髪の毛や草花は風に吹かれると、一方的になびくだけではなく、それに抗しようとする力も働く。そういう動きもきちんと表現しないといけない――先日、引退を発表した映画監督の宮崎駿さんが、かつてインタビューでこんな趣旨のことを話していました。
私たちの目に見えない風は宮崎アニメの重要なモチーフです。彼の最初のオリジナル劇場映画『風の谷のナウシカ』は、風車がところどころに立つ山間の村が舞台でした。しかし、美しい自然に恵まれた風の谷は「火の7日間」と呼ばれる最終戦争の後、辛うじて残された人間の住むことができる地。近くには瘴気(しょうき)を発する腐海が広がっています。
2020年の五輪開催地は東京に決まりました(それにしても各国オリンピック委員会から有形無形の接待を受けるIOC委員っていったい何様なのでしょう?)。『マガ9スポーツコラム』でイスタンブールを予想し、見事に外した私は、五輪開催地の選考と福島第一原発からの汚染水流出が同時進行するなか、『風の谷のナウシカ』の様々なシーンを思い出していました。
腐海を福島のメタファーとして見るつもりは毛頭ありません。私たちにとって、放射性物質という「瘴気」を意識しながら生活することはすっかり日常になっています。2020年の日本は、4人に1人以上が65才を超える世界最先端の高齢化社会になっているでしょう。とすれば、住民の中心が老人たちである「風の谷」は日本と重ねて見ることができるのではないか(これは内田樹さんと高橋源一郎さんが季刊誌『SIGHT』の対談で語っていたことでもあります)。
そんな場所に、ゼネコン主導によるたくさんのハコモノは似合わない。ギリシャがアテネ五輪後に経済危機を深化させていったことも忘れてはなりません。
国が経済成長をひた走っていた1964年の東京五輪や2008年の北京五輪の時とは別次元の、「風の谷」を舞台とするようなコンパクトシティのオリンピックが東京で開催できないか。
宮崎監督は記者会見で、子どもたちに「この世は生きるに値する」ことを伝えるのが自分の仕事の根幹にあると語っていました。
生きるに値する世とはどういう世界か。それを考える時間を私たちは7年もらったと考えるべきだと思います。
(芳地隆之)
宮崎さんは軍事おたくで有名です。軍事おたくが反戦主義者というのはおかしいと思いませんか?
そして、最新映画は軍事兵器 ゼロ戦を「美しい」という大変危険な内容です。
太平洋戦争前、文学者・画家、音楽家など、文化人がこぞって戦争を美化し、戦争に協力しました。
新作「風立ちぬ」もその流れにあると私は感じました。
もし、本当に反戦主義者だったら、最後まで戦争に反対した反骨のジャーナリストなどを映画の題材にするはずです。しかし、宮崎さんは、軍需産業の側から戦争を描きました。
尖閣問題が過熱し、憲法改悪論議が高まる中、戦争美化には絶好のタイミングの劇場公開でした。
それに対する言い訳はいくつでもつくれるでしょう。
でも、何かおかしいと感じませんか?
テレビや雑誌の評判を鵜呑みにしないで、自分の意見をもつべきだと思います。
戦争を美化する人が考える「生きるに値する世」は「戦争」でしょう。
宮崎さんの映画には共通して、不気味さを感じます。これを芸術性と錯覚する人もいるのかもしれませんが。
宮崎さんの作品は賛美される傾向にありますが、もうそろそろその危険な本質に気づいても良いのでは?
私がひねくれているだけなのかもしれませんが・・・