先般、テレビで放映されたNHKスペシャル『縮小ニッポンの衝撃』の冒頭、東京都豊島区が取り上げられました。同区では、2020年に開催予定の東京オリンピック需要で増えている公共事業に、地方から出てきた青年が集まっているそうです。地元に仕事がなく、東京に出てきた彼らの多くは、東京生活を始めるに当たって、とりあえず、という感じで道路工事の現場で交通整理などするのですが、その後の求職がうまくいかず、そのまま年齢を重ねていく。そうした単身世帯が増えれば、豊島区の人口も税収は減少していき、存続が危ぶまれるという説明でした。
日本全体の人口が減少しているなか、唯一、東京圏だけが年間約11万人の転入超過という「ひとり勝ち」の状態ですが、近い将来、この大都会では、地方とは比べものにならない規模とスピードで高齢化が加速していきます。
新国立競技場の巨額の建築費、東京オリンピック招致に関する裏金疑惑、あるいは豊洲新市場予定地の土壌汚染など、はたしてこのまま東京でオリンピックを開催して、住民がハッピーになるのか。大騒ぎの祭りの後に、閑散としたハコモノが所々にさびしく点在している風景を私はつい想像してしまいます。
多くの地方では、もうハコモノはつくらず(お金もないので)、空き家や廃校を利用するなど、資源をリユースしているところが少なくありません。増えていく高齢者、減っていく子どもたちのためのコミュニティを手作りしていこうという動きが徐々に広がっているのです。
人口減少と経済成長の鈍化の下、ある地方の小さな町で、商店街をどうやって持続可能にしていくのか、という課題に住民たちが取り組む姿は、冒頭に紹介した『縮小ニッポンの衝撃』に登場する、集落の人たちが各家の水道メーターのチェック(独居老人の見守りも兼ねる)をするなど、行政サービスを肩代わりしているそれとも通じます。
明日の東京で起こり得る問題を地方がいま解決しようとしている。それが現状なのではないでしょうか。
一国で起こる大きな変化、あるいは革命は、中央ではなく周縁から始まることがしばしばです。4半世紀前の東欧諸国の体制転換を思い起こせば、ポーランドではワルシャワではなくグダンスクで、東ドイツでは東ベルリンではなくライプツィヒで、ルーマニアではブカレストではなくティミショアラで起こった変革への動きが国の根幹を揺るがすまでに広がりました。
今の日本における地方の動きは反政府的なものではありません。ただ、地方がなくなったら東京は困るけれど、東京がなくなっても地方は(少なくとも)生きていける、ということを、東京にいる人間は謙虚に受け止めなければならないと思うのです。
傲慢は自らを滅ぼしかねませんから。
(芳地隆之)