のようなものが戦後の日本人にはあったと思うときがあります。それは「相手に与える安心感」あるいは「相手に『日本人は信頼できる』と思わせるもの」といってもいいかもしれません。
私は外国で「自分が日本人」であることでいい思いをしたことの方が、そうでなかったことよりも多かった。ベルリンに留学していた若かりし頃は、ロシアや東欧、ドイツの女子学生に何かと親切にしてもらい、「俺ってモテるの?」と思ったことがあります。
それが「大いなる誤解」であることはすぐに判明しました。彼女たちは「私」にではなく、上記のような「日本」に対するよきイメージをもっていたのです。何ともおめでたい誤解でした。
そんな話を以前、海外赴任の長い方にしたら、彼は「日本人男性は『国際競争力』がないんだよなあ」とぽろり。彼の言う「競争力」とは「モテる」と同義語。そして「日本人女性はモテるのに……」という言葉とセットでした。
どうしてか? 2人で議論しました。出た結論はこうです。
日本人女性の多くは、男性優位社会に適応しながら生きていかざるをえない。それは彼女たちにとってハンデだけれども、海外生活においては異文化への耐性となり、そこが男女同権意識の進んだ国ならば、水を得た魚のように生き生きとしている。一方、日本人男性は国内でアドバンテージがある分、時にはプライドが邪魔して、現地の社会に溶け込むのが難しい。
ずいぶん荒っぽい分析ですが、日本維新の会の綱領の一節、「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法云々」を読んだ時、当時の会話を思い出しました。
この文章に、私はそれを書いた人の個人的な恨み辛みのようなものを感じます。というのも上記のような対日イメージのよさと、この文言があまりにもかけ離れているから。書き手は自分が「孤立と軽蔑の対象に貶められた」と思った経験があるのではないか――そんな風に想像してしまうのです。
自民党の改憲案にも、政治家の心情と日本国民のそれがごっちゃに語られている印象を受けます。安倍首相の「憲法を国民の手に取り戻す」は「憲法を私の手に入れたい」とさえ聞こえる、といったら言い過ぎでしょうか。改憲案に国民を縛るかのような文言が多いのは、そうした姿勢と関係があるのではないかと勘繰ってしまうのです。
戦後の日本人が身につけていた「平和のフェロモン」がだんだん失われていく――先週そんなことを考えていたら、日本維新の会の橋下徹共同代表による旧従軍慰安婦制度の容認や在日米軍への風俗利用の奨励発言のニュースが。
「ああ、これで日本人男性の国際競争力は地に落ちた」と思いました。
(芳地隆之)