反対するのは、だからなんです」。
憲法をないがしろにしようとする勢力に対して、私たちはどうしていけばいいのか。伝わる言葉をどうすれば獲得できるのか。天野さんのインタビューを読み返しながら、考える日々が続いています。
(水島さつき)
憲法9条の問題と、日米安保の問題は、両方とも大切だと思います。
どちらが欠けても、片手落ちです。
米軍基地があるから日本は平和が保たれているのか?
米軍基地があるからかえって危険にさらされているのか?
私はマガ9で紹介されていた『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」 』を読んで、後者だと思いました。
憲法9条を守ることとアメリカの影響力を小さくしていくこと、この2つを両輪で行う必要があると考えます。
存在しない大量破壊兵器のためにイラク空爆する国のトモダチとやらをやりながら、平和憲法を守るのは、どう考えてもおかしいです。
残念ながら広告がすべて正しいとは限りません。9条という広告が、「日本は丸腰」という誤ったメッセージを伝え、北朝鮮による拉致や、竹島侵略、尖閣への野心を招いたこと、または招いた可能性があることも考えなければまりません。
>同じ広告を掲げながら、まったく違う中身の国になってしまうことには、
>大きな違和感を持ってしまいます。
いえ、そうでしょうか? 伊勢崎賢治氏の「(一国平和主義を脱却しなければ)我々はずっとこれから(米国にもたらされた)「幻想の平和」の中で、それを自分達が作り出したと勘違いしながら生きていく」という指摘、つまり「平和憲法」という広告と中身の乖離は憲法発布当時から継続しているという指摘が真実ではないでしょうか?
要は戦後から「一国平和主義」を一貫している日本が、「まったく違う中身の国になる」という事はありえません。
「積極的平和主義」などといっても、日本が自国民の犠牲を甘受しても他国の不幸に介入してもよいという世論は形成されておらず、故に安倍政権の「右傾化」も「一国平和主義」の延長線上に展開されるのは必然でしょう。
一方、「まず総理から前線へ」という天野祐吉氏の反戦広告も、「総理も兵士も誰も紛争地域には行かない」という完全なまでの「一国平和主義」の表明。体制側もリベラルもこの有様では、日本とも米国とも一定の距離がある国の人々からすれば、私たちは「戦争を放棄した憲法を持つ国です」などと偉そうに広告しても、(口には出さないかもしれませんが)即座に「広告に偽りあり」と批判されているのではないでしょうか?
まずはそういった危機感からスタートしなければ、憲法をないがしろもヘチマも無いと私は思います。
ところで「武器輸出三原則の見直し」について、リベラル系新聞の社説などで「戦後築いてきた平和国家としての地位を自ら手放すことになりかねない」と批判しますが、日本に「平和国家としての地位」などあるのでしょうか?
先日、韓国のフィリピンへの戦闘機輸出に関して、(軍事兵器を売らないようにとの)中国の要求を韓国が拒否したと読売新聞が報道したのに対し、韓国大統領府報道官は「この報道には根拠がない。意図的に中韓関係を壊そうとしている悪質な報道だ。ジャーナリズムの原則に違反している」と猛烈に批判しました。
とはいえ、「平和国家」ならば近隣諸国の武器輸出に高い関心を持つのは必然なのに、この言われようをされるようでは、果たして「地位」などあるのでしょうか? そして日本の平和主義者はこのような事に馬耳東風です。
加えて、中国の兵器に日本の電子部品が使われまくっているというニュースがありましたが、これまた、「紛争当事国への流出を完全に阻むのは難しく、国際紛争を助長する方向で転用される懸念も拭えない」と批判する日本の平和主義者には馬耳東風です。 http://blogos.com/article/71436/
「武器輸出三原則」を厳守せよという人々の認識がこの有様では、それを「見直し」されてしまうのは必然です。
まずは「武器輸出三原則」を問い直し、その存続が世界の平和構築に有益であり、したがって日本の国益にもなるということを、一般人にも分かりやすく「広告」をしなければ、一般人に無関心のまま「見直し」されるでしょう。
たくさんのコメント、ありがとうございます。ここも、いろいろと話したいところですが、とりあえず、「マガ9の動画」伊勢崎賢治さんの動画を見てみてください!http://www.magazine9.jp/movies/
伊勢崎さんは、9条のブランディングという言葉をよく使いますが、「平和憲法の広告イメージ」という話ととても似ているし、実際に、海外の紛争の現場にいた先生が、実体験からそう語ってらっしゃるので、9条の広告効果は、ある程度はこれまで、ずっとあったんだと思います。動画、最後のチャプター、是非、たくさんの人に聞いて欲しいので、良かったら広めてください!
>9条のブランディングという言葉をよく使いますが、「平和憲法の広告イメージ」という話ととても似ている
:
伊勢崎さん曰く、「美しい誤解」というものですね。 しかし伊勢崎さんは、「日本国憲法は、幸か不幸か、どういうわけか日本国民を非常に矮小な範囲で平和を考える(ようにした)。そしてリベラル、保守、右、左のイデオロギー対立の中で、(双方が)世界で起きている問題をつまみ食いして理論武装して使う。そういう印象を受けていて僕は嫌いですね。それは多分、リベラルの方がけっこう強いかと思う」という趣旨の話を動画でおっしゃっています。
そういった「つまみ食い」を続けている事で、「平和国家」という広告そのものをぶち壊しにしてしまったのでは?
