先週の「時々お散歩日記」で鈴木耕さんが憲法9条の起源はパリ不戦条約にあると指摘されているところを読み、私は思わず膝を打ちました。20年ほど前に、日本国憲法の理念は一国平和主義みたいなこととは違うのではないかといった趣旨を拙著(『壁は必要だった』新潮社)に書いたことがあるのです。
19世紀までは地上戦が中心だった戦争の形態は、第一次世界大戦における戦闘機の登場で、その空間を三次元にまで拡大し、第二次世界大戦時に開発された核兵器が瞬時に数十万人の命を奪うことを可能にしたことで、戦争の構図は国家対国家という枠を大きく逸脱した。そうした時代に応えるべく生まれたのが戦争放棄をうたう日本国憲法なのではないか。そんなふうに論じたのですが、いま読み返すと稚拙で青臭く(だから売れませんでした)、鈴木さんのコラムを読んでようやく自分のなかで整理できた次第です。
9条が現実的ではないとか、国際情勢に合わないと批判されるのは、国民国家を超えるべく起草された憲法が、国民国家の側から厳しい視線にさらされるからでしょう。致し方ないのかもしれません。
しかし、東西冷戦の終焉から20年を経て、グローバル化は急速なスピードで進んでいます。国境を越えた資本の移動は、ときに国民経済を翻弄し、貧富の格差を広げ、国民国家が成り立つ基盤を揺るがすまでになりました。とすればボーダーレスの日本国憲法が、その有効性を発揮するのはこれからだと言えないでしょうか。
拙著で私は、ドイツの社会学者、ユルゲン・ハーバーマスの、ベルリンの壁崩壊により押し寄せる大勢の難民をドイツが受け入れることと、ドイツの憲法(基本法)との関係についての発言、「(受け入れ国内部には)新しいさまざまな生活様式が定着し、それによって、市民が自分たちの憲法上の諸原則を解釈する地平も拡大する」を引用しました。
ハーバーマスが言いたかったのは、多様な文化を背負った人々に読まれることによって、憲法がより豊かでグローバルな意味を帯びるようになる、ということであり、そうした考え方を、彼は「民族主義に拠らないパトリオティズム=憲法愛国主義」と名づけました。
将来的に少子高齢化が進行する日本にあって、それでも経済成長を目指すのであれば、移民を受け入れることは避けられないでしょう。日本はグローバルな視点をもった国の規範が求められます。そのとき日本の憲法が内向きなものであってはいけないと思うのです。
(芳地隆之)