シリアなど内戦が続く中東地域を逃れ、ドイツをはじめとする西欧諸国へ難民申請しようとする人々が、その途上の地であるハンガリーの首都、ブダペストの東駅に溢れかえっている映像を見た私は、26年前の夏にそこにいたことを思い出しました。
当時、東ドイツに留学していた私は、夏休みを利用して、ドイツの友人たちと、東ベルリンから列車でブルガリアの黒海沿岸の町、ブルガスまで、何日もかけて旅をしていました。その帰り、ブルガリアとルーマニアの国境でトラブルに見舞われ、一時期、ルーマニアへの入国を拒否された私は、先に発った友人たちとの待ち合わせ先として、ブダペストに1日遅れで入ったのです。
ブダペスト東駅に着いて、まず入ってきたニュースが、「東ドイツ市民約600人が西ドイツへ向かうため、ブダペストに集まってきた」というものでした。当時、東側陣営でも比較的自由化が進んでいたハンガリーは、この年の春、オーストリアとの間の国境にあった鉄条網を撤去しており、私がブダペストに到着した数日後、多くの東ドイツ市民がオーストリアを経て、西ドイツへ向かったのです。
そして約四半世紀が過ぎた今、ブダペスト東駅が再び安心と豊かさを求める人々の中継地として注目を集めています。しかも、問題はよりグローバルに。
東ドイツ市民が西ドイツへ向かう流れは、結果としてベルリンの壁崩壊、ドイツの統一、冷戦の終焉、そして欧州連合の拡大へと歴史を導きました。
今回の人の移動は欧州に、そして世界に何をもたらすのでしょうか。
多くの難民が向かう先のドイツにおいては、難民申請者に対する反感が高まる懸念はありますが、同時にかつての植民地政策や武器の輸出など、自らが内戦の原因と無縁でないという意識、苦しみを分かち合おうとする姿勢も人々のなかに生まれると思うのです。
限られたパイの奪い合いを続けている限り、持続可能な世界はありえない。欧州のリーダーたちの賢明な判断に期待したいという気持ちです。
それにしてもオーストリアは不可思議な国です。国民の大半がナチスドイツによる併合を受け入れながら、戦後は中立国の立場を得ました。資本主義陣営に身を置きつつ、首都ウィーンは当時のチェコスロバキアの首都プラハよりも東側に位置していることもあり、人口わずか176万人のこの町には東西の様々な情報が錯綜していたといわれています。
私は難民の人々がハンガリーからオーストリアへ向かう映像を見ながら、映画『第三の男』を思い出すと同時に、歴史の転換点を感じずにはいられませんでした。
(芳地隆之)
難民はかわいそう(迷惑)だから難民を出している大元を叩きましようってことで,
フランスがシリアに軍事介入するみたいですね。他も同調するのかな。
中東をおかしくしたのは欧州ですから,その人達にきっちり責任をとってもらいましょう。