天野さんも「どこか遠い感じ」などと婉曲的に言われた、「憲法を変えると徴兵制の復活につながる」という類の広告ですが、この様な「体制批判の為の武器」として殆どのリベラルが考えなしにそれを用い続け、実質、伊勢崎さんだけが「世界平和の為の平和憲法の運用法」を考えている有様が継続した結果、「9条は日本の戦犯の証」という広告効果をとりわけ近隣諸国に与え、東アジア全体がナショナリズムで狂奔する事態に陥ったのでは?
何れにせよ近隣諸国に「平和の為の提言」をいくら日本側がしても、一顧だにしないだろう事は周知の事実です。
先ずは「つまみ食い」を止め、「戦犯国家」という広告を「平和国家」という広告に転換する努力をすべきでしょう。
9条の広告効果はあるよ。
憲法が誰から誰に宛てた手紙かを考えりゃすぐわかるでしょ。
俺も何か言葉を引用しよう。元のページはもうないからうろ覚えで悪いけど、名もなき一般人の言葉だ。
「テロと戦争は違う。戦争が起こるか否かは国の親玉が開戦のスイッチを押せるか否かだ。日本は押せない。だからこれだけで戦争の確率は二分の一。もちろん世界にスイッチがひとつもなければ紛争は決して戦争には発展しない。意訳だが、平和憲法に込められた意味とはこれのことだ。」
よその国の親玉だって日本の憲法が戦争放棄をうたっているのはよーく知っている。だからどんなに相手を罵り挑発しても決して手だけは出せない。
だって今も昔も喧嘩の仲裁者が始めに聞くのはこの言葉でしょ。
「先に手を出したのはどっちだ?」
「先に手を出したのは向こうです」って先に言われちゃってるんだもの。日本に戦争をしかけたところで何の利益もない。世界に非難されて損をするのは自分自身だ。
それでも日本に非があるとしたら、それは「過剰防衛」のケースだけだと思う。
だから集団的自衛権という名のセキュリティーホールをわざわざ自分で作ろうなんてのは、憲法が持つ広告効果を捨て去り「武力によらない防衛力」を無効化する行為に当たる。こりゃ主権者としては見過ごせないね。
国同士いろんな付き合いがあるからなんとか力になりたいのもわかるけどさ、それぞれの国にそれぞれの役割があるんだから、わざわざ相手が得意としている力を選んで貸す必要ないでしょ。
それに日本は決して戦争をしないけど、同じ目標を掲げているはずの国連の常任理事国が、あたかも戦争を翼賛するかの如く武力介入ばかりしているのにも理由がある。国連憲章をググれば前文だけで日本国憲法との違いがはっきりわかるよ。セキュリティーホールなんて案外簡単に開いてしまうもんだ。
この国の平和だってタダで勝ち得た訳じゃない。多くの血を流した後に戦って手に入れたものだ。
それは勿論「日本」対「外国」の話じゃない。「人間」対「国家」の戦いだ。
先の大戦で血を流した多くの先人達が、二度と国家の犠牲者を出さぬようにと突きつけた命の権利書。
国の中と外から同時に国作りをする機会などもう二度とあるまい。
その恩を簡単に忘れるような礼儀知らずでプライドのない国家など命がけで守る価値もなかろうよ。
俺は受けた恩をなかなか忘れないタチなんだ。例えそれが生まれる前の出来事だったとしてもね。
貰った優しさの分だけ寿命が伸びたよ。ありがとう。
そんな性質に共感を以て日本人のアイデンティティと呼ぶならそれでも構わない。どうぞ都合の良い呼び方で。
俺の心は俺だけが知っているし、それは今も憲法に守られているんだから。
ん?何か間違えたぞ?
「憲法9条は日本人にとってのアイデンティティ」とはどこにも書いてないな…。
まるで俺だけが日本人代表みたいな書き方…カッコつけるといつもこうだ。
まあいいや。失敗は誰にでもあるよね。(笑)
さてと。
ついでに言うなら百年前ならいざ知らず、現代じゃ武力で領土を奪っても何の特にもならないんだ。どんなに侵略をしようが人の量対資源の比は変わらないのだから、その方法じゃ豊かさは永遠に得られない。
太平洋戦争では領有権を巡って領土を奪い合った。でもこれは間違いだった。
経済戦争では架空の資本を巡ってバブル資産を奪い合った。でもこのトリックは暴かれてしまった。
少し頭の回る奴なら他国の民は他国の責任のまま自国の民だけが潤う方法を考える。
資源の総量が変わらないのなら貯えのある者が生き残る。
貯えがあるとはすなわち持続する利得があるということ。
つまり次に来るのは「仕事」の奪い合い。そのために一番有効なのは人手でも領土でもない。多分「権利」だよ。
そのための下準備がたった今も行われているんだと思う。
仕事を競い合う事自体は別に悪いことじゃないからね。何にもしないで飢えるより新しい未来を望むほうが人類にとっては幾分かましなんだろう。
良くなるのか悪くなるのか、なーんにも変わらないのかはわからないけど、ひとたび行き先を見誤ると食ってくのは今より大変になるのは確かじゃないかな。だって既に多くの仕事は「人ではない何か」が代行しているんだもの。
農業は国が保護するって断言したから大丈夫。
困るのは何の準備もしなかった俺を含めた「それ以外」の人々。
そんな気がしてる。
勿論、単なる想像でしかないから「いざ蓋を開けてみたら全然違うじゃないか」なんて怒らないでね。